三幕二


「さて、伝えることは大体伝えたし、そろそろあたしは失礼しますよ」


 真百合が退室すると、侍女は雪樹を冷たく睨みながら、急かし始めた。


「さ、早くお礼状をお書きなさいませ!」


 仕方なく、雪樹は筆を取った。礼状の文面に蓮への嫌味や悪口を織り交ぜてやろうかと思ったが、侍女がべったり張りつき、筆の走る先を覗き込んでいるから、結局無難なことしか書けなかった。

 書き終えた便箋を折り畳むのもそこそこに、侍女はそれを奪うと、さっさと小走りに部屋を出て行った。

 後宮においては、寵姫とそのお付きの侍女たちは、一心同体の関係であるらしい。皇の寵愛を受けんがため協力し合うのだ。首尾よく皇の子を産めば、寵姫には后や夫人といった格別の地位が与えられるし、侍女たちにも昇給など、それなりの見返りがある。

 そういった事情を鑑みれば、侍女からすると、素性もよく分からない、後宮のしきたりに従おうともしない、そもそも皇を敬わず、反抗的な態度を取り続ける雪樹のような少女は、仕えるにしては最悪の主人なのだろう。


「今は皇に贔屓されているみたいだけど、きっとすぐ飽きられるわ」。


 侍女たちがそう陰口を叩いているのを、雪樹も聞いたことがある。


 ――私は好きでここにいるわけじゃないのに。


 イライラと機嫌悪くしていると、再び侍女が現れた。


「なんですか? まさか礼状を書き直せとでも?」

「礼状? ――いえ。お客様でございます」


 先ほど葛籠を持ってきた者とは、別の侍女だったらしい。間違えられたことに腹を立てるでもなく、侍女は戸を開けると深々と礼をして、客人を招き入れた。


「失礼致します」


 客人が入ってきた途端、室内の空気が変わった。

 色が白く、とても細い女性だった。その美貌といったら、まるで絵の中から抜け出てきたかのようだ。

 別世界の人間に突如遭遇したかのように、雪樹はポカンと間抜けな顔をして、客人を見上げていた。侍女は咳払いすると、そっと雪樹に耳打ちした。


「珀桜皇太后。皇のお母上でいらっしゃいます」


 雪樹は慌てて立ち上がると、ぎくしゃくとお辞儀をした。


「は、はじめまして……!」


 ここに閉じ込められる前、蓮の幼なじみとして十年もの間皇宮に通っておきながら、皇太后とお会いしたのは初めてのことだ。もっとも、おいそれとお目通りが叶う相手でもないのだが。


「羽村 雪樹さんですね。このたびは蓮がとんでもないことをしでかしまして、申し訳ございません……」


 か細い声で詫びながら、皇太后は頭を下げた。


「いや、あの、その……! お母様のせいではありませんので……!」


 雪樹はぶんぶんと首を振った。現在の境遇について文句は多々あったが、色々言ってやりたいのは皇当人であって、その家族に対しては何も思っていない。それにこんな美しい人に謝られてしまうと、意味もなく申し訳ない気持ちになってしまう……。

 とりあえず皇太后に上座を譲り、落ち着いてもらった。ほどなく侍女がお茶を運んでくる。

 雪樹の部屋は後宮内では一番上等だというが、天女のように光り輝く皇太后を迎えてしまうと、辺りがみすぼらしく見えてしょうがなかった。

 皇太后はちらりと雪樹の顔に目をやった。


「雪樹さんは、やはり羽村様に似ていらっしゃいますね」

「父をご存知なのですか?」


 皇太后は小さく頷いた。


「羽村 芭蕉様。わたくしは芭蕉様に、またご迷惑をおかけしてしまいました……。芭蕉様のお兄さまとわたくしは、結婚を前提におつき合いしておりました……」

「えっ……」


 驚きに、雪樹は言葉を失った。父の芭蕉には確かに兄がいて、雪樹からすれば伯父に当たるその人は前皇の不興を買い、皆の見ている前で手打ちにされたと聞いている。そのことがあって以来、父は皇一族を憎むようになったとも。


「わたくしは名ばかりは貴族ですが、とても貧しい家の生まれでした。そんなわたくしを、芭蕉様のお兄さまは、妻にと望んでくださったのです。わたくしもあのかたを心からお慕いしておりました。ですが……。先皇がわたくしをご自分の寵姫としてお選びになり、その申し出を貧しかったわたくしの家は、一も二もなく喜んで承ったのです。恥ずかしい話ですが、後宮に入った娘の家には、莫大な報奨金が出ますからね。こうしてわたくしは、皇宮へ参ったのです……」


 目を丸くしたままの雪樹の前で、皇太后は語り続けた。


「わたくしを愛してくださったあの方の――雪樹さんの伯父様の怒りは深く、先皇へ直接抗議に上がったと聞きます。羽村家と皇家は親戚の間柄ですから、わたくしを帰してくれるのではという期待が、あったのかもしれません。しかし先皇は無慈悲にも、あの方を斬り捨てた……」


 語られているのは随分悲惨な内容だというのに、雪樹は楽器が奏でる旋律を聞いているような気分になった。皇太后の話はスラスラと滞ることなく、流れていく。


「そのようなことが……」


 そう答えるのが精一杯だった。何故この人は、こんな話を聞かせるのだろう。不思議だった。

 皇太后の眉がぴくりと動く。変化といえばそれくらいだったが、雪樹は自分が彼女の機嫌を損ねたのだと分かった。

 もっと同情や労りの気持ちを表せば良かっただろうか。だがそれも白々しくて、取り繕うのはやめた。

 雪樹が皇太后に見せたある種の冷たさは、雪樹が子供だからなのか。

 ――違う。雪樹もまた成熟した「女」だからこそ、同性のそういった面倒くさい部分が鼻についたのだ。


「ごめんなさいね、突然。羽村様のお名前を聞いたら、懐かしくなってしまって……」


 皇太后は優雅に立ち上がり、雪樹も急いで腰を上げた。


「あ、いえ……。お会いできて光栄でした」


 皇太后は去り、彼女が口をつけようとしなかったお茶と、香水の上品な香りが残された。

 一人きりになってから雪樹は、蓮にとりなしてくれるよう、皇太后に頼めば良かっただろうかと考えた。

 ――いや、あの人には無理だ。

 あの美しい女性は、自分の描いた悲劇の中で生きている。現実の世界は彼女に何も影響を与えないし、彼女もまた与えられないのだ。





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