椿の国の皇のはなし

いぬがみクロ

第一幕 忌まわしき変化

一幕一


 花咲本皇宮はなさきもとこうぐうとは、霧椿皇国きりつばきこうこくすめらぎのお住まいである。その広大な敷地には、皇が寝食をなさる御所のほか、年中行事に使う宮殿に治療院や薬学研究所、美術館、田畑、庭園など様々な建物や施設があり、さながら一つの独立した町のようだった。

 皇宮の現在のぬしは、澄花信乃香蓮すみはなしのこうれん様という。二年前に即位された、御年十八歳の若き皇である。





 舗装された道を外れると、荷物の運搬に使う手押し車は、途端に言うことを聞かなくなる。だが泥に車輪を沿わせ、石をうまく避ける操縦者の手際はなかなかに良く、上手に役目をこなし続けた。

 手押し車には前に一つ、後ろに二つ車輪が付いており、上にはバケツが載っている。バケツの中は水で満たされていて、しかも複数あるから、相当重たいはずだ。手押し車がガタガタと揺れるたび、バケツから飛沫が上がった。


「くそ、暑いな……」


 手押し車を操る青年は、そう舌打ちした。

 今はまだ夏は遠い季節ではあるが、晴れ渡った空の下、青年の額には汗が光っている。長い袂を紐で縛って、更に肩まで捲り上げた、そこから覗く彼の二の腕は筋肉が盛り上がり、黒々と日焼けしていた。

 青年の車を押す動作には無駄がなく、かつ堂に入ったもので、肉体労働に従事する者たちにも引けは取っていない。が、彼が着ている濃紺の上衣うわごろもも袴も大層仕立てが良く、庶民の持ちものとは明らかに異なっていた。なにより青年の帽子に似た漆黒の頭物かぶりものは冠の一種であり、皇の一族しか身につけることができないはずである。

 では、この青年は高貴な生まれの者なのかというと――それは甚だ疑問だった。鋭すぎる切れ長の目や、ふてぶてしく、他者を威圧する面構えなどから判断すれば、その辺のチンピラ、控えめに言えばヤンキーにしか見えないからだ。


「っこらしょっと」


 ようやく辿り着いた、通称「日当ひなたの池」の前で、青年はひとつひとつ丁寧にバケツを下ろした。それらの縁いっぱいに張った水の底では、小さな影が蠢いていた。

 押し込められたバケツの中の、その狭さに抗議するかのように、影は勢い良くピチピチと跳ねた。陽の光を浴びてキラキラと光っているのは、背ビレと尾ビレか。青年が苦労して運んできたのは、艶々とした鱗に覆われた美しい鯉たちだった。

 目の前の池は、十坪ほどの大きさだ。青年は池に手を浸し、水温を確認した。――温かい。これなら問題ないだろう。青年はバケツを水面に近づけ、そっと傾けた。鯉は眩い体をくゆらせ、すぐに池の中へと泳ぎ出ていった。

 合計で五匹、青年は鯉を放った。鯉たちは元気に泳いでいる。雑草と藻だけしかなかったくすんだ池に彩りが生まれ、その変化に青年は満足そうに微笑んだ。妙に迫力のある青年の顔から険が消えて、恐らくはまだ若いだろう彼の、素朴な表情が表に出る。――しかし。


れんさまー!」

「…………………」


 慌ただしく近づいてくる足音を耳で捉えた瞬間、青年は笑顔を引っ込め、仏頂面になった。やがて息せき切って、一人の少年が駆け寄ってくる。


「蓮様ってば! 従者の方々に行く先を仰らなければ、ダメじゃないですか! 皆さん、探していらっしゃいましたよ!」


 変声期を済ませていないのか、声の高い少年だった。頭に載せた烏帽子は青年のものより一回り小さく、一般貴族であることを示す緋色である。その烏帽子の峯が、ようやく青年の肩の辺りまでしか届かない。少年はとても小柄で、対して青年はとても背が高いのである。


「うるさい、ここは俺の家だ。どこへ行こうとも、誰に許しをもらう必要があるか」

「ここは普通のおうちとは違いますし、蓮様だって普通のお人ではないでしょう! 今更何を仰るのですか、もう。永遠の反抗期なんだから……」

「殺すぞ、せつ


 ギロリと、元々悪い目つきを一層凶悪に細めて、青年は少年を睨みつけた。

 青年は、蓮――本名を、澄花信乃香蓮すみはなのしのこうれんといった。この霧椿皇国の若き皇である。そして雪と呼ばれた少年は、羽村 雪樹はねむら せつじゅという。二人は、蓮の曽祖父が兄で、雪の曽祖母が妹という間柄の親戚だった。


「大体、家って言ったって、ここは下手な町より広いんですからね。探すの、大変なんだから……」


 ブツブツとつぶやきながら、雪樹は池に目をやった。


「わあ……! 遂に放したのですね! この間見せてもらったときは、まだほんの小さな稚魚でしたが、立派に育って!」


 楽しげに泳ぎ回る鯉を見て、雪樹は歓声を上げた。


「前は残念なことになりましたが……。今回の子たちは、とても丈夫そうですね」


 この少し前に蓮が育てた鯉は、病のせいで全て死んでしまったのだ。


「薬液を工夫したからな。もう二度とあのような、哀れなことにはせん」


 そのとおり、先ほど池に放った鯉たちは丸々と肥えており、健康そのものだ。雪樹は鯉と蓮を見比べて、ホッと息を吐いた。

 前回、鯉を失った直後の蓮はひどく落ち込んでしまい、かける言葉が見つからぬほどだったのだ。

 この皇は顔こそ怖いが、実は繊細で気が優しく、動植物に並々ならぬ愛情を抱いている。国の頂点に立ちながら、自ら甲斐甲斐しく草花の手入れをし、小動物の世話もするのだ。そんな彼の人となりを慕い、雪樹はしょっちゅうここに入り浸っている。蓮のほうも、言いたい放題で無礼な、だが自分に懐いてくれる親戚の少年を、それなりに可愛く思っているようだ。


「あ」


 雪樹は思い出したように、脇に抱えた風呂敷包みを差し出した。


 「蓮様。はい。頼まれてた読み物です」


 受け取ると、蓮はさっそく包みを解き、中に入っていた書物のページをぺらぺらとめくった。


「お前が持ってくる本は、どうにもつまらない」


 不満そうな皇に、雪樹は唇を尖らせ反論した。


「えー! 蓮様のご指示どおり、今一番売れている本を持ってきたのですよ!」

「ふん。どれもこれも薄っぺらくて、ちっとも心に響かない。情緒にも欠ける。我が国の文芸界は、諸外国に随分と遅れを取っているぞ」


 蓮のご高説を賜った直後、雪樹の、その幼い顔には不釣り合いな太い眉が、ぴくりと上がった。


「蓮様、また変なものをお読みになっているんじゃないでしょうね? 外国の、確か、ポルノとかいう……」


 汚いものを見るかのような目つきの雪樹を、蓮は嘲るように笑った。


「まったく、お前は何も分かっていない。官能小説は、人間のエゴや醜さを描かせたら並ぶもののない、秀逸な作品だぞ。読む者に真実の愛とはなんぞやと、常に問いかけてくるのだ」

「またそのような! ただ性欲を満たすための、低俗な読み物でしょう! そんないかがわしい書物を、皇ともあろうお方が読んではなりません! 破廉恥です!」


 雪樹は湯沸しのヤカンのように湯気が出そうなほど、顔を真っ赤にした。そんな彼の烏帽子を、蓮は無造作にぺしんと叩く。


「つくづく幼いな、雪。そんな風だから、いつまで経っても背が伸びぬのだ」

「関係ありません!」


 ズレた烏帽子を慌てて整えて、雪樹は怒鳴った。

 初春の柔らかな日差しが、喧々囂々とやり合う二人の上にさんさんと降り注ぐ。


 蓮と雪樹。

 これが良き友人として二人が過ごす、最後の時となった――。




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