第十話 無限機動ウォーダー襲来
無限機動ウォーダーは装甲を施された空飛ぶ機械の蛇である。
節を連ねる本体の先頭を覆う障壁発生塊は蛇の頭部を思わせる曲面で、下顎部には左右から伸びる
眼窩にも見える切長のライトが鋭く光を放ち、体節三節までは障壁発生塊から大きく後方へ伸びる曲面が兜のように保護していた。
蛇の全体は
先頭部より波のように流れ出るその壁に、要塞からの砲撃が次々に着弾して大きな爆発が起こる。が、蛇はびくともしない。
「撃ってきた! 撃ってきたって! どこ狙うのリッキー!」
蛇の艦内で轟音が響く中、壁一面を様々な計器で包まれた前方主砲操縦車両では四人の猫の獣人が必死で機械を操っている。みな若く少年少女に見える。
くるっくるの赤毛をなびかせた猫の少女は人に近い顔立ちで、四人の中では一番頭の耳が大きい。額に大汗をかいて両手で動かしている操作管は、内側に曲がった握りが回転する仕掛けでレバーの前後と合わせて砲を三次元に動かす仕組みらしい。
反対側に座っている少年は青白二色の体毛で顔が覆われ頭髪との境界が見分けがつかない。尖った鼻と口元の周囲は真っ白で、それ以外はふぁっさりと青い毛並が生え揃っている。その彼も必死にレバーを操縦しながら指示を出す。
「このまま正面一点! エリオット!
「了解!……って、またこれ動かないよ! もう!」
二人の座席より部屋の後方で計器盤をがんがんと叩きながら、丸メガネをかけた茶髪の猫の少年が焦る。隣で様子をじっと見ていた猫の少女は雪のように真っ白な髪を肩まで伸ばしている。
ひたすら計器を叩いている少年の横から彼女がおもむろに手を出してぱちぱちと幾つかのスイッチを入れると、ぶおおおんと音がして数個のパイロットランプが緑に点燈した。
「う、動いた。あ、ありがと」
メガネの少年が礼を言うと、白猫の少女が顔を赤くしてこくこくと頷く。その左目は眼帯で隠されていた。
蛇の四節から五節にかけて生えている骨の翼に見えたのは、長さの違う十二本の巨大な——おそろしく長い砲身であった。
第四節に左右三対で計六本。第五節も三対六本。
計十二本が最前列から段々と違う長さで設置され、広げればちょうど斜めに傾いた翼の体で広がるよう砲座が配置されている。
全ての主砲基底部には二箇所の関節が組み込まれ、その先の砲身は。
猛禽の風切羽根のごとく長い。
それが動いて順にうぉおおおおおんと、翼が舞うように左右斜め上から円弧を描いて正面を向き、漆黒の十二の砲口が要塞を捉える。
青猫のリッキーが叫ぶ。
「いくぞッ! 一番二番三番、撃てッ!」
最大長の砲身から斜めに並んだ三対六本が、一斉に火を噴いた。
◇◆◇
衝撃音と激しい空振が要塞内部に響き渡る。これまでで最大の爆発に、囚人の一部からは「うわああっ!」と叫び声が上がった。入口付近の面々も一斉に腰を落として身構える、その隙に。
「うおっ?」
囚人たち三名の傍をとん、とん、と。
身体を揺らしてくぐり抜けた顎髭の巨体が背を屈め、そして肩から思い切り。
どおんっ! と、カーン兵の背中に激突する。カーン兵は帝国の兵士二人を巻き込んで、回廊側に吹き飛んで倒れこんだ。
「なッ! 貴様——うわっ!」
素早く屈む。
男が体を独楽のように捻る。
残り二人の裾を、思い切り巻き込み引き倒す。
兵士二人が宙に浮く。怪力である。長い外套が仇になってこちらの二人は、後頭部を大きな音を立てて石壁に激突させ、一緒にずるずると崩れ落ちた。
髭の男が立ち上がる。「先生! 走るぞ!」
◇◆◇
(動いた! あの二人?)
=こちらも動くぞアキラ=
いくつかのオレンジの影が交錯し、あっという間に五つほど影が倒れて二つが走り出した。影は右肩後方から移動して前方に動く。もうすぐここにやってくる。
直前の大爆発と空振で、帝国兵もカーン兵も門の外を見ていた。もちろん食堂側の二人のことは、この場の誰も気付いていない。
アキラの右手が上がり、左目が光る。
=
さすがというか、すかさず気付いたのはマインストンである。
「! トーノ君! まさか、あれにキミは——」
「おい! テメエ何して——」
すでに遅い。隊長が気付いた時にはアキラの腕は振り下ろされ、一斉に。
庫内全体にぶわあっと霧が立ち込めた。
=よし、上出来だ=
「トーノ君!」
「いつかお礼にきます! 所長さん!」
急な濃霧に包まれた倉庫内で、駆け寄る二つの影が見えている。そのオレンジの影の一つが声を発した。
「うおっ、今度は何だこの霧は?」
アキラが叫ぶ。
「——猫とウサギに会ったぞ!」
「……そうか! そいつらは俺の相棒どもだ! 鍵はあるか!」
「どうすんのコレ!」
「こっちに向かって振れ! 投げろ!」
言われてアキラが思い切り振り払った左手から。一筋の光線が霧へと飛び込んだ。光がオレンジ色の人影に衝突し、これは肉眼でも分かるほど男の全身が発光する。
「うわっ! 眩しっ」
=魔力が大き過ぎる。探索を終了する=
声とともにアプリが解除された。目の前の人型が濃い霧を巻き込んで一回転すると、ぶおっ! と男の周囲に一斉に七つの光球が噴き出した。
「テメエ! どこに行く小僧!」
隊長が構えた銃砲を濃霧に発砲する。が。飛翔した魔力の弾を光球の一つが軌道を素早く変えて呆気なく。がぁんと床に叩き落とした。残りの六つの光もひゅんひゅんと人型の周囲を旋回している。
「行くぜ先生、準備はできた」
それだけ言うと、霧の中の人影は壊れた門へと走りだす。まさに外から避難して飛び込んできた兵士たちと、その影は鉢合わせになる。
「な! 何だこの霧は——」
ぶわあっと吹き出す霧の前で立ち止まる兵士の、その眼前から勢いよく飛び出してきたのは。
囚人服を着た人型の『虎』である。
「よおぅ。ご苦労さん」
虎が笑う。
靴は破れて爪がはみ出し下半身はぎしぎしと軋むような大腿部で囚人のズボンは張ち切れそうである。すでに上のシャツは裂けて胸板も腕も黄金色に輝く体毛に包まれて、独特の縞模様が黒く走っていた。
顔貌は半人半獣である。鼻から口にかけて白い毛で、上はマスクのように黄色い毛で覆われ眉間から額にかけて美しい
驚愕した兵士が叫ぶ。
「けッ! 獣! 獣がいるぞォ!!」
声とともに次々に兵士が発砲した。その光弾のいくつかは濃い霧を抜けて屋内へ飛び込んできた。慌てて隊長が体を伏せて叫ぶが、所長は呆然として霧の向こうに視線を飛ばす。
「おわぁ! てめえら何やってんだコラ!」
「獣人?……要塞の中に? そんな。なぜ警報に掛からない?」
兵士へ飛びかかる虎の周囲を。七つの護衛の星が舞う。
虎に迫る光弾は、旋回する光球によって簡単に撃ち落とされる。
飛び交う光弾を屈んでくぐり、一気に身体を滑り込ませた虎を見て兵士が退がる。
「ひっ!」
その胸ぐらに巨大な腕が伸びて。激しく引き下ろされる。地面に叩きつけられる。それで一人。光球に衝突して兵士が吹き飛ばされる。また一人。
そのまま回転して棍棒のような腕で横の一人の脇腹を殴り飛ばす。
「ぶっ!……ぐッ」腹を押さえて兵士が屈む。これで三人。
「くそッ! この獣が!」
吠える別の兵士の目の前で、ぶわっと。
「うおっ!」
虎が飛んで。霧を巻き込み縦に回る。
一人を踵で蹴り降ろす。
着地して屈んだところから。斜めに巻き上がって一人の背中に肘を打ち込む。
同時に左右でまた二人が光球に弾き飛ばされた。
兵士七人が次々に吹き飛ばされ地べたで呻いている中心に、虎が立って言った。
「加減はしたぜ、勘弁しろよ」
=追えアキラ!=
その動きをぽかんと見ていたアキラが、はっと我に返って後を追う。横に残っていた医師が一緒に走り出す。霧の中で目が会った。
「あっどうも」
アキラが場違いな挨拶をする。医師が当惑して問いかける。
「……これは何の騒ぎだったんだ?」
「いろいろです。先生、外に出るなら、一緒に連れてってもらえますか?」
「え? 本気か?」
七人を倒した虎が広場を覆う分厚い偏光障壁を見上げる。ビークルで負傷兵を介助していた数人も突然の無限機動と獣人の襲撃で、荷台の上でばたばたと一旦仕舞った
上空では断崖と蛇ががんがんと撃ち合って、巨大な半透明のドームの境界は爆煙が舞い上がっている。その爆発音が喧しいのか顔を少ししかめて大きな耳を伏せ、アキラより飛ばされ定着した左手の魔法陣を口元に近づけて虎が話す。
「こちら艦長。いったい何があったんだ?」
『ホントにいったい何があったんですか!!』
「うおっ」
左手から大声が響いて、虎が仰け反った。
◇◆◇
「ぜんっぜん計画が違いませんかね艦長!」
外の爆発のたびに大きく揺れる管制室で。
左手の腕輪に向かって怒鳴っているのは、きちんとした外套で身を包み、硬質の鱗が顔面を覆っている生真面目そうなヨロイトカゲの男性である。
その横で操縦席らしきシートに座って、タンクトップがはち切れそうな胸を揺らしながら汗だくになって大型の操縦桿をぎりぎりと動かしているのは、焦げ茶のおかっぱからタレ耳を覗かせて、ヘッドセットをうなじにかけた童顔の、犬の女性だった。
「ミネアさん! リリィさん! なんで二人とも出てっちゃうんですか! あたしじゃウォーダー抑えるの無理ですよお!」
「今回は戦闘なしで逃げ切るって話だったと思いますが?!」
『ごめんねぇサンディもうちょっと頑張ってねぇ』
「リリィさん! どこですかリリィさん! 帰ってきてくださいよ!」
『ちょっとこの壁なんとかできねえか?』
「聞いてるんですか艦長!」
『えっなんでサンディが操縦してるの? ダニーは?』
「動力炉とにらめっこですよ! もうジュールがないんだから!」
◇◆◇
「……だからなんでウォーダーで来るんだ。言っといたんだがなあ」
蛇を見上げて呟く虎の眉間が険しくなる。その向こうで帝国のビークルが転回し、
「危ない! 艦長!」医師が叫ぶ。
「うん?」虎が顔を上げると同時に、砲口がどおおおん! と火を噴いた。
=いや、問題ない=
虎の周りを飛翔する七つの星がぎゅるっと集まり、光弾を斜め下からどがあんっ! と遠くに弾き飛ばした。「おっと」と言って艦長は軽く片足を上げて後ろに反っただけである。
飛ばされた光弾が障壁に激突して爆発する。医師とアキラが頭を伏せた。直後に光球はまた七つに分解して主人の周りを旋回し、何事もなかったかのように艦長が話を続けた。
「とにかくこの壁を何とかしないと、帰艦できん。ミネア。どこにいる?」
◇◆◇
「リリィと待機中。位置は捉えてる。でも後ろに二人いない?」
森の奥でバイクに跨って双眼鏡を覗きながら、首に掛けたヘッドセットにミネアが答えた。ヘッドセットが首かけで全体から直接音が出る仕組みなのは、獣人が種別によって耳の形状や位置が違うからだ。
リリィも隣でハンドルにもたれかかり右手をかざし、目をじぃっと凝らして広場を見ている。
「んんん? ホントだ二人いるね?」
『あ? ああ、コイツ付いて来ちまったな。お前らが
「あー、ハダカのおにーさん。いーじゃん連れていきましょうよ!」
ぴこっと長い耳を立ててウサギが面白そうに叫ぶ。
『でもタンデムだろ、二台しかないんだろ?』
「あたしテールに立てるよお。艦長、運転してくださーい!」
遠くの虎に手を振って提案する。
『それで構わねえから壁を破れ。リッキー。こいつは偏光障壁だ。
◇◆◇
「撃ってるって艦長これ硬ったいんだって! リザ! 照準ずれてる!」
「え! う、うそ。あ、ホントだ」
リッキーに言われて赤毛の猫の子が、慌てて操作レバーのダイアルを切り替えて上下に動かし微調整する。後方で計器盤をひたすら弄っていたメガネのエリオットが横から割って入って天井近くのスピーカーに話しかけた。
「艦長。おそらくですけど、この障壁1000万ジュール近くあります」
『……砲撃で削れそうもないか?』
「このまま削っても、あと五、六分」
『いや、そんなには待てん。ミネア。』
「えっ」「えっ」「えっ、ちょ」
艦長がミネアに声をかけた瞬間、通信をしていた全員が聞き返した。
『なんとかしろ、ミネア。』
「えええ! ちょっと! みんな何かに掴まれッ!」
リッキーが叫んだ。
◇◆◇
「げっ」っとリリィが声を出す。
艦長の命令を受けて、ミネアが上空を見上げ、すうと息を吸い込んで。
「ウォーダー! この壁、叩き割って!!」
と、思い切り叫んだ。
鋼鉄の、蛇の巨体が動き出す。
前方を向いていた左右十二本の砲塔を、まさに翼のように扇状にぶわあと広げて、蛇の先頭部が右にごおおおおんと旋回する。
管制室の操縦桿が一気に自動で動き出した。
「わああ。ちょっと、ちょっと! あいたたたた!」
操縦席で奮闘していたサンディが両腕ごと持っていかれる。
「お、お、おおうっ!」
横でトカゲの男もよろめいて傍の計器盤に手をかける。
未だ周囲で次々に着弾する砲撃の爆煙を巻き込みながら、高空で弓なりに曲がった蛇が、鋼鉄の尻尾をゆっくりしならせ、壁のドームに向かって。
真一文字に、思い切り打ちつけた。
激しい衝突音が響き、衝撃でドーム全体が大きく揺れる。透明の分厚い壁に尾が食い込んでばしぃっ! と蜘蛛の巣のように一気に亀裂が走る。
次の瞬間。ドーム上層の五分の一ほどが、甲高い破裂音を立てて砕けて断崖に向かって吹き飛んだ。
質量を持った魔力のブロックが次々に要塞へと衝突し、幾つかは砲塔のある壕に激突して爆発を起こし、断崖から岩が次々に広場に転がり落ちてくる。
「だああああああっ!」
蛇の中では、機械が。部品が。大鍋が。掛け布団が。宙に舞う。衝撃で中の猫たちがごろごろごろと床を転がって壁に衝突した。
「ぎゃん!」
「た、た、退避! 退避ッ!」
負傷者を乗せたビークルが旋回する上部のドームにもばしばしばしと亀裂が伸びて、透明の巨大なブロックがゆっくりと倒れこんできた。
障壁全体にばりばりと放電が起こって、壁は少しずつ空中で四散していくが、本体から外れて落下したブロックは消えるのが間に合わない。その質量を抱えたまま、帝国の兵士達に向かってぐらあと崩落してくる。
「チッ!」
虎が舌打ちをして、右腕を大きく、大きく。背中の裏側まで肘を曲げて思い切り引いて身体全体を弓なりにしならせる。
その右腕に。
=なんだ、あれは?=
黄金色の美しい体毛に包まれた腕の上を。まるでなぞるように。流れるように。真紅の流紋が浮かび上がって発光する。
左腕は正面。真っ直ぐ伸ばし手を開いて視線と鼻先と手の平と、その向こうの巨大ブロックを一直線に揃えて。
「があああっ!」
咆哮と共に。全身をバネにして右腕を正面に向かって振り抜いた。
虎の腕から馬鹿でかい光弾が発射され、その大質量と衝突し、空中で猛烈な爆発を起こす。
巨大なブロックは六つほどに分かれて吹き飛び、いくつかは地上の広場に落下し、いくつかは空中でさらに四散し、それも砕けて散っていく。光るガラスのような魔力の粉塵がばらばらと地上へ降ってくる。
頭を抱えてうずくまっていた負傷兵達が、恐るおそる空を見上げる。割れたドーム全体はだんだん放電して消えてなくなり、やがて広場まで降りていた壁も霧散して消滅した。
障壁を粉砕された要塞の防衛システムは故障を起こしたらしく、断崖のあちこちが煙を上げ、もはや砲塔は全て沈黙している。
「……ふぅっ」
虎が右手をふるふると振りながら一息つく。腕の流紋は消えていた。うっすらと汗はかいているようだ。
=……やり方は覚えたぞアキラ=
(ナニ言ってんの! やんないからな俺あんなの!)
「艦長ッー! 自分で殴って破れたんじゃないですかー?」
「馬鹿言うな、消えかかった障壁なんぞ、あんなもんだ」
ウサギの素っ頓狂な声と一緒に、二台のバイクが森から走り出してきた。浮遊型の車両だがこちらは小回りが効くらしく、少し浮いた接地面をざあっとスライディングさせて目の前に停まった。
そのバイクを見て「うおっ!」と思わずアキラが声をあげる。砂漠で出会った時との表情の違いにウサギが「んっ?」と首を傾げる。
「小僧。一緒に来るか? 人狩りに狙われたようだな」
問いかけられて、改めてアキラが虎を見上げた。
そしてバイクにまたがる猫を見て、ウサギを見る。
獣の姿をした、人間たちである。
作り物ではない、紛れもない、所長の話していた獣たちは、全体のフォルムこそ人間に近いが、ふさふさとした頰や肩や胸の体毛を、渦巻く爆煙にゆっくりとなびかせて、三人ともアキラを伺っているのだ。
(動いてる……)
=失礼なやつだなオマエ=
「お願いします。あと名前はアキラで」
「おお? そうか。じゃあ乗れアキラ、そっちだ」
物怖じせずに答える人間の青年を、艦長が面白そうに見返した。
爆発音の止んだ屋外へ隊長たちが、一斉に霧を払って駆け出した。あとから上位兵に支えられ脇腹を押さえながら、マインストンが広場に出てくる。
「ト、トーノ君」
見上げると上空には翼を広げた蛇の、十字架のようなシルエットが滞空し、そこに向かって二台のバイクが上昇していくのが見えた。三人の獣人と、医者と、アキラが乗っている。
「エイモス先生? ……そうか。越境されるつもりだったのか」
マインストンが納得したように呟く。確かに帝国の人狩りを避けて広大な砂漠を渡るなら、獣の船は最適だろう。
目をこらすと、どうやら青年らしき影がこちらに向かって、手を振っているようだ。思わず痛みを忘れて叫ぶ。
「トーノ君! 私の故郷に行ってみろ! シュテのターガだ!」
青年の振った手が止まる。
「きっとキミの役に立つはずだ! 忘れるな!」
かすかに、影が頷いたのが見えた。
叫び終わって、また所長が脇腹を押さえた。
「あ痛たたた……」
「おい! 変な知恵つけさせてんじゃ……ねえよ。」
横から隊長が、しかし今更もう、どうでもいいように怒鳴る。見渡せば要塞は惨憺たる有様で、絶壁からはぶすぶすと黒煙が漂い、広場の地面はあちこちが亀裂と落石で使い物にならない。大損害である。
「ひでぇなこりゃ……」隊長が呟く。横から所長が一言添えた。
「スラム落ちの準備をしておけ」
「うるっせえ爺い張っ倒すぞてめ——」
ヴァーヴァー、と。振動する腕輪を副官が見て言った。
「本部だ」
隊長が天を仰いでため息をつく。ボタンでスピーカーに切り替えて副官が取る。
「こちら辺境防衛中隊18小隊2」
『こちら辺境本部。先ほどアーダン293378の権限移譲と緊急停止を確認した。移譲先の中隊18小隊2か? 状況を説明せよ』
副官もしばし天を仰ぐ。そして、考えて、答えた。
「アーダンにて補給中に敵性の無限機動に遭遇。カーン辺境より要塞の権限を一時的に移譲してもらい、これと交戦しました」
マインストンの眉がくりっと上がって顔が笑う。
『敵性はどうなったか?』
「敵性は逃走。方向は不明です。現場も被害甚大です」
上を見て副官が続ける。蛇は空でホバリングしている。
「あと、一つ報告があります。交戦の際に
『魔導障壁に刺さったのか?
マインストンが壊れた障壁の崩れる様を思い出す。
(そうだ……あんな六角形の文様は初めて見た。オリジナルで作ったのだろうか? 偏光障壁を? そんなことが可能か?)
通信が切れた。
ふうと一息ついて、副官がしかめっ面のまま口角だけ笑って親指をびしっとあげる。隊長も「だあああっ」と両膝に手をついて息を吐いた。マインストンが痛みを堪えてふんと鼻を鳴らす。
「スラムに落ちそうな時は、逃げてこい」
さっきとは違うことを、違う口調でそう言った。
◇◆◇
少し煙い。
そして囚人服は、上空では、かなり寒い。
だがそれ以上に、広がる地平と遠景がアキラを圧倒する。
空から見る要塞は上部が
地平線に沿って連なる山稜は峰が低いので、空がどこまでも広い。
やや風があるせいか刷毛で掃いたようなうっすらとした巻雲が流れている。黒煙が今でも微かに漂う要塞の上はこんなにいい天気だったのだ。
この空飛ぶバイクにはタンデムバーがついていたので、操縦者が女性ということもあってアキラは少し後方に反ってバーを右手に握り、胴に回した左腕は伸ばした感じで景色を見ていた。ミネアが注意する。
「あんまり反ると落っこちるよ」
「あ。ああ。すみません。ごめん」
アキラが謝った。この娘は猫系の獣人のようだが髪のなびく後ろ姿は、ただ大きな耳が目立つだけで、そこまでヒトと変わらない。ミネアが少し笑う。
「なんで謝るの? 変なの。でも乗り馴れてる? 重心のかけ方が上手いんだけど」
「あ、えと、自分も持ってたから」
「えっ? 自分用の持ってるの?」
驚いて聞いてきたので慌ててアキラが訂正する。
「いや。あっちの……なんて言うかな、ちょっと違っててさ」
「ええ。なに? 聞こえない。」
栗色のショートの髪が風にはたはたとなびいて、背を反らせて猫の耳をひょいひょいと動かす。ちょっとアキラは躊躇したが、ミネアの腹部に伸ばしていた左腕に少し力を入れて、お互いを引き寄せて顔を近づける。
「自分のは。飛ばないから。走るだけ。」カタコトのようにアキラが伝える。
「飛ばないの? 飛ばなきゃ動かないじゃない。壊れてるの?」
「いや、タイヤついてるから。車。車輪。わかるかな?」
「わかんない。——ねえ、下の人、シュテのターガって言ってた」
「ああ。所長さん。言ってた。どこだろう?」
「知らないの?」「なにを?」
「聖域のこと、聞いたことないの? ホントに?」
これは本当にびっくりした感じで、ミネアが問いかけてくる。黒髪の青年は少し困ったような顔をして、地平の山稜に目をやって呟く。
「——この世界のこと、まだなんにも知らなくって」
風のある午後の空をゆっくりと浮上しながら、ミネアは背中の不思議な青年を、横目で見つめていた。
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