二幕二(完)





 望むとも望まないとも関わらず、時間は人を無理矢理にでも癒していく。

 体さえ健康であれば腹は減るし、喉も渇く。日に三度運ばれてくるご馳走をつまんだり、香り高いお茶を飲んでいるうちに、雪樹の心と体は再び動き始めた。

 そうして、まず気になったのが、実家のことである。皇宮に留め置かれてから、どれだけ経っただろう。五日ほどだろうか。これほど長い間、家族の許可もなく外出したのは、初めてのことだ。両親はきっと心配しているだろう。

 次に気がかりだったのが、ようやく難関を突破し、入所を勝ち得た「霧椿西方高等学問所」のことである。幸いというべきか、入所届と学費は、合格の知らせが届いた即日、送付済みである。しかし学問所が始まるその日までに、ここから出られるのだろうか。


 ――そもそも、なぜ私は、こんなところに閉じ込められているのだろう?


 意識がはっきりしてから、「家へ帰してくれ」と、雪樹は侍女たちに頼み続けていた。雪樹が接触できるのは、身の回りの世話をしてくれる彼女たちしかいないのだ。だが侍女たちは、「皇の許しがなければ、ここからは出られません」と、それしか言葉を知らぬかのように繰り返すだけだった。

 雪樹にあてがわれたこの部屋は、後宮内にある一室だという。後宮といえば、皇の子供を産むための女が集められた場所のはずで、雪樹にとっては全く縁のないところだ。

 真百合という医師は「後宮に入るならば」と、まるで雪樹が皇の寵姫になるかのような物言いをしたが――。老医師の言葉を思い出して、雪樹は首を振った。


 ――ありえない。


 雪樹は十六歳。確かに結婚し、子供を産んだとしても、おかしくはない年齢だ。だが雪樹自身にそんな考えは毛頭ない。

 雪樹の望みはたくさん勉強をして、立派な社会人になることだ。そのための障害になるのなら結婚なんてしなくていいし、子供もいらないとさえ思っている。

 することもなく寝転んでいるのにも飽きて、雪樹は縁側に腰掛けながら、庭を眺めた。建物全体を覆う高く頑丈な塀の手前には、花や木が植えられている。雪樹の部屋の前には、小さな池も誂えてあった。水面に目をこらしてみたが、濁ったそこには藻ばかり浮かんでいて、魚や虫などといった生き物はいないようだ。

 ふと雪樹の頭の中で、鮮やかな鱗を纏った一匹の魚が元気良く跳ねた。先日「日当の池」で見た、あの鯉だ。と同時に、それらを愛おしそうに見守っている、蓮の姿も思い出した。図体は大きく顔も怖い彼は、しかし心根はとても優しいのだ。

 そう、思っていたのに。


 ――あれは本当に、蓮様だったのだろうか。


 どれだけやめてと懇願し、泣いても、手を緩めることなく、欲望を遂げたあのときの蓮は、雪樹の知る彼ではなかった。どこかの獣が、彼のふりをしていたのではないだろうか。


 ――いっそ、そのほうがいい。少なくとも、蓮様を憎まずにいられる。


 あんなことをされながら、雪樹はまだ蓮のことを嫌いにはなれなかった。

 痛くて、怖かったのは確かだ。いやらしいことをされたのも嫌だった。

 でも許せないかというと、そこまでではないような気がする。――甘いのだろうか。

 だが蓮とは十年もの間、友情を交わし合った仲なのだ。雪樹にとって彼との絆はとても尊く、あんなくだらないことで失うのは、バカバカしいようにも思えた。


 ――また前のように、仲良くできたらいいのに……。


 雪樹は目の前の汚れた池を覗き、そこにはいない鯉を探し続けた。





 皇の寝所の裏には、ひっそりと佇む小さな離れがあった。皇が後宮の女と交わるための場所、いわゆる「閨」である。

 その八畳ほどの部屋の中で、緊張した面持ちの雪樹が正座をしていた。


「皇のお召しでございます」


 機械じかけの人形のように表情のない侍女からそう告げられたとき、雪樹はさっぱり意味が分からなかった。尋ねても説明はなく、代わりに風呂に入れられ、全身に香油を塗りたくられ、美しい衣を着せられて……。そして、この閨に連れて来られたのだった。どうやらこのあと、皇がお越しになるのだそうだ。


 ――やっと蓮様と話ができる。


 彼の口からどうしてあんなことをしたのか、雪樹はその理由が聞きたかった。

 そして、誠心誠意謝ってくれたなら、許さなくもない。自分だって、男だと性別を偽っていたのだ。おあいこである。仲直りして、また友達に戻りたいと、雪樹はそう思っていた。

 周囲がわずかにざわめく。雪樹が顔を上げると同時に障子が開き、一枚の衣に帯のみという略装に身を包んだ、蓮が現れた。いつも頭上に戴いている、漆黒の冠がない。そんな彼を見たのは、雪樹は初めてだった。

 皇となる人物は常に冠を着けて、外すのは入浴時や寝るとき、もしくは家族と過ごすときだけだと聞いている。いつもは冠の中に収めている、長い黒髪を下ろした蓮は、雪樹の知っている彼ではないような気がした。

「獣が彼のふりをしている」。自分の妄想を思い出して、雪樹の肚はひやりと冷えた。

 だが、ここで逃げたら負けだ。きっと家にも帰れないし、学問所にも入れない。

 組み敷かれたときの力の強さ、そして直後自分を襲った体を引き裂くような痛みを思い出して、雪樹の体は震えたが、彼女は精一杯蓮を睨んだ。

 しばらく火花を散らしてから、先に視線を外したのは蓮のほうだった。


「こうして見れば、どこからどう見ても女なのに……。俺はなぜ気づかなかったのか……」


 腹立たしげなつぶやきに続く言葉を、雪樹は待った。「すまなかった」、「ごめん」。その一言が欲しい。

 だが蓮は雪樹の手を掴んで強引に立たせると、次の間へ続く襖を開けた。薄暗い畳の上には、布団が一組敷かれている。嫌な予感に、雪樹は全身を強ばらせた。


「な、なにを……! きゃあっ!」


 最後まで言う前に突き飛ばされて、雪樹は布団の上へ倒れ込んだ。


「何をする気なのですか!」

「愚かな質問だな。やることなど一つしかない。ここはそういう所だ」


 蓮はしゃがみ込むと、雪樹の顎を掴んだ。逃げる間も与えず、唇同士を寄せる。目線と目線が至近距離でぶつかると、凍りついたように自分を見詰めている雪樹を前に蓮は舌打ちをして、彼女を押し倒した。


「やっ、やめてください!」


 この前の繰り返しになる。雪樹は必死に抗った。しかし蓮は雪樹のか細い胴の上に体重がかからぬよう跨ると、美しい桃色の衣を裂いた。


「いやっ……!」

「これほど豊満な体を隠しておくのに、さぞ苦労したことだろうなあ? 雪」


 皮肉めいた冷たい声に撫でられ、雪樹の肌は粟立った。下着を着けることを許されなかった時点で、おかしいと気づくべきだったのだ。愚かな自分自身を、雪樹は呪った。


 ――怖い。蓮様はまた、知らない誰かに変わってしまった。


 滑らかなくびれを描く少女の胴を、蓮は手のひらでゆっくりとなぞった。


「蓮様、やめてください! こんな、こんなくだらない、バカみたいなこと! 皇ともあろうお方が、みっともない!」

「――くだらない。くだらない、か。確かにな」


 喉の奥で笑いながら、蓮は雪樹の体に口づけを施し、ゆっくり下がっていった。


「皇である俺が、こんなくだらない、バカみたいなことにしか縋れない。ただ一人の女も、縛っておけない。――確かに、みっともないことだな」


 雪樹の苦言を真似て、蓮は自らをあざ笑った。


「こんなこと、嫌です! 私はあなたの寵姫になりたいわけじゃなくて、友達に……! 前、みたいに……っ!」

「また男のふりでもするのか?」


 雪樹は幼子のようにかぶりを振った。


「やっ、やあ……っ! お願……っ、やめてください! こわ、い……!」

「何がこわい? お前の知らない世界を、見せてやろうというのだぞ?」

「いやっ! いやあっ!」


 このまま身を任せていたら、どうなってしまうのか。どこまで堕ちていくのか。今だってだらしなく足を開き、男の辱めを受け入れているのに。

 情けなくて、死んでしまいたい。そんな想いも、快感の波がさらっていく。


「雪、お前は紛れもなく、女だったようだな? 男に体をいじられれば悦ぶ、そういう生き物だ。そんなお前が、どのツラ下げて、男のふりなどしようというんだ?」

「…………………」


 女。――女。

 からかうような蓮の言葉が、雪樹の胸に痛みを伴って染み込んでいく。









 全てが終わったあと、蓮は雪樹に背を向けて、身支度を整え始めた。部屋に唯一響く衣擦れの音を聞いているうちに、雪樹の胸は虚しさでいっぱいになった。涙がこみ上げてきて、声を殺して泣く。わずかに漏れる嗚咽に気づき、蓮は振り返った。


「雪……」


 乱れた格好のまま、肩を震わせている雪樹に手を伸ばしかけて、だが蓮はそれを引っ込めてしまった。やがて雪樹がぽつりとつぶやく。


「あなたも結局、父や兄たちと同じなんですね……」

「なに……?」

「私たち、友達だったのに……。私が女だと分かった途端、こんなことを……。あなたも、父や兄たちと同じ。女には人格なんてないと、思ってるんでしょう?」

「違う!」


 即座に否定されて、雪樹は思わず蓮を仰ぎ見た。蓮は気まずそうに、雪樹から目を逸らした。


「お前と過ごした十年……。俺たちの間には確かに、友情も信頼もあった。それはお前が女だったとしても変わらない。俺はお前が宮に来るのが楽しかった……」


 光を見たような気がして、雪樹は体を起こした。

 だったら……!


「――だが、あの頃には戻れない。諦めろ……」


 それだけを言うと、蓮は部屋から出て行ってしまった。高い背を屈ませ、戸をくぐって行った蓮の横顔は、雪樹の知っている彼のそれだった。――獣、じゃない。


「どうして……」


 この期に及んでも、雪樹が思い出すのは、蓮と過ごした日々だった。

 皇宮を駆けずり回り、一緒に本を読んで、動物や植物の世話をした。恐ろしげな外見と裏腹に、蓮は聡明で繊細だった。わがままで偏屈なところもあったが、面倒見が良くて、情が深かった。

 蓮にされた仕打ちよりも、彼との関係が修復できないという事実に、より打ちのめされている。そんな自分に気づいた雪樹は、蓮の香りが残る自らの体を抱き締めた。





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