四幕四(完)

 気配を察した蓮が雪樹の顔を見、口をあんぐりと開ける。


「お前、何泣いて……! 俺はひどいことを言ったか?」


 慌てふためく蓮が滑稽で、笑いたいのにうまく笑えない。雪樹の口から漏れるのは、嗚咽ばかりだった。

 みっともないから早く泣き止まなければと思うのだが、両目から落ちる涙は、深い傷口から滲む血液のようで、自分では止められない。

 雪樹にはずっとあんなに素晴らしい父や母、兄たちの期待に添えない自分は、親不孝な裏切り者だという意識があった。それでも、どうしても彼らには従えない。彼らを正しいとは思えない。


 ――本当は誰かに、お前は間違っていない、そのままでいいんだと、言って欲しかったの。


 たった一度でもいいから、甘やかして欲しかった。


「ああ、もう、お前は怒ったり泣いたり、忙しいやつだな」


 蓮は立ち上がって身を乗り出すと、机の反対側にいる雪樹の瞼を、引き伸ばした袖でゴシゴシと拭った。

 実に、皮肉なことである。

 雪樹の自由を奪った張本人こそが、彼女を真に理解しているなんて。

 ――散々傷つけられた男に、助けられるなんて。


「雪……」


 戸惑いがちに名を呼ぶと、蓮は雪樹と唇を重ねた。机を挟んでの、無理な姿勢からの口づけだったから、触れ合ったのは一瞬で、蓮はバランスを崩し、倒れかけた。


「!」


 雪樹の涙は止まった。口づけをされたのは、これが初めてだ。驚いたが、嫌な気持ちはしなかった。


「蓮様……」

「もう泣くな。お前を散々泣かした俺が言うのも変だが、お前の涙は……胸にくる」


 今度は机に両手をついて体勢を整え、蓮は雪樹に口づけた。ちゃんと回り込んですればいいのに、その時間すら惜しい。それは二人とも同じだった。

 雪樹の心臓は怖いくらいに鳴って、だが体はふわふわと今にも浮かび上がりそうだった。

 息が当たる距離で、蓮は言った。


「雪。お前は俺の元へ来い」

「え? どういう意味ですか?」

「俺が寝起きしている建物に、一室用意してやる」

「で、でも、そういうのは許されてないんじゃ……?」


 普通、皇とその后は、一所(ひとつところ)では暮らさないものだ。それに寝食を共にするなどと、それではまるっきり夫婦ではないか。まだ彼の子供を産んでいないし、産む気もないのに、后と同等になってしまう。


「――後宮は廃止する」


 雪樹から離れると、蓮はきっぱり宣言した。

 後宮とは、建国以来続く、皇の血筋を残すための制度である。だがその甲斐も虚しく、今や始祖直系の血はほぼ途絶えてしまっており、残されたのは蓮一人だけだ。そんな今、後宮を廃止するなど、ただでさえか細い糸で繋がっているこの国の皇制を、更に危うくしかねない。


「ど、どうして……?」

「俺はお前以外と添い遂げるつもりはないし、他の女に自分の子を産ませようとは思わない」


 雪樹の顔は、カッと熱くなった。

 これはつまり求婚されているわけか。蓮にとって自分は、たくさんいる寵姫の一人ではなかったということか。


「か、勝手なことを言わないでください! 私の気持ちも聞かないで!」

「お前がどう思っていても、関係ない。俺は皇で、臣民であるお前は、俺のものだ」


 不敵に笑いながら、蓮はまるで用意していたかのような台詞をすらすらと吐き出す。悔しくて雪樹はぎりっと唇を噛んだが、本気で怒ることができない。

 後宮がなくなれば、ますます逃げ場がなくなる。蓮の子供を産まなければならない。

 だが後宮がなくなれば、蓮を他の女に取られることはなくなる。彼を独り占めできる……。

 嫌だと思う自分と、嬉しいと思う自分がいて、どうしていいか分からない。雪樹は縋りつくように蓮を見た。彼女の視線を真正面から受け止めて、蓮は咳払いをする。


「雪、その……。もう一回、口づけてもいいか?」


 雪樹はがくっと脱力した。なぜそこは、伺いを立てるのか。初めての性交のときも、先ほどの求婚のときも、こちらの意志なんてお構いなしだったくせに。


「勝手にすればいいでしょう! あなたは皇で、なんでも好きにできるんだから!」


 雪樹が頬を膨らませていると、蓮は苦笑しながら再び背を屈めた。


 ――本当は、私だって、もっともっとして欲しいけどね……。


 雪樹は、きっと今自分は、とてもバカみたいな顔をしているんだろうなと思いながら、瞼を閉じた。


「そういうことなら、あたしは出直そうかしらね」

「!」


 嗄れた声に裂かれるようにして、二人は離れた。振り向けば、図書室の戸口に小柄な老女が立っている。


「真百合婆! なんで、ここに!」

「あなたが呼んだんでしょう。このババを追い抜いて、もうボケたの? 蓮坊」

「わ、私は部屋に戻ります!」


 雪樹はそう言うと、そこらの何もない床に何度も躓きながら、走り去った。泡を食って逃げる少女の後ろ姿を見送って、清田 真百合は微笑んだ。


「可愛いわねえ」


 バツが悪そうな顔をしていた蓮も、真百合がひょこひょこと室内を進み、自分の前に腰掛けると、表情を改めた。


「真百合婆、もうじきのようだ。前に相談したとおり、頼んだぞ」

「考えを変える気はないの? あたしが見たところ、あの子はあなたを好いているように思うけど」

「それは、俺が強いてしまった環境のせいだ。俺はあいつを傷つけたんだぞ? そんな俺を、どうして慕うものか。あいつには今、俺以外、頼る者がいないから。愛だとか恋だとか、そういうものじゃない」


 いつもはのんびりと穏やかな話し方をする真百合は、このときだけは歳若い青年を諭すような、厳しい口調で言った。


「彼女の気持ちが錯覚だと思いたいのは、蓮坊、あなたのほうじゃないの?」

「…………………」


 蓮は一瞬視線を泳がせ、そして答えた。


「――頼む、真百合婆。もう、これ以上は……。頼むから……」


 うなだれてしまった蓮を見て、老医師は諦めたようにため息をついた。


「分かった。任せておきなさい」

「ありがとう……」


 弱々しく、蓮は礼を言った。



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