一幕二





 手押し車の上でぶつかり合って、ガチャガチャとやかましい音を立てるバケツは、それでも中身が空だったから、運ぶ蓮の足取りも軽い。建物の中でも一際大きく、警備も厳重なそこへ戻ってくると、蓮は額の汗を拭った。

 入り口に立つ兵士たちが深々と頭を下げるが、蓮は彼らを路傍の石のように無視し、手押し車を放り出すように置いて、建物の中へ入った。

 ここは「柘榴御所ざくろごしょ」と呼ばれる、皇とその家族の邸宅である。長い廊下を進んで、一番奥にあるのが皇の私室だ。豪奢な調度品に飾られた二十畳ほどの広さのそこで、蓮は汗に水に土にと汚れた衣を脱ぎ始めた。やがて辺りが騒がしくなる。蓮はチッと舌打ちした。


「蓮、帰ったのですか?」


 現在の柘榴御所の住人は、皇である蓮ともう一人、彼の生母である珀桜皇太后はくおうこうたいごうのみである。

 皇太后は侍女を二人ほど引き連れ、現れた。


「まあ、蓮。またそのような……」


 床に脱ぎ捨てられた汚れた衣服を見て、皇太后は開いた扇子を口元に当てた。

 きめ細やかな白い肌といい、人形のように整った顔といい、この皇太后は若かりし頃、「霧椿国一の美女」と謳われていたそうで、今でも大変麗しい。しかし残念ながらただ一人の息子である蓮に、その美貌は受け継がれていない。

 かといって蓮は、父である先皇に似ているわけでもないが。

 蓮は、霧椿国統一の立役者と名高い五代前の皇に、瓜二つだと言われている。もっとも、皇宮内の各所に掲げられている肖像画が、真実を描いているとするならば、であるが。


「もういい加減、童子わらしのような真似はおやめなさい。もっと腰を落ち着かせて、皇としての役目を果たしてもらわねば困ります。まったく、誰に似たのでしょう……」

「さあ。少なくとも、父上ではないでしょうね」


 嫌味に嫌味で返すと、皇太后は顔を青くし、背後に控えている侍女たちの様子をこっそり伺った。侍女たちは心得たもので、聞こえないふりを決め込んでいる。

 珀桜皇太后には、先皇の后となる前に将来を誓い合った恋人がいたとかで、蓮が生まれた直後、父親はその男ではないかと散々噂されたそうだ。二年前に先皇が崩御し、蓮が後を継いだ今でも、皇太后はそのことを気にしている。


「ともかく……。趣味にばかり明け暮れていないで、早く世継ぎをお作りなさい」


 皇太后の言うことはいつも同じだ。蓮は決して母を嫌いなわけではなかったが、彼女を見ているとイライラしてしまう。自分の知る限りで最も哀れで、最も蔑むべき生き方をしている女だからか。


「不幸になるのが分かりきっているのに、子供を作るなんて、俺にはできない。――あなたのように無神経にはなれません」


 蓮の返答を聞いて、皇太后は絶句した。扇子を持った手が、ぶるぶると震えている。

 言い過ぎたと思ったが、一度出てしまった言葉は戻らない。蓮は母から目を逸らした。

 ここ花咲本皇宮には、国内各地から三十名弱の美女たちが集められ、次代の皇を生むべく一所ひとつところに控えている。いわゆる後宮である。皇太后は息子にそこへ通い、一刻も早く子供を作れと再三言い続けているのだ。そもそもこの珀桜皇太后も、変則的ではあるが、後宮へ連れて来られた寵姫の一人だった。

 ちなみに先代の皇は色を好む性質たちの割に、蓮のほかには、珀桜皇太后とは別の女に二人の娘を産ませただけで、お隠れになってしまった。

 そのおかげというべきか、皇位継承の際に揉めることがなかったのは幸いであったが。

 霧椿皇国には、「皇位を与えられるのは直系男子のみ」という決まりがあるのだ。


「蓮、あなた……! 何を言っているのです! 神より連なる尊い御血筋を断ち切ろうなどと、なんと罰当たりな……!」


 本当に神様と血が繋がっているのなら、父があれほど暗愚な君主だったわけがない。

 確かに乱世の時代、この国をまとめあげたご先祖様は一角の勇者だったかもしれないが、末裔の自分たちはそこら辺の庶民たちと能力的に違いはないのだ。何が尊いものか。

 

 ――何もかも、腹が立つ。


 キーキーとわめく母に構わず、蓮は足取り荒く部屋を出て、浴室に向かった。





 自宅の屋敷に帰った雪樹は、部屋に戻り、着替えていた。立襟の上衣は太ももまで覆っており、その下の脚衣はゆったりと踝まである。それらを脱いで現れた体はますます細く、艶かしい曲線を描いていた。最後に胸に巻いていた布を取り去ると、豊かな膨らみが現れる。

 そう、雪樹は女性であった。霧椿皇国最高議会議長、羽村 芭蕉はねむら ばしょうの末子であり、長女である。


「ふう、疲れた……。皇宮が、もう少し近ければいいのに」


 自宅から蓮の住まいである皇宮へは、馬を使っても二時間はかかる。

 一般的な女性の衣装である、足首までを覆う筒型の、いわゆるスカートを身に着け、長い髪を結い直した雪樹は、どこに出しても恥ずかしくない、十六歳の美少女だ。ひとごこちついているところに、使用人が本日届いたという封書を持ってきた。


「……!」


差出人を確かめると、雪樹は顔色を変え、急いで封を切った。中身を確認した途端、彼女は部屋を飛び出した。

 今は議会も休会中で、父も家にいるはずだ。磨き上げられた廊下を全速力で走っていると、途中、母とすれ違った。案の定叱られたが、雪樹はそれどころではなく、階段を駆け上がった。

 羽村家も遠くは皇族とえにしのある由緒正しい貴族の家柄だったが、質素倹約を信条としているこの家は、造りも誂えも暮らしぶりもかなり質素だ。だから馬のように駆けても、高価な家財道具を傷めるということもない。


「お父様!」


 二階にある部屋の戸を勢い良く開けると、父は読んでいた書物から顔を上げた。


せつ、はしたないぞ。お前はいつまでも子供だね」


 窘めるようなことを言うが、顔は笑っている。この父は、末に生まれた、ただ一人の娘には甘いのだ。

 黒々とした顎髭が印象的な雪樹の父親は、名を羽村 芭蕉はねむら ばしょうという。今年で五十五歳になる彼は、霧椿皇国の代表機関である、最高議会の議長を勤めている。

 国の首長は皇ということになっているが、現在それは形式的なものに過ぎず、実際に国を動かしているのは議会であり、貴族や一般の有識者の中から選ばれた議員たちであった。その議会の代表である芭蕉の権勢は、恐らくは国一番だろう。しかし彼はその力に溺れることなく、自分にも他者にも厳しい。そして家では妻をこよなく愛す夫であり、子供たちをほどほどに甘やかす、ごく普通の父親でもあった。


「それで、どうした? 雪。そんなに慌てて」

「こ、こここ、これ!」


 娘が差し出した封筒を受け取り、中身に目を通すと、芭蕉はゆっくりと息を吐きながら、大きく頷いた。


「雪、やったな。お前は私の誇りだ」

「お父様……!」


 父の笑顔を見て、雪樹は思わず涙をこぼした。

 今、芭蕉の手に握られている書状は、霧椿皇国の最高学府、「霧椿西方高等学問所」からの入学許可証である。くだんの学問所は十三歳から二十歳までの若者のみ、年に百人ほどしか入学を許さず、その合格倍率はおおよそ三十倍に至る難関校だった。

 雪樹は入所資格が生じる十三の歳から毎年同所を受験していたが、その狭き門が開かれることはなかった。自惚れでなく客観的に見て、学力は十分に足りていたはずであるが、女生徒の入学という前例がないため、断られたのだろう。それでも今年三回目の挑戦で入所が許されたのは、雪樹の熱意と実力に学問所がほだされたのか、それとも――。


「あの、お父様。もしやと思いますが、お父様が学問所に何か手を回したとか、そういうことはありませんよね……?」


 涙を拭いながらも、浮かれることなく冷静で疑り深い娘に、父は呆れ顔だ。


「バカを言っちゃいけない。手を回すとしたら、『うちの娘を入れないでくれ』と頼むとも。これ以上雪が、じゃじゃ馬になっては困るからな」


 冗談めかしてはいたが、父の台詞には妙に力がこもっていた。芭蕉は本当は、娘に高等学問所になど進んで欲しくないのだろう。それでいて、雪樹を誇りだと言ったその言葉も、嘘ではないはずだ。

 芭蕉は貴族にしては珍しく妾を取らず、正妻との間にのみ四人の子供を儲けた。先に生まれた三人の兄はいずれも優秀な青年に成長したが、最も学問に秀でているのは女子である雪樹であった。

 芭蕉は娘をとても愛したが、期待は一切しなかった。美しく健やかにと幸せを祈ったが、何かを成す人物になれとは願わなかった。それは母も同じである。両親のそういった態度は、物心ついた頃から雪樹を苦しめていた。

 家族のことは愛しているが、この家にいる限り、成長はない。自分は、望んだどおりの自分にはなれないだろう……。

 だからこそ、ここより遠く離れた西国にある高等学問所への入所が認められたことは、雪樹にとって幸運だった。卒業までの四年間は実家から離れ、学問に打ち込みながらも、ゆっくりと自分の身の振り方を考える、良い機会となるだろう。


「ああ、早く準備をしなければ。お父様、私、なるべく早くここを発ちます! お友達や恩師や……ご挨拶に回らなければ!」

「…………………」


 芭蕉は娘を穏やかに眺めていたが、その瞳には淡い失望の色が宿っていた。雪樹はそれを感じ取りつつも、気づかぬふりをした。


「そうだ。蓮様にも、お別れを……」


 言いかけて、雪樹はハッと口をつぐんだ。案の定、父の表情は一変し、険しくなった。


「お前はまだ皇宮に出入りしているのかね」


 親戚ではあるが、芭蕉は皇たち一族に良い感情を持っていない。なんでも昔、芭蕉の兄、つまり雪樹の伯父は、つまらぬ理由で先皇に手打ちにされたとか。それ以来彼は、皇を憎み続けているそうだ。

 ただし今の芭蕉は、皇に復讐を果たせるだけの政治的な実力をつけた。しかしいたずらに短気を起こさないところが、彼の思慮深さをよく表している。


「お父様。蓮様はお父様が思うような、野蛮なお方ではありません。問題の多かった先皇様とは、全く違います」

「うむ……。確かに蓮様は、とても賢い少年だとは思うが……。それはともかく、だ。年頃の男女がみだりに逢瀬を交わしているというのは、よろしくないぞ」

「あっ、その点は大丈夫です! 蓮様は私のことを、少年と思っていらっしゃいますので」

「なんと……! まさか皇は、私の戯言をまだ信じているのか?」


 娘の返答に、芭蕉は冷や汗を流した。

 雪樹がまだ幼い頃、皇一族を含めた親戚一同が集まった折り、芭蕉は娘を男児だと周囲に紹介したのだった。芭蕉はのちに「あれは冗談だった」と言い訳したが、本当は当時まだ存命中だった先皇の目を欺くための策だったのだろう。先皇の色狂いは半端なく、見目好い女とあれば幼子だろうが老人だろうが、見境なくその毒牙にかけていたのである。

 父の方便のおかげで雪樹の貞操は守られたわけだが、しかしその嘘を、皇子としてその場にいた蓮がいまだ頑なに信じているのは、困ったことだ。


「でも、今のままのほうがお互い気を使わなくて、楽ですよ。蓮様は私を、弟のように可愛がってくれますし……」

「うむ……。蓮様には同腹のご兄弟がいらっしゃらないから、お寂しいのかもしれないが……」


 いくらか気の毒そうな表情になって、芭蕉は顎髭を撫でた。

 皇の家庭は、后ごとに屋敷を賜り、それぞれ暮らすものだ。しかし蓮に限っては、なぜか生まれてからすぐ母である珀桜皇太后から引き離されて、育てられた。父である先皇の素行があまりに悪く、せめて次の皇には品行方正に育って欲しいと、英才教育を施すためとの噂だったが、成果はあったのか……。蓮の、あの不良然とした顔つきを思い出すと、雪樹はなんとも答えられなかった。


「まあ、雪が高等学問所へ進むならば、皇とはもうお会いすることもあるまい。卒業時には、お前は二十歳はたちだ。さすがにもう少年のふりはできないだろう」


 確かにそのとおりだ。学問所への入所が許されたことでただただ有頂天になっていたが、新しい世界へ旅立つということは、それだけ失うものもあるということだ。例えば、大切な幼なじみだとか――。

 雪樹は、喜びで膨らんでいた胸が、急速にしぼんでいくような気がした。彼女にとって蓮は、それだけ大事な存在だったのである。

 だが――。

 その想いは一方的なものだったことを、雪樹はたった一日の後に思い知ることになるのだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る