変化する 3

「エスカさん––––」


 いつのまにか聞こえなくなった雨の音。

 その代わりに誰かが私の名を呼んでいる声が聞こえた。

 過去に聞いたことがあるような懐かしい声。


「……あなたは」


 寝起きでぼやける目を擦りながら、目の前に立っている人物に目を向けた。

 ボロボロの冒険家の服装に、これまたボロボロのリュックを背負っている年若い少年がそこには立っていた。


「あなたは……誰ですか? なんで私の名を知っているのですか?」


 その人は私の記憶の中には存在しておらず、何者なのかすらわからなかった。

 名前を知っているということはこの世界樹に辿り着いたことがある、もしくは辿り着いた人から話を聞いたという事だろうか。まあ、どちらにせよ警戒するに越したことはない。

 私は名前を呼んだ少年に鋭い目線を向けると、今度は焦ったように手を振った。


「すいません! 僕は祖父に頼まれてここに来たんです。あの、ベックマンという名前を覚えていませんか?」


「ベックマン……」


 どこかで聞いたことがあるような名前に、頭をひねる。


「ちょうど10年前、この場所に来たって聞いたんですけど……」


 心配そうな表情で、男は新たなヒントを提供して来た。

 10年前……ベックマン……あっ!。


「もしかして、ベックの孫!?」


 私がいきなり大声で喋ってしまったため、少年はビクッと肩を揺らした。しかしすぐに嬉しそうに表情をにこやかにすると、コクリと頷いて自分の正体を認めた。


「僕の名前はカイルドって言います」


「カイルド、いい名前ね」


 そんなやりとりをしているうちにもだんだんと記憶が蘇って来る。

 10年前に突然やってきた年老いた旅人。確か名前はボールドウィン・ベックマンと言っていた。


「そういえば、よく一人でここまで来れたね」


「はい。祖父から送られて来た手紙に書いてある地図通りに進んだら無事にたどり着きました」


 カイルドの声音は嬉しげで、ポケットからくしゃくしゃの手紙を取り出してずいっと見せて来た。

 その手紙には見覚えがある。ベックがこの世界樹に続く安全な道を作ると言っていた。その道を記したのがこの手紙なのだろう。


「あっ、そうだエスカさん。この手紙と一緒に小瓶に入った石が送られて来たんですけど……えっと確か『覚悟を決めろ』って」


 そう言ってカイルドが取り出したのは小瓶に入った黒い石。


「––––っ!」


 その黒い石を見た瞬間、小瓶が弾けて黒い石が霧のように霧散し、私の中に入り込んでいった。それと同時に、少しずつ思い出していた記憶が激しい頭痛と共に一気に頭に流れ込んで来た。

 痛い。

 しかし、この痛みは記憶を思い出しているからではない。

 これは、忘れていた痛みだ。


「大丈夫ですか!」


 異変に気付いたカイルドが慌てて私の体を支えようと近づいて来た。

 が、


「離れて……できるだけ遠くに……そしてここには近づかないで」


 私はそれを制止した。そうしなければ彼を傷つけてしまうと判断したから。

 思い起こされるのは10年前の記憶。それだけではない。何十年、何百年も前の記憶。

 ずっと孤独に生きてきた。人間では考えられないほど長い年月を、ずっと。


 私はとっくの昔に壊れていた。孤独に耐えられなかった。だから、私は忘れたのだ。

 ボールドウィン・ベックマンの呪術師としての全てを使って、私の中にある負の感情の大半をカイルドが持っている黒い石に封印したのだ。

 急にいなくなったのではなく、私の為に命の大半を捨てたのだ。

 そして、その封印には10年という期限があった。そして、それが今日なのだろう。『覚悟を決めろ』というのはそういうことだ。


「早く逃げて……そうじゃないと……」


 全身をむしばんでいく痛みに耐えながら、カイルドに離れるように言うが、カイルド本人はその場から動かずにリュックの中を漁っていた。

 一体何をしようとしているのだろうか。弱った私を殺して世界樹の実を奪おうというのだろうか。

 もう、それならそうで構わない。

 私はこの苦しみに耐えられない。

 一歩一歩ゆっくりと近づいて来る音が聞こえる。10年間という短い時間だったけれど、孤独の苦しみから解放してくれた事には感謝してもしきれない。たとえ殺されたとしても何の文句もない。


「僕は祖父と同じ呪術師です。もう一度エスカさんの負の感情を封印します。それまで頑張ってください」


 と、そんな言葉が聞こえた。


「何を言って……」


 何とも不思議な光景である。彼は私を助けようとら命がけで行動している。いつ私が暴走するかもわからないというのに。それどころか、私の負の感情を封印するという事は自らの命を捧げるという事。


 10年前の私であれば、誰が何をしようとどうでもいいと思っていた。だが、ベックのおかげで自分の感情を知った。知ってしまったから、カイルドが何故私の為に命を懸けようとしてくれるのかが分からない。


「早く……逃げ……て」


 もう自分を制御できない。

 私の中にある力が侵入者を排除しようとして、世界樹の枝がカイルドの心臓めがけて鋭く伸びていく。


「くっ……」


 なんとかその枝の進行方向を曲げるが、完全に曲げる事は叶わず、カイルドの左腕を掠めた。


「早く……死んでしまいます」


 私が何度も逃げるように言っても、表情一つ変えずに封印の準備を進めていく。


「いいんです」


 と、唐突にカイルドは口を開いた。


「僕は祖父が貴方に命を懸けた理由が何となくわかりました。だから、いいんです」


 私には言っている意味がわからなかった。理性を保つ事に必死だったからではない。

 ついさっき出会ったばかりの年端もいかない少年が、そんな理由で命を捨てる事が理解できなかったのだ。


「私は……」


 私はどうすればいいのだろうか。長い時間を生きてきたが、ベックの時と同じようにこの少年を殺したくはなかった。

 いっそのこと、私の事を殺してくれればいいのに。

 そんな考えが頭をよぎった。


「エスカさん。準備ができました––––」


 なんだ、簡単じゃないか。自分で命を断てばいいんだ。

 私は世界樹の枝を自分の体に向けて、鋭く伸ばした。一切の迷いなくその枝は伸びていく。私は寿命が長いけれど、体が丈夫という訳ではない。体を貫かれたら簡単に死ねる。

 それが私にとっての覚悟なのだ。


「エスカさん!」


 ドンッと体が宙を一瞬浮遊した。その次に来たのは体が地面にぶつかった衝撃と、真っ赤な血を流すカイルドの姿だった。


「あ……ああ……」


 口をパクパクと動かして、流れていく赤い液体を眺めることしかできない。


「天の……光よ……我が身を持って……封じ込め」


 訥々とつとつと言葉をつむいでいるのが聞こえた。それは、10年前にベックが私の負の感情を封印する時に言っていた言葉だ。


 私の体を淡い光が包み込み、心が落ち着いていく。そして、わたしの中から黒いもやがにじみ出て、カイルドの持っている透明な石に吸い込まれていった。


「カイルド!」


 私はすぐにカイルドを貫いていた枝を抜き、体を支えた。


「何故こんな事を……」


 涙を浮かべながら言う私に、彼は微笑みながら、


「一目惚れ……ですかね」


 そんな事を言った。


「僕の祖父も……貴方に一目惚れ……したんですよ」


「喋らないでください……今すぐなんとかしますから、これ以上喋らないでください」


 それでも、やっぱりカイルドは口を閉じない。


「あの人は……ただの他人の為に……命を捨てるなんて……しないですから」


 にっこりと優しい笑みを浮かべながら言った。


 私の負の感情を封印したからか、カイルドの体が少しずつ消えていっている。

 どうすればいい。私は頭を全力で回転させた。

 どうすれば、どうすればこの少年を助けられる。そもそも傷を塞げたとしても封印による絶対的な死をどうすれば止められるというのだ。


 そうだ。世界樹の実なら––––。


「待ってください」


 私が世界樹の実を取りに行こうと立ち上がると、カイルドの腕が私の服を掴んだ。

 掴んだと言ってもほとんど力が入っていない。振りほどこうと思えば簡単に振り解けるはずなのに、私の体は地面に縫い付けられたかのように動かなくなった。


「世界樹の実なら……必要ないです。それは……僕なんかに使って良いものじゃない」


 そう訴える眼は、私の判断を狂わせるには充分だった。

 カイルドは私の動きが止まったのを見て、さらに言葉を続けた。


「10年だけ……エスカさんは旅に出た方が良い……と思う。孤独に耐えられないなら……耐えられるように生きた方が良い……。いや、出て欲しい。僕は……貴方に外の世界を見てほしい……」


 それが、彼から受け取った最期の言葉。

 その言葉を最後に、カイルドの体は空気に消えた。


 たった10分程の時間が過ぎただけ。


 たった一人、人間が死んだだけ。


 たった一粒、涙が流れただけ。


 たった一つ、私の覚悟が決まっただけ。



「分かりました」


 私は空に向かってそう呟いた。

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