四幕三

 蓮が春画本を棚にしまうのを見計らってから、雪樹は姿勢を正し、彼に向き直った。


「蓮様が、私に夜な夜なひどいことをするのって、そういう本の影響じゃありませんか? 二次元と三次元の区別がつかなくなってるっていうか」

「お前は、どこぞのインチキ評論家か」


 雪樹の主張をバッサリ切り捨てると、蓮は机に肘をついた。


「ところでお前は成績優秀だそうだが、何のために勉強しているんだ? 将来、何かなりたいものでもあるのか?」


 まるで面接官のようなことを聞く。思ってもいなかった質問に、雪樹は面食らい、言葉を詰まらせた。


「将来ですか。うーん……。そうですね、強いて言えば、お金儲けがしたいですね。商人とか、金貸しとか」

「随分生臭いことを言うんだな」


 蓮は眉をしかめた。この皇は、少しロマンチストなところがある……。


「だってお金は、いくらあっても困りませんよ。世の中の不幸は、お金があれば大体解消しますし……」


 良妻賢母になるため、勉学に励みたいのです、とでも言っておけば満足だったろうか。だが雪樹はそんなおためごかしを言うのは嫌だったし、大体心にもないことを言ってもすぐに見破られるだろう。蓮は意外に鋭いのだ。


「それに私は女ですから、大志を抱き、大きなことをしようとしても無理なんですよ。公的機関にはまず入れませんし、名の知れた会社にだって雇ってもらえません」

「ふむ。だがその状況で、どうやって金を稼ごうというんだ?」

「そうですね、自分で商売を立ち上げます! 最近は、活躍されている女社長も、増えてきているそうですし」

「まあ、女にしかできぬ発想や、感性というものもあるからな。男が作り、与えるものだけでは、皆が皆、満足はできまい。しかし、商人か……」


 蓮は読みかけの本を閉じると、脇にあった葛籠を目の前に置いた。先ほど雪樹から返された、あの葛籠である。蓋を開けると、蓮はその中から、指輪を二つ取り出した。


「これとこれ、どちらが高いか分かるか?」


 一方は金色、一方は銀色である。考えるまでもないと、雪樹は即答した。


「それはもちろん、こっちの金の指輪でしょう?」


 ところが蓮は首を横に振った。


「この銀色の指輪はな、白金という金属でできている。金よりも作るのが大変だから、その分高いんだ」

「ええ! この地味なのが、金よりも高いのですか!」


 蓮は、目を丸くしている雪樹の前から指輪を引き上げると、今度はブローチを置いた。


「この石と、この石なら、どっちだ?」


 蓮が指したのは四つ葉のクローバーを象ったブローチだったが、葉の部分に嵌められている宝石は、二種類に分かれていた。両方とも緑色なのだが、一方は若草のように薄く、もう一方は深く濃い。雪樹はじっくり二つを見比べた。


「こっちの、色の薄い石のほうが高価だと思います! 透き通ってて、綺麗だし。そっちの濃いほうは、なんだか毒々しいもの」

「ハズレだ。濃いほうの石は翠玉といって、希少価値が高い。お前が選んだのは橄欖(かんらん)石だ。庶民の小遣いで買える」

「ええー……」


 雪樹は肩を落とし、そんな彼女を蓮は冷たい目で見詰めた。


「お前みたいなボンクラが、金の稼げる商人になりたいなどと、よくもぬけぬけと言えたもんだな」

「うっ……。これからですよ! これから!」


 そう言い訳しながらも、自分に刺さる蓮の尖った視線が痛くて、雪樹はそそくさと話題を変えた。


「蓮様はさすが、目が肥えていらっしゃいますね」

「興味を持って見ているか、見ていないかの差だろう。男の癖にと言われるかもしれないが、俺は美しいものが好きだ」

「はい、存じています」


 それは生き物が躍動する姿だったり、草花の凛とした佇まいだったり、人間が苦労を重ねて生み出した芸術の類だったり。

 蓮は昔から感受性が豊かで、あらゆるものから美を見出す、そして評価する才能に長けている。どちらかというと鈍感でガサツな雪樹は、自分にはない感覚を持った蓮が羨ましかったし、尊敬もしていた。

 確か蓮は鑑賞するだけでなく、自ら書や絵を描いたり、楽器を演奏したりといったことも得意だったはずだ。最近は見かけなくなってしまったが、また彼の作品を見てみたいと、雪樹は思った。


「俺は、優等生のお前ならば、てっきり父親の手助けをしたいとでも言うと思った。三人いるお前の兄貴たちは、皆そうしているんだろう?」


 蓮は読書を再開しながら、尋ねた。


「――父は私に、期待などしていないのです」


 雪樹の声色が、ふと変わった。暗く、沈んでいる。

 蓮は顔を上げた。


「私だって、父をお助けしたいと思っていました」


 雪樹の上の兄たちは成人後、ある者は議会へ入り、ある者は他の重要機関に勤め始めた。どれもこれも、父を助けるためだ。そんな兄たちを見て、雪樹も早く父の役に立ちたいと思った。そのための準備として学問に励み、彼女の成績は兄たちを凌ぐものとなったのだ。

 だが、雪樹が義務教育を修め終わると、父は娘の努力を労いながらも言ったのだ。


「勉強はもういいから、これからは可愛いお嫁さんになるために、家事の腕を磨きなさい」


 父は雪樹の手助けなど、全く必要としていなかった。褒めてはくれても、期待はされていなかったのだ。

 将来の目標を、他ならぬ父自身に砕かれてしまい、雪樹の目の前は真っ暗になった。

 父の言うとおり、花嫁修業でもしていればいいのだろうか。そう思いかけたが、今までの努力を無にしてしまうのが悔しかった。

 それに――。父は娘には何もできることはないと決めつけているようだが、果たして本当にそうなのか?

 自分は本当に役立たずなのか?

 それは雪樹が父に抱いた、初めての疑問と反抗心だった。

 それからの雪樹は、家事や礼儀作法その他を学びながら、今まで以上に勉学に励んだ。その結果、国内一の学問所へ入所を許可されるまでに至ったのだ。


「父は私を、厄介でわがままな娘だと思っているでしょう。父は私を愛してくれているのに、私は父の言うことを聞かないから」


 首をすくめて、雪樹は冗談めかして言った。自慢の父を語るときに、胸に痛みが走るようになったのは、いつからだったろう。


「檻、だな」


 蓮は手元の本に視線を戻し、ぽつりと言った。


「檻……?」


 口にしてみると、なるほど、と雪樹は思った。

 父に自分の希望を伝えたあと、どれだけ手をつくして説得を試みても無駄だった。父のために働きたい、それが無理なら学業を続けるか働きたいと懇願しても、父や兄は決して認めようとはしなかったのだ。彼らはまるで愛犬が粗相したときのような生暖かい眼差しで、「お前の幸せのためなんだよ」と一様に唱えるだけだった。

 父たちが見せたそれは、優しさなのだろうか?

 少なくとも、彼ら自身はそう信じて疑わないだろう。だが雪樹からすれば、気味の悪い押しつけでしかなかった。


 ――お父様たちのあれは、私にとって檻のようなものだわ……。


「子供は別に、親のために生きるわけじゃない。産んだのは親の勝手で、どう育つかは子供の勝手だ。親の元では自由に生きられないならば、羽村の名前など捨ててしまえばいい。俺が拾ってやる」

「あなただって、私を閉じ込めるじゃないですか!」

「ははは、そうだな。俺も人のことは言えない」


 雪樹が嫌味を言うと、蓮は豪快に笑った。やっぱり彼は、雪樹を家に帰さないことについて、反省などしていないようだ。


「芭蕉の言うとおりに育ったならば、お前は随分つまらない女になっていたことだろう。俺は小生意気でやかましい、今のお前のほうがいい」

「……!」


 さして熱っぽいわけでもなく、ごく自然な蓮の囁きを聞いた瞬間、雪樹は動けなくなった。

 頭の芯がぼんやりと痺れて、目の奥が熱くなる。気づけば、涙が零れ落ちていた。

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