第九幕 楔

九幕一


 羽村 芭蕉の告白を聞いたのは、蓮、羽村の息子たち、そして皇宮で働く人々であった。芭蕉が連れてきた兵士たちとは距離が離れているから、会話の内容は彼らの耳に一切届かなかったはずだ。

 蓮は、医師の清田 真百合から大まかな話を聞いていたのだろうか、自らの出生の秘密を知っても、取り乱すことはなかった。

 面を上げ、射抜くようにまっすぐ父を見詰めている蓮の後ろ姿が、ぼやける。皇宮の人たちの群れに紛れていた雪樹は、ぐっと乱暴に瞼を拭った。


 ――私が泣いてどうするの。つらいのは、苦しんでいるのは、あの人なのに。私の、お父様のせいで。


 愛した人の体に空いた洞から何もかもが抜けていく、ごうごうという音を、雪樹は聞いていた。

 運命をねじ曲げられた……。

 皆が崇める皇の玉座を、だが蓮自身は少しも望んでいなかった。――拒んでさえいたのに。しかし皇子として生まれたのだからと、悲壮な決意を伴って就いてみれば、実はそれは彼のものではなかったという。蓮の気持ちを思うと、やりきれない。


「父上は自業自得だろう。だが、巻き込まれた俺は、なんなのだ」


 蓮の平淡なその声が、聞く者の胸を一層締めつける。


「父上の子として生まれたのだから、この退屈な檻に囚われてやろうと、覚悟を決めたというのに」

「ここでの生活はおつらいと? わずかな不自由もなく、贅沢に暮らせるでしょうに。欲しいものは、何だって手に入る……」


 一舐めするだけなら甘い、だが実は猛毒の混じった芭蕉の言を、蓮は遮った。


「いいや。俺の欲しいものは、ここでは得られない。初めから何もかも揃っているこの場所に、いる意味があるのか? 男として生まれながら、名を残す機会もない。こんな俺は、生きていると言えるのか?」


 ――皮肉なものだ。芭蕉が自ら選び、連れてきた赤子は、最も皇に不向きな青年として成長してしまった。

 環境が人を育てるのだと、芭蕉は今でも信じている。甘くぬるい池で育ったオタマジャクシは、醜くのろまなカエルに育つのだと。

 だが稀に、蓮のような例外もいる。どこでどう育っても内なる力に目覚め、大事を成す人物。

 これも数多の国々をまとめ上げた英雄、皇の血のなせる技か。先皇、夢蕨のようなまがい物も混ざってはいるが、蓮のような傑物もまた、確かに生む。


「くくっ……! ははは!」


 蓮は気が抜けたように笑い出した。これほど悲しい笑い方をする人を、歳を重ねた芭蕉ですら、見たことはない。

 蓮は両手を大きく広げた。


「俺はもう疲れた。心の支えが、父上の日記を読んだあの日に、ポキリと折れてしまった……。だから、この茶番から下ろさせてもらう。あとは、このつまらん舞台を始めたお前が、決着をつけろ。皇制を廃止するなり、またどこぞから新たな皇を連れてくるなり、どうとでもするがいい。お前ほどの力があれば、いくらでも好きなようにできるはずだ」


 芭蕉の目には、似ても似つかぬ親子の顔が、重なって見えた。

 放蕩三昧だった、夢蕨皇。

 真面目過ぎる性格のせいで、自らを追い詰めてしまった、香蓮皇。

 二人は、霧椿皇国の元首として君臨しながら、その実、真に欲したものを得ることは叶わなかった。

 一方は、次へ血を繋ぐ能力を。一方は、自由を。

 そのせいで、彼らは虚ろに取り憑かれた――。

 蓮を、野に下すことができれば、一番いいのだろう。だが彼は、皇子をすり替えるという、芭蕉の犯した大罪の証そのものだ。もはやこの皇宮に閉じ込めておくほか、方法はない。嫌だと言うならば――。

 恐らく蓮も、それを望んでいるのだろう。両手の平を天に向け、胸を張って、彼は心の臓を、芭蕉に差し出している。

 皇の退位は、死してのち、のみ。

 つまり、蓮は――。

 この先の生に絶望しているこの青年を、救う。それはすなわち、ひと思いに楽にしてやるということだ。それが勝手な都合で彼をここに招いた者の、償いと責任の形だろう。

 芭蕉は騎乗している馬の、鮮やかな鹿毛の胴体に手を伸ばし、括りつけていた槍の柄を握った。戦場にこそ立ったことはないが、貴族として身につけるべき程度の武術は、芭蕉だって会得している。それに、相手は動かない的だ。仕留めるのは容易いだろう。


「父上……!」


 後ろに控えていた芭蕉の三番目の息子が、緊張に張り詰めた声で父を呼んだ。「発言を禁じる」という皇の勅を、失念している。この息子には、そういった粗忽なところがあった。その代わりというべきか、人情に厚く、優しい性格をしている。三男は父が人を殺すことをよしとしないのか、それとももしかしたら、不幸な生い立ちの皇に、同情しているのかもしれなかった。

 芭蕉の背中にはまた、上の二人の息子たちの戸惑いも伝わってきた。ただしこの二人は、邪魔をしないだろう。幼い頃から彼らは、父親に逆らったことがないのだ。

 芭蕉はひとつ息を吐いて、腕を動かした。馬の体につけた留め具からずるりと槍が引かれ、細長い刃が徐々に姿を現す。

 一番星の映える濃紺の空に、芭蕉は自分勝手な祈りを捧げた。


「お許しくださいませ、香蓮皇。せめてあなた様の来世が、幸福に満ちますように……!」


 芭蕉の槍が完全に抜かれる前に、ひらりと、一匹の蝶が躍り出る。

 ――薄桃色の衣に身を包んだ、少女だった。

 頭上高くに一つに結った髪は乱れ、金色の飾りがなんとかそれを束ねている。可愛らしい顔は赤く染まり、玉のような汗が浮かんでいた。


「雪樹……!」


 父も兄も、そして皇もが、驚きをもって彼女の名を口にした。


「蓮様。お父様」


 蓮と芭蕉との間を塞ぐように、雪樹は立った。華奢な肩を精一杯いからせ、まるで子猫が毛を逆立てているかのようだった。


「おお、雪樹……! 無事だったか!」


 羽村の男たちの顔が、安堵に緩む。芭蕉は抜きかけた槍を、ひとまず収めた。


 ――これが、家族というものか。


 誰か一人でも欠ければ、心配でたまらない。助けに駆けつける。

 そういった存在とは無縁の蓮は、遠い目をして、羽村親子を眺めた。蓮にとって彼らの姿は、一種の憧憬であった。


「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした。お父様」


 ――ああ、もうじき、こいつを羽村の家に戻すことができる。


 自ら手放すことは、彼女への執着が強すぎてできなかった。そのせいで、どれだけつらい想いをさせたことだろう。


 ――だが、もうじき俺は消える。

 

 だから、どうか幸せになって欲しい。やりたいことを、やりたいようにやって、生きて欲しい。

 すっかり諦観の境地に至っていた蓮は、だが次の瞬間、自分の耳を疑った。


「このたびのことは、私が全て……! 私が全て、悪いのです! どうか、蓮様を責めないでください!」

「おい……!」


 何を言っているのか。蓮は雪樹の肩を掴み、自分のほうを向かせようとした。しかし雪樹は鉄の塊のようにびくともせず、父を見上げて、ひたすら虚偽の説明を続ける。


「私がここにいたいと、蓮様と離れたくないから家に帰さないでくださいと、お願いしたのです。だから……!」


 娘と再会した喜びに浸る間もなく、羽村家の面々は困惑している。

 芭蕉は不可解そうに顎髭を撫でながら、娘に尋ねた。


「それは……どういう意味かね」

「私と蓮様は、あ、愛し合っております!」


 羽村家の男たちはしばらく沈黙し、ようやく脳が事態を把握したのちは、揃って目を丸くした。


「……………………………………は?」


 彼らにとっては、寝耳に水だろう。奸譎なる皇に囚われた哀れな娘、あるいは妹が、実はその悪漢と通じていたというわけだから――。

 いやそれ以前に、雪樹は性別を偽り、皇とは友人として親交を深めていたのではなかったか? 愛し合うなどという関係では、なかったはずだ。

 いやいやそもそも、自分たち家族の知っている雪樹は、色恋沙汰に縁遠い少女ではなかったか?

 それが、今や――。

 ただガツガツと勉強ばかりしていて、色気なんて微塵もなかった姿を消す前の雪樹と、今目の前に現れた雪樹は、まるで別人である。

 見目悪い芋虫が、蝶に育った。すっかり艶めかしくなった雪樹は、もういっぱしの女性にょしょうである。

 羽化させたのは――。

 雪樹が必死になって背に庇う、香蓮皇なのか?


「どういうことだ……」


 羽村家の男たちは、すっかり混乱してしまった。

 兄たちは魚のようにぱくぱくと口を動かし、さすがに芭蕉は年の功かショックなのを面に出さず、顎髭をいじって堪えている。


「ま、待ちなさい。雪樹。ともかく……一度、家に帰ろうじゃないか」

「いいえ、いいえ!」


 雪樹は首を振った。

 蓮に生きる気力がないことを知った今、彼を残して帰るわけにはいかない。片時も目を離さず、ずっと側にいなければ。


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