第五幕 恋

五幕一


 羽村 雪樹が、自国の皇から求婚のようなものをされてから、二日が経った。

 今のところ、雪樹の生活に変わったところはない。相変わらず後宮の一番北にある部屋で寝泊まりし、静かで、少し窮屈な毎日を送っている。

 ちなみに皇、澄花信乃香蓮からのお召しは、あの日以来、ない。

毎朝彼がまめに寄越してくる手紙には、「最近忙しい」と書かれていたが――。


 ――本当かしら!?


 イライラするこの気持ちは、言い訳がましい皇の態度に腹を立てているのか、それとも単に彼に会えないのが寂しいからか、雪樹自身よく分からなかった。

 皇宮の中なら自由に歩き回っても良いとの許しが出てから、雪樹はよく医師の清田 真百合の診療室を訪ねている。真百合も忙しい身だが、そんな様子はおくびにも出さず、いつもにこやかに雪樹を迎えてくれた。

 歳の差五十以上の老医師と少女は、共にお茶を飲みながら、今日もお喋りに花を咲かせ始めた。


「この間教えてくださった、女性の体の仕組みについては、後宮のほかの人たちも知っているのですか?」


 湯のみにふうふうと息を吹きかけて、雪樹はお茶を冷ましている。「何があろうとも、絶対に女は体を冷やしてはならない」というのが真百合の持論で、だから彼女の部屋で出される飲み物は常に温かかった。


「いいえ。先皇の時代は、知りたいという女性がいれば、教えていたものだけど。蓮坊に代替わりしてからは、それもないわ。そもそも蓮坊は、後宮を使わないから……。妊娠するための知恵を授けても、寵姫たちからしたら、つらいだけでしょうし」

「そうですか……。私も、そういえば、その辺のことは全く知りませんでした。学校でも教えてくれなくて。……もしかして、真百合先生がご教示くださったアレは、皇家にのみ伝わる秘術とか、そういったものなのでしょうか?」


 声を潜め、真剣に尋ねる雪樹がおかしかったのか、老医師はクスクスと笑った。


「あなたに教えたひととおりのことは、もとは皇の血筋を保つために研究されたことなの。皇のお世継ぎを速やかに授かるための、つまり避妊することが目的ではなく、子を孕むための知識ね。別に、秘密でもなんでもないんだけど……」


 そこまで言うと、真百合は遠くを見るような目をした。


「ただ、上の人たちは、こういった知識を広めることに、否定的でね」

「どうしてですか?」

「妊娠や出産といった一連の営みを、女に制御されることを恐れているんでしょう。子が生まれなくなれば、国は衰退の一途を辿る。男たちからすれば、女は何も考えず、されるがまま孕み、子を産んでくれたほうが都合がいい。でもね、あたしたちは動物じゃない。なんでもかんでも産めばいいってもんじゃ、ないわねえ」


 真百合の話しぶりはのんびりとしていたが、その言葉にはいちいち含蓄があった。

 真百合は医師でもあり、四人の子供の母親でもあるそうだ。彼女の育児経験においては、綺麗ごとだけでは語れない事柄も、きっとたくさんあったに違いない。


「だからね、あたしはこれからも積極的に、あたしの持っている知識を、女の人たちに伝えていくつもりなの。そもそも自分たちの体のことですものね。知っておいて損はないわ」


 そして真百合は黒々とした小さな目を、雪樹に向けた。


「雪樹さんのようなしっかりした女の子に、あたしのあとを継いでもらえたら嬉しいのだけど……」

「えっ、ええ? 私なんか、無理ですよ!」

「そんなことはないわ。あなたはとても賢いもの。それにね、国の繁栄を左右する大切な分野だというのに、産科の医者を志す人はほとんどいないの。雪樹さんならきっと立派な女医になれるだろうし、患者となる女の人たちだって、みんな喜ぶわ」

「うーん……」


 決定的な返事は避けつつも、内心雪樹はそれもいいなと思った。

 医師という仕事は大変だろうが、やりがいもありそうだ。真百合は雪樹にとって憧れの存在だし、彼女のようになれたらと夢見ないでもない。

 でも――。

 将来のことといったら、もう一つ漠然とした「何か」を、雪樹は考えずにはいられなかった。


 そのまま昼食を御馳走になるまで長居してしまってから、雪樹は真百合の診療室をあとにした。自室を目指して歩いていると、後宮内がざわざわと落ち着かない。人の出入りがひっきりなしだ。

 なにかあったのだろうか。不思議に思い、ぼーっと廊下に突立っていると、雪樹は尖った声に話しかけられた。


「ちょっと、あなた」


 振り返れば、ツンと顎を逸らした若い女たちが三人、こちらを睨んでいる。仕立ての良い衣装に、身に着けている豪華な宝飾品から、この後宮で暮らす寵姫だろうと予想がついた。

 雪樹とほかの寵姫たちは、お互いなんとなく顔は知っているが、つき合いはおろか、喋ったことすらない。それは雪樹の場合に限らなかった。寵姫たちはライバル意識が強いのか、お互い慣れ合いをしないのだ。だから突然ここ、後宮に押し込められてからの雪樹は、誰からも相手にされず、孤独が募るばかりだったのだが。

 しかし今になって徒党を組み、寵姫たちは何の用だろうか。


「な、なんですか?」


 さすが国中から選りすぐられただけあって、女たちは大変美しい。しかし皆一様に、目元に険があった。


「皇のお気に入りだからって、勝手なこと、しないでくれる?」

「そうよ、そうよ! 皇をそそのかして、後宮を取り潰そうなんて! やり方が汚いわ!」

「後宮を無くして、寵姫を追い払うなんて、国を危うくする馬鹿げた行為よ!」


 キンキンと響く甲高い声に一斉に責められて、雪樹は目眩に襲われた。雪樹は彼女たちを知らなかったが、向こうはそうではなかったらしい。

「皇のお気に入りで、唯一お召しを受けた寵姫」ということで、雪樹は相当目立っていたのだろう。

 それはともかく寵姫たちの話を総合すると、どうやら後宮は廃止される運びで、今、周囲が浮き足立っているのは、そのせいのようだ。


『俺はお前以外と添い遂げるつもりはないし、他の女に自分の子を産ませようとは思わない』


 ――本気だったの?


 蓮が閨で言っていたことを思い出して、雪樹は愕然となる。そんな彼女をよそに、寵姫たちはヒステリックに捲し立てた。


「まったく、皇はこんな乳くさい女のどこがいいのかしら!」

「色気なんてちっともない、ただの子供じゃないの!」

「目は垂れているし、鼻は低いし! お尻だって、やたら大きいわ!」


 ――フルボッコである。

 際限なく続く罵詈雑言に、雪樹はなすすべもなく、立ち尽くすしかなかった。

 いつもの雪樹だったら言い返すのだろうが、理性を失うほどの嫉妬に取り憑かれた女たちは、狐狸妖怪と同じである。十六の小娘には、到底太刀打ちできない。

 そんな修羅場へ、一人の女が新たに参戦した。


「いい加減になさいませ。みっともない!」


 うなだれていた雪樹が顔を上げると、寵姫たちの後ろに侍女が立っていた。皇からの贈り物に礼状を書けと、しつこく何度も小言を寄越した、あの侍女である。


「今日中に出て行くように、通達がございましたでしょう? こんなところで油を売っていないで、早いところ、荷物をおまとめになったほうがよろしいのでは?」


 相変わらず能面のような、感情の分からない顔で、侍女は冷ややかに告げた。その冷徹な態度のせいで、寵姫たちの攻撃の矛先は、侍女に向けられることになった。


「使用人風情は黙ってなさいよ!」

「こんな一方的なこと、到底許容できないわ!」

「ここを追い出されたら、私たちどうしたらいいの?」

「あら、まあ……」


 侍女は女たちの神経を逆なでするかのように、わざと大仰なため息をついた。


「一方的も何も、あなたがたのご実家には、既に莫大な報奨金が支払われたはずでしょう? そしてその代わり、あなたがたはここでどのように扱われようとも、それこそ死体となって帰ることになっても、文句は言わないと、そういう契約を交わしたはずですよ?」

「えっ……」


 噛んで含めるような侍女の説明を聞いて、寵姫たちは顔色を失った。


「あら、ご存知なかったんですか? つまりあなたたちは、ここへ売られたのですよ。皇の子を生むための、奴隷としてね。皆様が毎日贅沢三昧なさったうえに、使用人たちにつらく当たっていらっしゃいましたのは、その憂さを晴らしているのだと、ご同情申し上げておりましたのに……。そう、ご存知なかったのですか……。ますます、哀れなことでございますね……」


 芝居がかった口調で言いながら、侍女は口元を着物の袂で押さえて、しかし笑っている。


「な、何よ、あなた! ただの使い女のくせに、無礼な!」


 寵姫のうちの一人が、侍女の腕を掴んだ。侍女は少しも取り乱すことなく、掴まれた手をつっと払うと、さも汚いものに出くわしたかのように寵姫に一瞥をくれた。


「もはやあなたがたは、ここから追い出される身。ならば、私とあなたは、ただの女同士です。かしずく理由もありません。気安く触らないでくださいますか? だいたい皆様、皇に感謝すべきですよ。このまま後宮にいても、枯れていくばかりですもの。だいぶ薹(とう)が立ってしまってますが、今ならギリギリ間に合うんじゃないかしら? 見た目だけで女を選ぶ、愚かな殿方の一匹くらいは、引っ掛けられるんじゃございません?」

「なんですって……!」


 こめかみに青筋を立てている寵姫たちを前に、侍女はパンパンと手を叩き、煽った。


「さあさあ、時間を無駄になさいませんように。それ以上シミとシワが増えないうちに――若さが衰えないうちに、オスを捕まえにお行きなさいませ!」


 以前、雪樹を叱ったときよりも生き生きと、侍女は立て板に水の如く言いたい放題に、寵姫たちを攻撃する。役者の違いを感じたのか、寵姫たちは半泣きでその場を逃げ出したのだった。


「え、えーと……」


 礼を言うべきだろうか。いや、先ほどの寵姫たちよりも、もっとスゴイ誹りを受けるかもしれないし……。雪樹が迷っていると、侍女は突然豪快に笑い出した。


「あはははっ! あの女たちのうちの一人はね、あなたがいらっしゃる前に私が仕えていた寵姫でしてね。どうしようもなく根性の捻じ曲がった、クソ女でしたよ! いつかやり返してやろうと、狙っておりましたの。このたびはグッドタイミングでした!」


 侍女の変わりように引きつつ、雪樹は尋ねた。


「で、でも、大丈夫ですか? 一応は寵姫だった人に、あそこまで言ってしまって」

「構いません。私は今日で、皇宮からお暇をいただきますから」


 侍女はおもむろに腹に手をやった。


「ここにね、赤子がいるのですよ」

「わあ! おめでとうございます!」


 雪樹が祝福を送ると、侍女はゆるゆると頬の強張りを解いた。


「……ありがとうございます」


 そう言って微笑んだ侍女の姿は、雪樹の目に眩しく映った。

 厳しくて、頭ごなしに説教してくるこの侍女に、雪樹は今まで好感を持てずにいた。だがそんなわだかまりも、一瞬で煙のように消えてしまった。もっと仲良くしておけば良かったとすら思う。子供を持った女性の喜びや幸福感は、それだけ人を魅力的に変えるものなのかもしれない――。

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