第三幕 迷い
三幕一
真新しい帳面に筆を走らせては止めて、また動かしては止める。上の空というわけではなく、むしろ淀みなく進む説明に、熱心に耳を傾けた結果である。聞き取った内容から、つい実際の行為を思い出してしまい、顔は赤く熱くなって、手が止まってしまう。だから雪樹の帳面は、なかなか埋まらないのだ。
「男女の営みについての注意点は以上。さて、では次に、排卵について……」
性に関するきわどい事柄を、老女は淡々と語る。医師からすればセックスなど、ただの生殖行動に過ぎないのだろう。いやらしいとか、いやらしくないとか、そんな次元の話ではないのだ。それは分かるが、聞かされるほう、特にうら若き乙女ならば、冷静に聞くのになかなか苦労する。
霧椿皇国の皇の住まい、花咲本皇宮には、国内の美女たちが集められた後宮がある。その中の一室で、今回の講義は行われていた。
講師は、後宮付きの老医師、清田 真百合。生徒は、現皇の大のお気に入りと噂される羽村 雪樹、一人のみだ。そして本日の講義のテーマは、「妊娠の仕組みについて」である。
「卵子が精子を受け止めることで、妊娠は起こる。平たく言えば、卵子が排出される日、つまり排卵日の前後に性交すればいいわけね」
「…………………」
真百合の講説は大変分かりやすかったが、雪樹には自分にも妊娠する可能性があるということがピンとこなかった。なんだか人ごとなのだ。恐らくはついこの間まで処女で、男性とは縁のない生活をしていたからだろう。
妊娠、出産、育児。
雪樹の眉間に皺が寄る。まだ若く、やりたいことがたくさんある彼女にとって、それらは足枷としか思えなかった。
――蓮様の子を宿すわけにはいかない。だからきちんと理解しなければ。
雪樹の表情には真剣味が増し、彼女は真百合医師の言葉を一言一句聞き漏らすまいと、筆を握り直した。
「排卵は、次の月経の、おおよそ十四日前に起こると言われています。卵子は一日程度しか生きられないけど、精子は女性の体内で、三日ほど跳ね回っているらしいの。それらを踏まえて計算すると、月経終了後五日から十五日が、最も妊娠しやすい期間といえるでしょう」
雪樹は思わずポロリと筆を取り落とした。
「私、もしかしたら、とても危ないところだったんですね……」
老医師の説明にあるような時期、彼女はまさに極端な回数の性行為を強要されていたのだ。
――雪樹が皇の囚われ人になってから、もう一月以上になる。
閨に呼ばれるようになってからほぼ毎日、二人は交わっている。
雪樹は皇との爛れた関係を、決して望んでいるわけではない。しかし抵抗して抵抗して疲れ果てたところを、圧倒的な快楽に引きずり込まれ、ゆっくりと食べられてしまうのだ。
そして――。嫌だとは思いつつも、しかし雪樹はそんな日々に慣れつつもあった。順応とは恐ろしい。
だが、妊娠の可能性があるなら、話は別だ。体は好きなようにされていても、雪樹はまだ最高学府への入所と、立派な社会人になるという夢を、あきらめてはいないのだから。
好きでもない男の子供を産み、后などになっている場合ではない。そんな彼女に、ついこの間、予定日どおりきっちりと月経が訪れたのは、僥倖といえるだろう。――しかし。
「先生のお話によると、私は今日からまた妊娠しやすい時期に入ります。――心配です。閨行きを断りたいけど、それは許されません。どうしたらいいんでしょうか……」
雪樹の嘆きから分かるとおり、今回の講義が開催された理由は、妊娠を望んでのことではない。逆だ。避妊の知識を得るため、なのである。
「蓮坊に『真百合婆さんの講義を受けた』と言ってごらんなさいな。そうすれば大丈夫よ」
「え? あの、そんなことで本当に?」
あの強引な皇が、それくらいで諦めてくれるのだろうか。信じられなくて、雪樹は聞き返した。
「ええ。試してみて」
識者というよりは優しいおばあちゃんのように、真百合は人懐っこく笑った。皺だらけの純朴な顔に浮かぶ笑顔を見ていると、なんだかホッとする。心は和み、不安は飛んでいくようだ。だからつい、雪樹は苦しい胸の内を吐露してしまった。
「私は一体いつ、家に帰してもらえるんでしょうか……。学問所も、とうとう来週が入所日になりますし……」
「入学金も入所届も送ってあるんでしょう? 少しくらい遅れても平気ですよ」
確かに二、三日は欠席しても許してもらえるだろうが、それを越えたら厳しいのではないか。
焦るあまり取り乱してしまいそうで、雪樹は拳を握り締め、堪えた。泣いている幼子を慰めるように、真百合は優しく言った。
「もうちょっとだけ辛抱してね。蓮坊は分かっているよ。これが短い夢だって」
「え……?」
皇の真意を、この老女は知っているのだろうか。聞き返そうとした雪樹を、戸口の向こう側の誰かが遮った。
「入ってもよろしいでしょうか」
許しを求めているくせに、拒否することは許さないというかのような、傲慢さが滲んだ声だ。――いつものことではあるが。仕方なく、雪樹は入室を許可した。
「――どうぞ」
「失礼致します」
現われたのは、雪樹の世話をしてくれる侍女の一人だった。彼女たちは皆似たような形に髪を結い、似たような化粧をし、似たような背丈で、そして着ているものは全く同じである。年の頃も近い者たちを集めているらしく、ここで暮らすようになってから一月経っても、雪樹には誰が誰だか見分けがつかなかった。
「皇からの贈り物でございます」
侍女はそれほど大きくはない葛籠を、両手で恭しく掲げ持っている。
「あ、そうですか。その辺に置いておいてください」
「――そういうわけには参りません。早速ご開封いただき、皇へのお礼状をしたためてくださいませ」
ぞんざいな態度の雪樹に対し、侍女はあからさまにムッとした様子で強く主張した。
「ハァ?」
雪樹は珍しく、不躾に言い返した。
今すぐ礼状を書けとは、真百合というお客様がいながら、随分失礼な話ではないか。皇とは、そんなに偉いものなのか。――いや、偉いんだろうけれども。
大体いちいち手紙など渡さなくても、どうせ今夜だって閨に呼び出されるに決まっている。礼をしろと言うなら、そのときでいいではないか。
「今は別にすることがあります。贈り物はあとで見ますから」
雪樹が硬い声色でそう言うと、侍女はわざと大げさに失望のため息をついた。
侍女たちは普段から妙に高圧的だ。雪樹のことを何も知らない小娘と侮り――実際、雪樹は後宮のことなど知らないし、知りたくもないが、侍女たちはそんな彼女をあからさまに馬鹿にしている。
侍女たちの態度に、いい加減鬱憤が溜まっていた雪樹は、この際だから徹底的にやり合ってやろうかと奮い立った。その気勢を、当の「お客様」である老女が削ぐ。
「あたしのことは気にしないで。それより、蓮坊はどんなものを贈ってよこしたの? 見てみようよ」
「はあ……」
気乗りはしないものの、真百合の顔を立てるつもりで、雪樹は侍女から葛籠を受け取り、開けてみた。中に入っていたのは、花を模した髪飾りだった。黄金を一枚一枚薄く伸ばして作られた花びらの、その中心に、透き通った桃色の宝石が嵌っている。
「へえ、なかなか洒落てるじゃない! 真ん中の大きな石は、金剛石ね。こんな色のを見たのは初めて」
確かに、とても可愛らしい髪飾りだ。思わず見惚れてしまってから、それが罪であるかのように、雪樹は顔をしかめた。
「受け取れません。お返ししてください」
雪樹だって年頃の娘だ。正直に言えば、この美しい品が喉から手が出るほど欲しい。が、受け取ってしまえば、皇が自分にした数々のひどい仕打ちを許してしまうことになるような気がして、とてもできない。礼だって言いたくないし。
頑なな雪樹を宥めたのは、やはり今度も真百合だった。
「まあまあ、雪樹さん。くれるというなら、貰ってやればいいのよ」
「でも……。私には似合いませんし」
「何を言ってるの! 若いお嬢さんにはぴったりじゃない! あんたは、本当に桃色が似合う。さ、髪に付けてあげようね」
反論する暇も与えず、真百合は畳に座る雪樹の後ろに回ると、中腰になった。
「なつかしい。娘たちの髪を結ってやったことを思い出すわ」
雪樹の長い髪を、侍女に持ってこさせた櫛で梳かしながら、真百合は目を細めた。
「先生にもお子さんがいらっしゃるのですか?」
「ええ、四人ね。三番目と四番目が女の子だったの。もう二人とも嫁いで、子供がいるけれど」
「へえ……」
医者という立派な仕事をしながら、子供を産み、育てた。そういう女性もいるのだ。雪樹はますます、真百合への尊敬の念を深めた。
「さ、できた。ほら、とってもよく似合ってる」
まとめ上げた艶やかな黒髪の脇に、皇から贈られた髪飾りを挿して、真百合は雪樹に手鏡を渡してやった。
「…………………」
悔しいが髪飾りはとても綺麗で、鏡に写る雪樹の顔は緩んでしまう。そんな雪樹を見て、真百合はにこにこと笑っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます