一幕三(完)





 高等学問所への合格証を受け取った翌日、雪樹は馬車を乗り継いで、再び花咲本皇宮へ向かった。

 本日、皇は外に出ず、自室にこもっているとのことだ。雪樹は皇より直々に、皇宮内のどこへでも自由に出入りして良いという許しを得ている。

 雪樹がまっすぐ蓮の部屋へ向かうと、彼は座卓に向かい、黙々と筆を動かしていた。


「蓮様」

「……また来たのか」


 蓮はにこりともせず、すぐに卓上に視線を戻した。今日も少年の姿に扮した雪樹は、蓮の隣に座ると、彼が綴る文字を横から覗き込んだ。――相変わらずの達筆である。言動も性格も猛々しいこの青年は、だがその書は優美で、どちらかというと女性的だった。


「何を書いていらっしゃるのですか?」

「書評を頼まれたのでな。それをまとめている」

「皇ともあろうお方が、そのようなことを!?」

「趣味のようなものだ。この国で一番暇なのは、俺だろうしな」


 自虐的に笑いながら、皇は筆を動かし続けた。――なぜだろう、いつもの彼と、少し雰囲気が違っている。


 「何か、ございましたか……?」

 「何がだ」

 「いえ……。蓮様が、少し悲しそうに見えましたので」

 「……………………」


 一度筆が止まったものの、蓮は雪樹を見ようともしなかった。彼の傍らに投げ出されている本こそが、評価を頼まれたというそれだろうか。随分、分厚い。このような本を昼日中から読めて、感想をしたためる時間もあって……。勉学からも労働からも免除された蓮は、とても贅沢な生活を送っていると言えるだろう。それなのにいつも不機嫌な彼に、雪樹は疑問を感じていた。

 世の中には貧困や病苦に喘ぎ、苦労している人間のほうが多いというのに、蓮は今の恵まれた境遇に、一体何の不満があると言うのか。兄のように慕う彼の、そういったところだけが、雪樹は嫌いだった。


「それで、今日は何の用だ? 借りた本ならば、まだ読んでいないぞ」

「いえ、今日は……。このたび霧椿西方高等学問所に入所を許されましたので、そのご報告に参りました。六日後に発ちます」


 雪樹は背筋を伸ばして座り直し、誇らしげに言った。


「……!」


 わずかに乱れた蓮の筆跡は、だがすぐに元の滑らかさを取り戻した。


「そうか。とうとう、ようやく、やっと、受かったか。これでお前もニート卒業というわけだな」

「ふんだ! 受かってしまえばこちらのものです。なんとでも仰ってください!」


 雪樹はつんと顎を上げて、拗ねて見せた。しかし、いつもなら辛辣な軽口の礫が返ってくるはずなのが、静かなままだ。ちらりと様子を伺うが、蓮に表情はなかった。


「あ……。あの、蓮様。僕、蓮様ご所望の春画集、買い求めて参りました。まったく! 低俗な内容の割に、意外と高価なのですねえ!」


 あえて話題を変えて、雪樹は持ってきた風呂敷包みを解き、中身を蓮が向き合っている座卓の脇に載せた。

 きっと今日が友人として彼と会う、最後の日となるだろう。次にもし拝謁が叶うときがあるなら、それは羽村家の娘としてのこととなる。きっと今までのような、気安いやり取りはできないはずだ。

 最後だからと、そして今まで男だと嘘をついていたお詫びも兼ねて、恥を忍んで買い求めてきた卑猥な本を、だが蓮は見向きもしなかった。


「いらん。持って帰れ」


 取り付く島もなく拒絶されても、雪樹は食い下がった。


「遠慮なさらなくてもいいのですよ! だって僕がいなくなったら、蓮様に俗なものを運ぶ者はいなくなるでしょう? だからせめて、これを……」

「いらんと言っているだろう!」


 山と積まれた書物を、蓮は払い落とした。


「何をなさいます! 人がせっかく……!」


 雪樹も気の強い性質たちだから、思わず怒鳴り返した。


「うるさい! 出て行け! 学問所でもなんでも、さっさと行けばいいだろう!」


 蓮は立ち上がると、今にも噛みついてきそうなほどいきり立っている幼なじみの少年を、思い切り突き飛ばした。


「きゃあっ!」


 雪樹はあっさりと床に転がったが、蓮は訝しげな顔をして、自らの手をじっと見詰めた。


「……?」

「ひどいです、蓮様!」

「お前……」


 倒れたままの雪樹に伸し掛かると、蓮は「彼女」の上衣に手を掛けた。中央の飾り紐を毟るように解き、その下に着ていた肌着も一度に開いてしまうと、幾重にも布の巻かれた肌が現れる。


「やめてください……!」


 焦った雪樹の懇願も、蓮の耳には入らなかった。

 隙間なく布を巻いていても、歳の割に豊かな胸の膨らみは隠しきれていない。裸の首元は細く折れそうで、肩幅は狭く華奢だ。

 幼なじみの正体を前にして、蓮はごくりと喉を鳴らした。

 おかしいとは思っていたのだ。この少年は――少年だと性別を偽っていた娘は、あまりに自分と姿が違い過ぎる。だが、歳の近い若者が近くにいない孤独な蓮には、「彼」が本当は「彼女」だと断定するだけの確証がなかったのだ。背も低く、筋力もない、男性としては貧弱な体つきの雪樹を、そのことで問い詰めるのは可哀想だという気持ちもあった。


 ――やはり、女だったのか。


 だが、どうして今このとき、それを確かめようとしたのか。


 ――置いて行かれたくない。 


 自分の心の中に潜んだ弱さを覗くのが嫌で、蓮は頭を振り、雪樹の帯に手を掛ける。袴を脱がされそうになって、雪樹は自分が何をされようとしているのか、ようやく察した。


「いやっ! 嫌です、蓮様! いきなりどうなさったのですか……!?」


 陵辱されようとしていること、そしてそれ以上に、蓮との間に築いた大切なものが壊されてしまうのが恐ろしくて、雪樹は必死に抵抗した。力任せに振り回した手が頬に当たり、蓮が怯んだ隙に、雪樹は彼の腕の中から逃げ出した。しかし引き下ろされた袴が足に絡み、立つことができない。犬猫のように這いつくばって、戸口へ向かった。

 丁度そのとき、騒ぎを聞きつけた侍女たちが駆けつけてきた。室内の惨状を見て、女たちは硬直した。壁のように並んだ四、五人ほどの侍女たちに向かって、雪樹は声を張り上げた。


「助けて……! 助けてください! お願いします!」


 だがその訴えに被せるように、皇が命じる。


「俺が呼ぶまでは、ここには誰も近づけるな。扉を閉めて、消えろ」


 逆らうことは許さない、それは支配者の声だ。侍女たちの顔からスッと表情が消え、そして彼女たちは命令に従い、扉を閉めて、静かに去っていった。


「待って! お願い、助けて! お願いだから!」


 尚も叫ぶ雪樹を後ろから抱え起こすと、小さな両肩を掴み、蓮は彼女の耳元で笑った。


「あきらめろ、雪。皇宮は、俺が唯一意のままに操れる場所だ。――誰もお前を助けたりしない」

「いやっ、いやあ! 助けて、誰か……!」


 首筋を舐められ、甘く歯を立てられた。男の舌がぬめる感触が気持ち悪くて、全身に鳥肌が立つ。どれだけ暴れても、片手で胴を抱かれて逃げられない。袴はとうに脱がされ、下着の代わりに股間に巻いた布を、引き剥がされた。


「いやっ、いやあ……! こんなの、いやです……! 蓮様、蓮様、お許しください……! もうやめてえ……!」

「――黙れ」


 頬に、熱く荒い吐息が当たる。雪樹は自分がけものに襲われているような錯覚に陥った。

 そうだ、まさしく獣だ。


 ――こんな非道なことを、人間ができるわけがない。あの優しい蓮様が、こんなことをできようはずがない……!


 随分長く感じたが、時間にすれば十分と経っていなかっただろう。蓮の動きが止まり、やがて脱力した。


 「雪……」


 最後に思い切り強く雪樹を抱いたかと思うと、蓮は離れていった。

 雪樹には泣く気力すら残っていなかった。このまま心臓が止まってしまえば、どれだけ楽だろう……。

 蓮は素早く衣服を整えると、座卓の上にあった呼び鈴を振った。強く振り過ぎたのか、耳障りなひび割れた音が響く。すぐに先ほどの侍女たちが現れた。


「雪を、あそこにいる――女を、湯に入れてやれ。そのあとは、後宮の一番良い部屋へ入れておけ。念のため、真百合婆まゆりばあを呼んで、診せろ。雪が欲しいというものがあれば、何でも与えてやれ。ただし、外には一歩も出すな」


 何かに追い立てられるように、矢継ぎ早に指示を出すと、蓮は雪樹を振り返ることなく、部屋を出て行った。

 足音を立てず、侍女たちが近付いてくる。雪樹は目を閉じた。


 ――これが夢ならいい。


 再び瞼を開けたら、そこは家の布団の中であることを、雪樹は強く祈った。



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