五幕二(完)
部屋に戻ったら、また寵姫たちが難癖をつけに来るだろうか。そう思うと帰る気にならず、雪樹はブラブラと外を歩いた。
――こども、かあ。
先ほどの侍女の自信に満ち、輝く笑顔が、頭から離れなかった。
子供を持つということを、雪樹は改めて考えてみる。
男女が出会い、結ばれ、結果、子が生まれる。何もなかったところから、新しい命が誕生するのだ。本当に不思議で、まさに奇跡である。
雪樹にとっては出産も育児もまだ先のことで、もしかしたら一生、そういう機会を持てないかもしれない。やりたいことがあって、それを優先させたいからだ。だが雪樹はそんな自分が、生き物として失格なような気がしてきた。
――本当にいらないの?
いるとか、いらないとか、そういう考え方すら、きっと不遜なのだろう。
気づけば、雪樹の足は宮殿へ向かっていた。階段を上り、図書室の扉を開ける。そこには、皇の姿があった。
「来たのか」
蓮はちらりと顔を上げると、すぐにまた手元の本に視線を落とした。
――ほんの半日、会わなかっただけなのにあ。
寂しかった。うっかりすると涙が出そうになって、雪樹は慌てて瞼を擦った。
「あ、あの。後宮が廃止されるって……」
「ああ。言っておいただろう。お前の部屋は、今、別に用意させているところだ。もうしばらく待て」
「………………」
「はい」とも「いいえ」とも答えず、雪樹は唇を噛んだ。
本当は嬉しい。だが、それは言わない。――言いたくない。言ったら負けだ。皇にされた数々の仕打ちを、許してしまうことになる。
「……今日は、どんな書物を読んでいらっしゃるんですか?」
「今度の謁見日に、外国の大使が来る。遠い西の国でな。今はその国のことを調べている」
「お忙しいんですね。以前私が遊びに来ていたとき、蓮様はいつもフラフラされていたので、皇のお仕事はてっきりお暇なものなのだと思っていました」
「……別に信じなくてもいいが、あれはわざわざ時間を作っていたんだ」
「はあ、それはそれは、どうも……。光栄なことです」
しかめっ面になった蓮の隣に腰を下ろすと、雪樹は彼が読んでいる本を覗き込んだ。なるほど挿絵には、霧椿皇国のものとは雰囲気の異なる衣を纏った人々が描かれている。
「そういえば、お忙しいせいで、趣味はおやめになったのですか? 前はよく書や絵をお描きになったり、楽器をお弾きになっていたじゃないですか」
「いや……。意味を見出せなくなっただけだ」
蓮は本を閉じると、椅子から立ち上がった。追いかけるように、雪樹は彼を見上げた。
「意味? 絵を描くとか、楽器を演奏するとか、そういったことに意味なんてあるんですか?」
「お前は本当にズケズケと物を言うな」
雪樹はハッと口を押さえた。悪気があったわけではない。現実主義者で、かつ感受性があまり発達していない彼女には、芸術にまつわる諸々の活動に生産性があるとは思えないのだ。
「も、申し訳ありません」
「いや、いい。お前の言うとおりだ。芸術に、そもそも意味なんてないんだ。だが、俺は欲を持ってしまった。その道で大成したい、誰よりも上手くなりたい、と……。そんなことを考えずにいられたら、今だって楽しんでいられただろうに」
本棚を物色している蓮は、だがその目は、何も探していない。
「蓮様は、何でもお上手だったと思いますが」
お世辞ではない。絵でも書でも何でも、蓮のそれは、素人目でも分かるほど優れていた。
「俺なんて、まだまだだ。どの道だって、極めるには時間がかかる」
「やはり、皇としてのお仕事のせいで……」
「――そうじゃない」
少し苛立ったように、蓮は否定した。
「どの道を志しても、俺には皇という立場がついて回る。『澄花 蓮』という、ただの男が作ったものとしては、決して評価してもらえない。それがつらくなっただけだ。もっとも、趣味のことだけじゃないが、な。政(まつりごと)からも何もかもから外されて、俺は宙ぶらりんだ。責任もない代わりに、得るものも、残るものも、ない……」
「…………………」
いつもどこか不満そうな蓮を、雪樹はなんて贅沢な人なんだと密かに非難していた。世の中には食べることにも困るような貧しい人たちが溢れているのに、皇として皆に崇められ、丸々面倒を見てもらえる今の境遇の、何に文句があるのか、と。
だが、そうじゃない。
蓮のように知性高く、あらゆる才能に恵まれた男にとっては、逆に何の苦労もなく生きていくことが、苦痛でしかないのだ。
太平の世において、皇という職務は、安穏と過ごすことだけを求められる。言い換えれば、何一つ、自分の力で切り開くことを許されない。男としての可能性を、欠片も試すことができない……。
「時々……俺はなんのために生まれてきたのかと、思うことがある」
蓮の苦悩に満ちたつぶやきを聞いて、雪樹は悟った。
――ここにも、「檻」がある。
皇宮とは、この若き獅子を閉じ込めるための、檻なのだ。
「まあそのうち、割り切れるようになったら、絵でも書でもボチボチ再開するさ」
「はい、是非。私はあなたの作品が好きです」
「お前のようなボンクラに褒められてもなあ」
そう言いながらも、蓮は嬉しそうに笑った。重くなった部屋の空気を、一瞬で晴らすような笑顔だった。
可愛くて、可哀想で――。いつの間にか雪樹は、蓮の大きな背中に抱きついていた。
「ど、どうした?」
オロオロと、蓮が尋ねる。――察しの悪い男だ。雪樹が唇を尖らせていると、蓮は彼女の腕を腰の辺りに巻いたまま、ゆっくり振り返った。雪樹が気安く自分に触れてくることが、信じられないらしい。おずおずと遠慮がちに、蓮は雪樹に口づけた。
「蓮様……」
温かい唇の余韻に浸りながら、雪樹は蓮を見詰めた。その目に宿る熱に浮かされたように、蓮は再び雪樹と唇を合わせた。何度も繰り返し、やがて舌が絡み合うようになる頃には、互いの息は上がっていた。
肩に落ちた大きな手が、胸元に入り込む。豊かな膨らみを慣れた仕草で揉みしだかれて、雪樹は熱い吐息を漏らした。
「あ……」
抵抗はしない。むしろ、もっともっと触って欲しいと、雪樹は身をくねらせた。
もっと欲しい。もっと。
どうして、こんな、淫らな女になってしまったのだろう。
――そうだ。彼がこうした。
だったら、責任を取ってもらおう。わがままを言って、甘えて。迷惑なんて気にせず、傲慢に、どこまでも寄りかかって。
――それのどこが悪いの?
口づけをねだると、蓮は雪樹の後ろ頭を掴み、唇に優しく噛みついた。
獣のような、荒々しい男の鼻息が、雪樹の顔に当たる。興奮した蓮を、普段なら笑ってしまいそうなのに、今はそれすらも性感を高める良い刺激になってしまう。
「やめておこう。その……子供ができたら、困るだろう?」
言いにくそうに、蓮は尋ねる。やはり知っているのだ。雪樹がなぜ、最近は彼との性交を拒んでいたのか――。
雪樹の脳裏に、柔らかな笑みを浮かべた先ほどの侍女の姿が浮かんだ。
――欲しい。私も、欲しい。蓮様との子供が欲しい。
汚された女が、汚した男を愛するのは、変なのかしら?
甘い考えなのだろうか。いっときの迷いなのだろうか。
それでもきっと、後悔なんてしない。
つまり、私は。
――この人と、家族になりたいんだ。
それが、わたしの望む、未来。
「いいえ。このまま……!」
「雪樹……!」
蓮は雪樹を机の上に押し倒し、彼女に重なった。
情事を終えた蓮は、衣の胸元から手拭いを取り出すと、自らの性器を拭った。テキパキと衣服を整えてから、放心状態の雪樹も清めようとする。
「ちょ、い、いいですから……!」
雪樹が逃げようとしても押さえつけられて、ゴシゴシと恥ずかしい場所を拭う。度を越した親切かと思えば、蓮はニヤリと意地悪く笑っていた。雪樹をからかっているのだ。
「もう! やめてくださいってば!」
「本当にお前が女かどうか、確かめている」
人の体を散々好き放題しておいて、今更何を言っているのか。雪樹は眉を吊り上げた。
「そもそも蓮様、今まで男だと思っていた相手を、よくも押し倒せたものですね!」
「実は俺は、男もイケる口なんだ」
「えっ……」
思わず固まる雪樹の頭を、蓮は呆れたように軽く叩いた。
「そんなわけあるか。まあ、うまく説明できないんだが……。あのとき……お前が女だと知った瞬間、全ての道筋が見えたというか……」
「道筋?」
「…………」
蓮は頭をかいている。乱れた服を直しながら、雪樹は彼の言葉に耳を傾けた。
「いくら仲が良くても、相手が男ならば、泣き言を言える範囲にも限りがある。共にいられる時間も。だが、女ならば……。それこそ眠るときも、一緒にいられる。ひとつになって丸まって、いつまでも、いつまでも」
「そ……」
――そこに、私の意志なんかないじゃないか。強引に犯したくせに。ずるい人、ひどい人。
罵ってやりたいのに、雪樹は口を押さえられたかのように、声が出なかった。
「――俺はお前と、一生、共にいたい」
切れ長の目を更に細めて、蓮は微笑んだ。
「わ、私……!」
言いかけた途端、どろりと不快な感触が股間を這い、雪樹は硬直した。
「どうした?」
怪訝な様子の蓮に、雪樹は下を向いて説明する。
「蓮様の出したものが……その……出てきて……」
「……ああ」
気まずそうに蓮は雪樹の前に立つと、手拭いの汚れていない面を彼女の股間に当て、その上から下着代わりの布を巻いてやった。
「後宮のお前の部屋と使用人は、今も使えるようにしてある。風呂も入れるはずだ。――ほら、行って来い」
蓮は雪樹を机から下ろすと、彼女の尻をぺしんと叩いた。雪樹は顔を真っ赤にして、走り出した。
入れ違うようにして、衛兵が飛び込んで来る。
「皇! 大変です! 羽村家の……!」
「――ようやく来たか」
蓮は、口元だけで笑った。
どうしてこう、愛の行為というのは、生々しいのだろう。
男女が二人で星を眺めるだけで、コウノトリが赤子を運んできてくれる。そういったウツクシイ物語で済めばいいのに。
雪樹は恥ずかしさに身悶えながらも、下腹部に力を入れて、走り続けた。
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