九幕ニ(完)
――私を置いて死ぬなんて、許すものか。
「だが、雪樹……」
兵士を引き連れて皇宮に侵入するなど、大それたことをしでかしたのだ。このまま手ぶらで帰ることはできない。当然父も父で、食い下がってくる。
このままでは、力づくで連れて帰られてしまうかもしれない。――ならば。
雪樹はすうっと息を大きく吸ってから、大量に吐いた息に声を乗せた。
「私のお腹には、蓮様の赤ちゃんが……!」
「!?」
これには周り中が目を見張った。蓮すら、驚きに仰け反っている。
「……いるかもしれません、ので」
誰にも聞こえないくらい小さく、雪樹はつけ加えた。そう、嘘は言っていないのだ。
「……………」
芭蕉は娘と皇を交互に見比べながら、再び槍の柄に手を置いた。
――皇を、このままにしておいていいのか?
香蓮皇は、自分の謀の一部始終を知っている。
だがそんな男を、最愛の娘は愛し、彼の子を宿したという。
――殺せるのか?
芭蕉の手は、震えている。その脇に、一頭の馬が進んだ。騎乗している人物を見て、雪樹はわずかに表情を緩めた。
「
海棠は、芭蕉の三番目の息子だ。歳が近いせいもあるのか、兄たちの中では一番、雪樹と仲が良かった。
「雪樹。お前は自ら、香蓮皇の寵姫になったというのだな? 本当の話か?」
「はい」
「脅されたり、無理矢理後宮に押し込められたり、そういうわけではないんだな?」
「――はい」
それこそ生まれたときからの、長いつき合いだ。雪樹の嘘に、兄が気づかなかったわけはない。だが海棠は、それ以上何も尋ねなかった。
「そうか……」
一流の武人だと褒めそやされる海棠は、しかし童顔で、今でもよくそれをからかわれている。そして、雪樹と海棠は、よく似ていた。
実はそのせいで、先般妹を取り返しに皇宮へ乗り込んだ際、皇に必要以上にやり込められたことを、彼自身は知らない。
蓮からすると、雪樹に似た男が、雪樹と同じようにいちいち真っ正直に感情を面に出すのが、面白かったのだろう。
海棠は武人らしい颯爽とした身ごなしで、馬から下りた。
「子が生まれれば、お前は皇の后となる。羽村家にとって、これほどの名誉はない」
海棠の言葉に我に返ったのか、上二人の兄も急いで下馬した。
兄たちは深々と頭を下げる。だが、芭蕉は騎乗したまま、放心したように雪樹と皇を見詰めていた。
「このたびは誤解がありましたようで、大変申し訳ございませんでした。ですが、妹の元気そうな顔を見ることができて、安心致しました。我らはこれにて退散致します。お詫びはまた、改めまして」
海棠はそのように口上を述べると、再び馬に跨り、雪樹たちに背を向けた。息子たちに促され、芭蕉も元来た道へ馬首をめぐらせる。
「待て!」
舞台から取り残されていた蓮が、ようやく壇上に復帰する。だが、「時既に遅し」であった。
雪樹の兄たちは何度か振り返ったものの、芭蕉の目は一度もこちらには向かず、帰っていく。
羽村家の男たちを先頭に迎え入れ、兵士たちも大門の方角へ動き出した。
残った皇宮の者たちが、ホッと胸を撫で下ろす。
「芭蕉! 行くな! 俺を……殺してくれ!」
「蓮様!」
腕に取りすがる雪樹を払いのけて、蓮は芭蕉たちを追おうとする。雪樹の姿が目に入っていないようだ。
「待て! 待ってくれ!」
「……!」
母のあとを追う幼子のようにフラフラと歩む蓮の前に、雪樹は回り込んだ。
本当は頬でも一発引っ叩いてやりたかったが、背が届かない。仕方なく、拳を、彼の腹に突き立てた。
「いたっ!」
悲鳴を上げたのは、雪樹のほうだった。蓮の硬い腹筋のせいで、むしろ彼女のほうがダメージが大きい。手をぶらぶらと振って、雪樹は痛みに堪えた。
その甲斐はあったらしい。蓮は正気に戻った。
「何をする……!」
「蓮様のバカ! 最低! 無責任男! 分かってるんですか? あなたがやろうとしたのは、『やり逃げ』ってやつなんですよ!」
小さな体からどうやって出しているのかと思うほどの大声を、雪樹は張り上げた。
「私の人生を狂わせておいて、何も償っていないじゃない! 謝ってもいない! そんなんで、天国に逃げようなんて、卑怯者!」
やがて吊り上がった眉を下げると、雪樹はぶるぶると震え出した。
「お願いだから……! お願いだから、生きてください! 死のうなんて、思わないで……! あなたは皇である前に、あなたなんです! 私の愛した、蓮様なんです! 生きる意味がないとダメだっていうなら、私のために生きて! 今からあなたは、私のために生きてよ!」
自分でも筋が通っているのかいないのか、分からない。それでも必死に、雪樹は叫び続けた。
「お前の……ために」
なんと罪深いことだろう。
賢く、きっと誰よりも美しく育つだろうこの娘を、無理矢理、自分のものにした。
自らの檻に、取り込んだ。
そのうえ、彼女の光り輝く人生を、ここで閉じてしまおうとしている――。
眉間に皺を寄せ、蓮は苦悶する。
本当は、死にたくなどなかった。
雪樹と共に過ごす日々は、楽しかったから、幸せだったから。
だがそれだけに、雪樹を帰したあとのことを考えれば――生きていても仕方がないと思えて。
「俺は、俺は……」
間違いだと分かっている。それでも、抗えない。
腕を伸ばし、蓮は雪樹を抱き寄せた。
「――側に、いてくれ……! お前が一緒にいてくれるなら、俺は生涯、皇を演じ続けることができる……!」
苦しそうに吐き出された、その願いを耳にした途端、雪樹の双眸からは、大粒の涙が零れ落ちた。
「バカぁ! バカ! なんでもっと早く、全部話してくれなかったんですか! つらかったなら、言ってくれたらいいのに! 私たちは、そんなに浅い仲だったんですか! 十年以上のつき合いなのに! 私は、あなたの子を産んでもいいって、本気でそう思ってるのに!」
「……………………」
蓮は何も言わず、言えず、ただひたすら雪樹を抱き締め続けた。
その力の強さが、愛する人はちゃんと生きているのだと、失わずに済んだのだと、雪樹の心に大いなる喜びを湧き起こす。
まるで獣の咆哮のような声を上げて、雪樹は泣いた。
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