七幕ニ(完)
花咲本皇宮の大門から宮殿までは、おおよそ一里の距離である。その道々を、二列になった人馬が埋め尽くしていた。
力は強いが不格好な軍馬たちの、まとまりのない多様な毛並みが、皇宮内を無秩序に卑しく塗り潰している。
不浄な獣の背に跨る男たちは、皆一様に無言、無表情で、彼らの侵入をおめおめと許すしかない皇宮の人々の、不安や動揺を煽った。
皇のお住まいが、汚されてしまう……。
宮殿への行進にあぶれた兵たちは、皇宮の東西南北を守る大壁をぐるりと囲み、待機していた。
敵兵の総数は、約二千。対して皇宮の守備を預かる衛兵は、わずか三百である。
突如詰めかけた兵たちの先頭には、貴族の男が騎乗し、留まっていた。艶やかな顎鬚が特徴的なその男は、幾分老いてはいるが、眼光は誰よりも鋭かった。
この男こそが、霧椿皇国最高議会議長、羽村 芭蕉。雪樹の父である。
兵を引き連れ、禁忌とされた皇宮へ踏み込んだ芭蕉の身の内は、憤怒の炎で燃えたぎっていた。しかし芭蕉は、己の感情を決して周囲には悟らせなかった。振る舞いの全てが、落ち着き払っている。
芭蕉を守るのは、彼の三人の息子たちだ。
一人は最高議会における右腕、もう一人は左腕、最後の一人は国軍の将の後継者と目され、勇猛果敢な若武者として名を馳せている男だった。
そんな羽村家の面々に、一人の青年が立ち塞がっていた。
澄花志乃香蓮だ。
蓮の背後には使用人たちが押し寄せ、人垣ができていた。彼らも本当は皇を守るため、前に立ちたいのに、それは不敬に当たるから叶わないのだ。
使用人たちは皆、鎮痛な面持ちで、皇と芭蕉、二人を見守っている。
蓮もまた、いつもと変わった様子はない。相変わらず身分には不釣り合いな、木綿でできた質素な略装に身を包み、口元には不敵な笑みを浮かべている。
「お久しゅうございます、香蓮皇」
馬上から皇を見下ろす芭蕉の目が、ほんのわずかに揺れた。
一応は遠縁にある二人が言葉を交わすのは、十年ぶりである。
「うむ、お前の活躍は聞いているぞ。息災でなによりだ。――そこの猿も、元気か?」
蓮は芭蕉の後ろにひょいと目をやった。蓮の視線の先にいた芭蕉の三男は、苦虫を噛み潰したような顔になった。
この三男は、先日宮殿に乗り込んで来たはいいが、蓮にからかわれるまま退却した、あの男である。
蓮の背面が騒がしくなった。やがて使用人らによって築かれた人の壁が割られ、侍従長が飛び出る。
「控えよ!」
息を切らしながら蓮の隣に並び立つと、侍従長は唾を飛ばしながら怒鳴った。
「ええい、騎乗のまま、皇に拝謁するとは何事か! 最高議会議長といえど、このような無礼、許されませんぞ!」
「良いのだ、侍従長。下がっていろ」
「香蓮皇……?」
義憤に駆られる忠実な部下を制しながら、蓮は芭蕉たちと見合った。
「これより羽村 芭蕉、その者以外の発言を一切禁ずる。これは皇の勅(みことのり)である!」
侍従長も、そして芭蕉の息子たちも、困惑の表情を浮かべた。
しかし逆らうことは許されない。皆が口を噤み、重たい静寂が訪れる。
「さて、羽村 芭蕉よ。軍を動かしてまで、ここへ来た理由を、一応は聞こうか」
まず口火を切ったのは、皇だった。
「お断りしておきますが、私が連れて参った者たちは、我が国の軍とは無関係です。あくまでも有志を募り、協力してもらっただけのこと。国の財産である兵を、私事(わたくしごと)に使うなど、もってのほかにございますゆえ」
芭蕉は如才なく、自分が不利にならぬよう、口上を述べた。政治家とは、そういう生き物なのだろう。
蓮は肩をすくめた。
「まあ、その辺はどうでもいい。だが、我が宮に攻め入るとは、大それた罪を犯したものだ。咎を負う覚悟はあるのか?」
「攻め入るなどとは、失礼ながら、人聞きが悪い」
芭蕉の目が、鋭く光った。
「私はただ、娘を返していただきにあがっただけです」
その言葉を待っていたとばかりに、蓮は唇の端をにいっと上げた。
「雪樹を、返すつもりはない」
きっぱりと拒絶されても、芭蕉の態度に変化はない。だが、彼の三人の息子たちは、我慢の限界が近いことが見て取れた。
「羽村よ。急な訪問だったゆえ、土産を用意する暇がなかった。すまぬが、このまま手ぶらで帰るがいい。それとも、引き連れてきた大量の『有志』とやらを動かして、無理矢理にでも雪樹を取り返すか?」
わざわざ相手を刺激するような物言いをする蓮に、皇宮の者たちはハラハラしながら見入っている。
いくらこの国で最も高貴で、侵されることのない身分の御方だとしても、二千の兵に取り囲まれている現状はあまりに不利である。もう少し穏便に、事を収められないものか。皆はそう思うと同時に、不審がった。
香蓮皇は、もっと利口な人なのに。見た目は荒くれ者でも、中身は常識人のはずだ。
芭蕉は少しも波立たぬ、平淡な声で尋ねた。
「私が、あなたを傷つけることはないとお考えか。香蓮皇。あなたはご自分に、それだけの価値があると、お思いなのですか?」
何を愚かなことを。
神の子孫とも伝えられる、尊き血を受け継ぐ皇は、霧椿皇国の君主であると同時に、彼自身が国の宝である。
そう教えられ育った人々は、芭蕉が投げかけた問いを聞いて、即座にそう思ったに違いない。
侮られているにも関わらず、しかし蓮の浮かべる笑みは一層深くなった。
「知っている。かの秘密を、そなただけの特権と思うな。お前たちは見向きもしないが、宮殿の中にある図書室には、地下に小部屋があってな。そこには、代々の皇の日記が収められているのだ」
「……!」
芭蕉の顔つきが、初めて変化した。目鼻が引き締まり、娘にも受け継がれた太い眉が上がる。
「先皇――父上の日記は、正式に俺に皇位継承権が授けられたところで、途切れていた。元々享楽的なお人だったが、思えばその日を境に、父上は一層無茶な遊び方をなさるようになった。――その気持ちは、よく分かる」
身分の高い女性はあまり歩いたり、走ったりしないから、彼女たちのために誂えられた履き物は、飾りのようなものだ。大地を蹴って進むには、適さない。
「……もう!」
あっさり掛け紐が切れてしまった靴を手に持ち、雪樹は裸足で走った。
実家にいた頃は、近所の子供たちと共に野山を駆け回っていたから、体力には自信があったのだが、後宮に閉じ込められていた間にだいぶ衰えてしまったようだ。息が切れて何度も足が止まりそうになるが、しかしそのたびに血だまりに横たわる蓮の、縁起でもない姿が思い浮かんで、雪樹は必死に走り続けた。
宮殿に差し掛かったところで、人だかりが見えた。彼らの中へ飛び込むと、がむしゃらに前に進む。今は迷惑を顧みず、人々を押しのけた。
「通してください! 私は、蓮様に――!」
そう叫ぶと、側に立っていた侍女が、慌てて雪樹の口を塞いだ。
「発言を禁じる」。皇の勅は、絶対だからだ。
「ううっ……!」
その場に押し留められた雪樹の目は、蓮の背中と、その前に控えている父の姿を捉えた。耳に、聞き慣れた声が届く。
「始祖より脈々と続く尊き血を、次の代へ繋ぐ。それが父上の、唯一の存在証明だったはずだ。それなのに実子ではない、どこの馬の骨とも知らぬ俺が、皇位を継ぐことになってしまった。自らの意思とは関係なくそのように決められてしまえば、父上も生きる気力を失うというものだ」
周囲から、一切の音が消えた。
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