変化する

 ––––ポツン


 何かが顔を叩く感覚に目を覚ます。


「なんでしょうか……?」


 いつもなら太陽の眩しさに目を覚ますのだが、今日は違う。

 空にはさんさんと光り輝く太陽の姿はなく、大きな灰色の雲が空を覆って、大きな水滴を降らし続けていた。


「ねえ、世界樹。雨なんていつぶりだろう」


 私は雨をはじき続ける世界樹に話しかけた。

 世界樹はそれに応えるように風に吹かれると、踊るように葉を揺らし、辺りにしずくを飛び散らした。


「あなたも久しぶりの雨が嬉しいのね」


 なんだか嬉しい気分になり、世界樹の葉の下から駆け出し、体を広げて雨に打たれた。


「あー、気持ち良い!」


 私の中の記憶では、最後に降った雨というのは10年以上前の出来事だった。


 そして、それを思い出すと同時、その日を最後に誰もこの世界樹に近づいてこなくなったことを思い出した。


 その日は確か、ある年老いた旅人がこの場所を訪れてきて…………何か、大事なことを忘れているような気がする。

 雨に打たれる気持ち良さと、何かを忘れているという気持ち悪さで、心の中はいくつもの色が交わって、灰色のような気分になっていく。


「なんだったかなぁ……?」


 と、私は手を頰に当てて記憶を必死に思い出そうとしていた。


 そんな時––––世界樹が葉を大きく揺らし、私にあることを伝えた。


「こんな時に誰かがやって来るなんて」


 それは世界樹の近くに侵入者が入って来たことを示す、いわば警報のようなものだった。

 10年ぶりに人と出会える。その人がたとえ世界樹の実を狙っていたとしても、それは嬉しいことのはずなのに、今だけは気持ちが落ち着かない。

 心の中を揺らめく灰色の感情。その正体があと少しで分かりそうだったからだ。


 それでも、使命はまっとうする。

 私は雨の中、侵入者がいるであろう方向にゆっくりと歩いて行った。


 世界樹の周りには、世界樹を囲むように森が広がっている。しかし、その森には植物があっても、動物はいない。

 私は森を歩きながら耳をすませるが、動物の鳴き声が聞こえる事はなく、雨と風に揺らされる葉の音が聞こえるだけだった。


「侵入者さーん。出てきてくださーい」


 私は周りに響くように声を出した。

 こんな呼びかけで出て来るような人はいないだろうが、極稀ごくまれに悪気のない人が迷い込んで来ることがあるので、意味が全く無いわけではない。無いわけではないが、そんな人は今まで一人だけしか会ったことがない。


 それもそのはず、世界樹の周りには見渡す限り壮大な森が広がっているからだ。

 私自身、この森がどこまで広がっているのかを知らない。


 今まで世界樹の近くに来た者はガタイの良い大男だったり、自分の体よりも大きなリュックを背負っていたり、何十、何百の集団で協力して、やっと数人来れたという人もいたくらいだ。


 そんな中、たった1人だけなんの悪意も目標もなく、世界樹の根元まで辿り着いた人間がいた。

 その人は私の声に反応して、自分から姿を現し、なんの争いもなく気がすむまで話し合い、いつの間にか帰って行った変わった人だ。


 私はそこで灰色の正体を思い出した。


 そうだ、最後に旅人と出会った時だ。


「旅人……雨……」


 その旅人と出会った日も何年ぶりかの雨が降っていた。


 まさかと思い、今度は先程よりも大きな声で声を出す。


「侵入者さーん! 出てきてくださーい!」


 雨の音にも負けない声で叫んだが、周りからは葉の揺れる音しか聞こえてこなかった。


 それから10分ほど歩き続けたが、侵入者の姿を見ることはなかった。

 先程よりも雨が強くなっているので途中で引き返したのかもしれない。


「……戻りますか」


 世界樹の警報はある程度、侵入者のいる方向を示してくれるのだが、正確な場所を示してくれるわけではないので不便といえば不便だった。

 私は土砂降りになってきた雨の中を、1人無言で今来た道を引き返す。


 結局、帰り道も侵入者と出会う事はなく、ビチャビチャになった体をそのままに、道中で採取した木の実を口に放り込んだ。

 バリバリと音が鳴る。無機質な味に、ボソボソとした食感。少し採取するのが早すぎたかもしれない。


 私は仰向けに世界樹の根元に寝転んで考えた。


 10年前、私はあの旅人と何かを約束したのだ。どんな約束だったのかは思い出せないが、ワクワクするような事だった気がする。


 なんだったか、そんな事を考えているうちに、だんだんとまぶたが重くなってきた。


 世界樹の大きな葉が雨を弾き、私に当たらないようにしてくれている。


 久しぶりに人と出会えるという緊張が糸が切れたようになくなり、精神的な疲れからから、私はいつの間にかまぶたを閉じてしまっていた。



 だから気づかなかった。



 大雨が止んだ瞬間に。



 雲の切れ間から幾本いくほんもの光の筋が降り注いでいる事に。



 私にとって些細なはずの約束された出会いに––––。






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