椿の国の皇のはなし
いぬがみクロ
第一幕 忌まわしき変化
一幕一
皇宮の現在の
舗装された道を外れると、荷物の運搬に使う手押し車は、途端に言うことを聞かなくなる。だが泥に車輪を沿わせ、石をうまく避ける操縦者の手際はなかなかに良く、上手に役目をこなし続けた。
手押し車には前に一つ、後ろに二つ車輪が付いており、上にはバケツが載っている。バケツの中は水で満たされていて、しかも複数あるから、相当重たいはずだ。手押し車がガタガタと揺れるたび、バケツから飛沫が上がった。
「くそ、暑いな……」
手押し車を操る青年は、そう舌打ちした。
今はまだ夏は遠い季節ではあるが、晴れ渡った空の下、青年の額には汗が光っている。長い袂を紐で縛って、更に肩まで捲り上げた、そこから覗く彼の二の腕は筋肉が盛り上がり、黒々と日焼けしていた。
青年の車を押す動作には無駄がなく、かつ堂に入ったもので、肉体労働に従事する者たちにも引けは取っていない。が、彼が着ている濃紺の
では、この青年は高貴な生まれの者なのかというと――それは甚だ疑問だった。鋭すぎる切れ長の目や、ふてぶてしく、他者を威圧する面構えなどから判断すれば、その辺のチンピラ、控えめに言えばヤンキーにしか見えないからだ。
「っこらしょっと」
ようやく辿り着いた、通称「
押し込められたバケツの中の、その狭さに抗議するかのように、影は勢い良くピチピチと跳ねた。陽の光を浴びてキラキラと光っているのは、背ビレと尾ビレか。青年が苦労して運んできたのは、艶々とした鱗に覆われた美しい鯉たちだった。
目の前の池は、十坪ほどの大きさだ。青年は池に手を浸し、水温を確認した。――温かい。これなら問題ないだろう。青年はバケツを水面に近づけ、そっと傾けた。鯉は眩い体をくゆらせ、すぐに池の中へと泳ぎ出ていった。
合計で五匹、青年は鯉を放った。鯉たちは元気に泳いでいる。雑草と藻だけしかなかったくすんだ池に彩りが生まれ、その変化に青年は満足そうに微笑んだ。妙に迫力のある青年の顔から険が消えて、恐らくはまだ若いだろう彼の、素朴な表情が表に出る。――しかし。
「
「…………………」
慌ただしく近づいてくる足音を耳で捉えた瞬間、青年は笑顔を引っ込め、仏頂面になった。やがて息せき切って、一人の少年が駆け寄ってくる。
「蓮様ってば! 従者の方々に行く先を仰らなければ、ダメじゃないですか! 皆さん、探していらっしゃいましたよ!」
変声期を済ませていないのか、声の高い少年だった。頭に載せた烏帽子は青年のものより一回り小さく、一般貴族であることを示す緋色である。その烏帽子の峯が、ようやく青年の肩の辺りまでしか届かない。少年はとても小柄で、対して青年はとても背が高いのである。
「うるさい、ここは俺の家だ。どこへ行こうとも、誰に許しをもらう必要があるか」
「ここは普通のおうちとは違いますし、蓮様だって普通のお人ではないでしょう! 今更何を仰るのですか、もう。永遠の反抗期なんだから……」
「殺すぞ、
ギロリと、元々悪い目つきを一層凶悪に細めて、青年は少年を睨みつけた。
青年は、蓮――本名を、
「大体、家って言ったって、ここは下手な町より広いんですからね。探すの、大変なんだから……」
ブツブツとつぶやきながら、雪樹は池に目をやった。
「わあ……! 遂に放したのですね! この間見せてもらったときは、まだほんの小さな稚魚でしたが、立派に育って!」
楽しげに泳ぎ回る鯉を見て、雪樹は歓声を上げた。
「前は残念なことになりましたが……。今回の子たちは、とても丈夫そうですね」
この少し前に蓮が育てた鯉は、病のせいで全て死んでしまったのだ。
「薬液を工夫したからな。もう二度とあのような、哀れなことにはせん」
そのとおり、先ほど池に放った鯉たちは丸々と肥えており、健康そのものだ。雪樹は鯉と蓮を見比べて、ホッと息を吐いた。
前回、鯉を失った直後の蓮はひどく落ち込んでしまい、かける言葉が見つからぬほどだったのだ。
この皇は顔こそ怖いが、実は繊細で気が優しく、動植物に並々ならぬ愛情を抱いている。国の頂点に立ちながら、自ら甲斐甲斐しく草花の手入れをし、小動物の世話もするのだ。そんな彼の人となりを慕い、雪樹はしょっちゅうここに入り浸っている。蓮のほうも、言いたい放題で無礼な、だが自分に懐いてくれる親戚の少年を、それなりに可愛く思っているようだ。
「あ」
雪樹は思い出したように、脇に抱えた風呂敷包みを差し出した。
「蓮様。はい。頼まれてた読み物です」
受け取ると、蓮はさっそく包みを解き、中に入っていた書物のページをぺらぺらとめくった。
「お前が持ってくる本は、どうにもつまらない」
不満そうな皇に、雪樹は唇を尖らせ反論した。
「えー! 蓮様のご指示どおり、今一番売れている本を持ってきたのですよ!」
「ふん。どれもこれも薄っぺらくて、ちっとも心に響かない。情緒にも欠ける。我が国の文芸界は、諸外国に随分と遅れを取っているぞ」
蓮のご高説を賜った直後、雪樹の、その幼い顔には不釣り合いな太い眉が、ぴくりと上がった。
「蓮様、また変なものをお読みになっているんじゃないでしょうね? 外国の、確か、ポルノとかいう……」
汚いものを見るかのような目つきの雪樹を、蓮は嘲るように笑った。
「まったく、お前は何も分かっていない。官能小説は、人間のエゴや醜さを描かせたら並ぶもののない、秀逸な作品だぞ。読む者に真実の愛とはなんぞやと、常に問いかけてくるのだ」
「またそのような! ただ性欲を満たすための、低俗な読み物でしょう! そんないかがわしい書物を、皇ともあろうお方が読んではなりません! 破廉恥です!」
雪樹は湯沸しのヤカンのように湯気が出そうなほど、顔を真っ赤にした。そんな彼の烏帽子を、蓮は無造作にぺしんと叩く。
「つくづく幼いな、雪。そんな風だから、いつまで経っても背が伸びぬのだ」
「関係ありません!」
ズレた烏帽子を慌てて整えて、雪樹は怒鳴った。
初春の柔らかな日差しが、喧々囂々とやり合う二人の上にさんさんと降り注ぐ。
蓮と雪樹。
これが良き友人として二人が過ごす、最後の時となった――。
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