第二幕 監禁

二幕一





 天井の木目を、雪樹はぼんやりと眺めた。寝かされている布団は、綿がぎっしり詰まっていて、厚く、柔らかい。与えられた畳の間は塵一つなく掃き清められており、置かれている家具はわずかだったが、いずれも品が良く、見るからに高価そうだ。

 辺りは、水を打ったように静かだった。

 普段ならば心地良くまどろめるだろう環境であっても、すっかり傷んでしまった心には安らぎをもたらしてくれない。雪樹の瞼は閉じることなく虚ろに開いたままで、その瞳には真っ黒な絶望がべっとりと張りついていた。

 今まで兄のように親友のように慕っていた男の、手酷い裏切りと暴力――。

 昨日の蓮の蛮行、あれは悪い夢だったのではないだろうか? そう思いたい雪樹の、しかし彼女自身の体がきっぱりとそれを否定する。女の体の最も深い部分が熱を持ったように痛み、あれは実際にあったことだ、お前は汚されてしまったのだと、告げるのだ。

 ――ここは、花咲本皇宮内にある、後宮の一室である。

 小さな足音がしたかと思うと、北側にある引き戸が静かに開き、手に盥を持った老女がひょいと姿を現した。


「はい、失礼しますよ。あたしは清田 真百合きよた まゆりっていいます。これでも医者でね。後宮の女の人たちの、健康管理を任されております」


 シミひとつない真っ白な前掛けをした老女は、皺だらけの顔に人懐こい笑みを浮かべている。その辺の子供と変わらないほどの背丈で素朴な風体の彼女に、「真百合」などという艶っぽい名前は全く不似合いだ。しかし相当の年齢だろうその女医者の背筋はしゃんと伸び、声は低く落ち着いていて、滑舌も良かった。


「…………………」


 雪樹は寝たきりで、動こうともしない。真百合は雪樹の礼を欠いた態度に気を悪くすることなく、のんびりと畳を進んだ。


「あんたは、羽村 雪樹さんだね。蓮坊れんぼうから、あんたの体を診るよう頼まれたのよ。ちょっとごめんなさいね」


 熱の有無を確かめたり、脈を測ったり、ひととおり医者らしいことをすると、真百合は畳に親指を突き、膝でスッスッと這った。雪樹の足元へ移動し布団をめくると、膝を立てさせて、大きく左右に開く。


「痛いことはしないから、力を抜いていてね」


 断りを入れてから、雪樹の寝間着の裾を上げて、下着代わりの布を解くと、真百合は雪樹の陰部を中まで丁寧に観察した。


「だいぶ出血したと聞いたが、もう止まっていますね。傷もないし、綺麗なものよ。まだ少し痛むかもしれないけど、直に治まるからね。安心しなさい。――さ、もういいよ」


 下着や寝間着を直すのは雪樹自身にやらせてから、老医師は布団をかけ直してやった。


「怖かったでしょう……。蓮坊のことは、よーく叱っておいたからね」


 真百合は持ってきた盥の水に手を浸し、そう言った。労りの気持ちがこもったその言葉を聞いた途端、張り詰めていた糸が切れてしまったのか、雪樹の目には涙が盛り上がり、次から次へと流れていった。

 真百合は雪樹の横に座り直すと、雪樹の肩を布団の上から優しくさすった。


「叱ってはおいたけど……。蓮坊は反省していない。しかもあたしたちには、皇であるあの子を止めることができないの。――ねえ、雪樹さん。あんた、前の月のものは、いつ終わったかしら?」


 雪樹は泣きじゃくり、なかなか答えられなかったが、真百合は辛抱強く待った。


「ここに来る前に……確か二日前に、終わりましたが……?」


 何の意味があるのか疑問に思いつつも、雪樹がなんとか答えると、真百合は大きく頷いた。


「ならば今回は、恐らく大丈夫でしょう。――雪樹さん、あんたに、女が子を孕む仕組みを教えておこうね。こんなときに何だと思うかもしれないけど、あんたが後宮に入るなら、とても大事なことなのよ」

「え……?」


 つぶらだが、確かな知性の光が宿る老女の目を、雪樹は混乱しつつ、見詰め返した。









 皇は、ある寵姫にいたくご執心である。息子のそんな噂が耳に入ってくると、珀桜皇太后は色めきたった。後宮に全く寄りつかなかった息子が、ようやく世継ぎを作る気になってくれたのか。

 しかしその喜びも、あっという間に潰えた。ことの仔細を知ったのちの、皇太后の白い顔からは、ますます血の気が失せたのだった。


「羽村議長のご息女……? 羽村議長には、息子さんしかいらっしゃらなかったのでは?」

「いえ、いたのです。一匹。ま、とんでもない跳ねっ返りですので、もしかしたら議長自ら、息子と勘違いしていたのかもしれませんが」


 蓮は口にした皮肉を、自ら笑った。

 大柄で、高貴な生まれとは思えないほどたくましい体に、鋭すぎる目つき。そのうえに、ふてぶてしい態度が付く。どこに出しても恥ずかしくない不良ヤンキーといった風情のこの青年は、澄花信乃香蓮。この霧椿皇国の首長、皇である。


「まあまあ、それは……。ともかく、蓮。早くそのお嬢さんを、羽村議長のお宅へお返しなさい。皆様、さぞご心配なさっていることでしょう」

「――お断りします」


 にべなく切り捨てた息子に一瞬戸惑ったものの、皇太后はすぐに彼を叱りつけた。


「蓮! あなた、状況を分かっているのですか? 羽村様を……! 今の私たちは、議会を敵に回すべきではありません!」

「今も昔も関係ありません。母上」


 蓮は冷たい目で、自分の胸のあたりまでしか背丈のない母を見下ろした。皇太后が小柄なのではない。蓮が育ち過ぎたのだ。


「初代がこの国の玉座に就いたときから、国土も臣民も我が財産の一端に過ぎません。誰をどのように扱おうと、皇たる俺の勝手です」

「蓮……!」


 皇太后は怒りを隠すために、閉じたままの扇子を口元に当てた。蓮は笑みを消し、きっぱりと宣言した。


「俺はあいつを、きさきにします」

「な……!」


 それはつまり、羽村の娘に子供を産ませるということだ。

 霧椿皇国では、皇の子を無事に産んだ女性のみに、皇后の座が与えられることになっている。世間一般の婚姻制度とは順序が逆なのだ。

 珀桜皇太后も、最初は後宮に入れられたただの寵姫に過ぎなかった。それが先皇の子を生み、皇后の座に就いたのだ。その後、他の寵姫たちが娘を一人ずつ出産し、それぞれ第二夫人、第三夫人に納まった。

 国の頂点に座す皇の子を産むことは、大変な名誉だ。また、たくさんの召使たちに傅かれた豪華絢爛な皇宮での生活は、魅力的でもある。だから後宮にと望まれれば、多くの女たちは喜んで了承した。だが、羽村議長の娘となれば、話は別である。

 今や実質的にこの霧椿皇国を支配している最高議会の、その長である羽村 芭蕉は、ある事情から皇家をひどく嫌っている。憎い相手に大切な娘を、しかも何の断りもなく突然奪われて、黙っている親がいるだろうか?

 もしかしたら芭蕉はその憤りのまま、すっかり弱体化した皇一族を弑しようとするやもしれない。だいそれたことのように思えるが、「神より生まれし」と崇められる皇への謀反も、今の羽村家なら十分実現可能なのだ。民主主義を推し進めようとしている議会にとって、皇家のような旧支配者は、目の上のたんこぶだろうし。


「わたくしは絶対に許しませんよ、蓮!」

「あなたの許しなど、俺には必要ありません」


 蓮は母を蔑むように一瞥すると、踵を返した。遠ざかっていく息子の背中を見送りながら、皇太后は力なく扇を下ろした。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る