仕事を始めたばかりの頃だった。

かなりお年を召したご婦人が、定期的に私の所へお見えになっていた。

ご婦人は高齢の小さな雌のテリアを連れていた。

テリアは年を取った犬として不思議の無い、よくある心臓の病を患っていた。

テリアはご婦人と一緒に、自分の心臓の薬を貰いに来ていたのだ。

ふたりが訪れるのは、決まって風のない良く晴れた昼前の事だった。

一匹と一人は、いつでもお互いを労わる様にゆっくりと歩いて私の所にやってきた。

 先にも述べたように、当時、私の仕事は至極暇だった。

公園で遊ぶ子供たちの様子を見守ることができるほど暇だった。

そのことを口実にして木々の緑を眺めながら、私は日向ぼっこをしていたものだ。

玄関わきに置いてあるベンチは、そうした時を過ごすにはうってつけの拠り所だった。

 ベンチで過ごしていると、テリアとご婦人を直にお迎えすることもある。

ふたりは公園の角を曲がると、時間をかけてゆっくりと近付いてきた。

大抵はテリアが先を歩き、ときおり立ち止まっては後ろを振り返る。

そうしてご婦人が追いつくのをじっと待っていた。

 ふたりが共に過ごした年月は十六年位だったろうか。

人間の一生ならオギャアと声を上げた子供が、丁度生意気盛りの高校生に仕上がる。

その程度の時が経過する長さだ。

犬の寿命は人のそれと比べれば切なくなるほど短い。

 小さなテリアが初めてご婦人の腕に抱かれた時のことを思えばどうだろう。

人間の一生を測る尺度からすれば、それ程遠い昔のことでは無い。

それでも子犬だったテリアがつぶらな瞳で見上げるご婦人は、当時すでに老境に入りかけていたことだろう。

小さなテリアは生まれて二ヶ月位だったはずだ。

初めてか二度目に受ける伝染病のワクチンを控えていたろうか。

テリアは子犬特有のやんちゃな振る舞いを見せる盛りの頃だった。

ご婦人の手には甘噛みによる傷がたくさんできたに違いない。

子犬の無邪気な形振なりふりに、終日、家族の笑いが絶えることはない。

けれども時には皆困り果てて溜息の出ることもあったかと思う。

 子犬が素直で頑是無がんぜない時期はあっという間に過ぎ去る。

一年も経てば人で言う成年に達し、

粗方あらかた性格も固まる。

 犬は躾次第とも言うがどうだろう。

長年様々な犬を見てきたがどうしてどうして。

生まれついての個性もなかなかバラエティに富んでいると感じる。

躾けだけではどうにもならない所があるのは人と同じだ。

 ご婦人の小さなテリアが、如何なる犬属性を持って生きてきたのかは分からない。

私と出会った頃。

その小さなテリアが既にご婦人の生理年齢を追い越していたことは間違いない。

 小さなテリアには、良い犬に共通する猛々しさと縁遠い穏やかな魂が、確かに宿っていた。

診察台に上げた最初の日。

私にはそのことが容易に知れた。

 小さな老いたテリアの優し気な眼差しの奥には、人に対する信頼の光があった。

聴診器を当てても、背後で見守るご婦人を振り返ることはしなかった。

犬として生まれて十余年。

人と友誼ゆうぎを結び愛情と思いやりで種を越境してきたあかしがそこに見えた。

 ふたりと出会い、治療を始めてから一年ほど経った頃だろうか。 

小さなテリアは苦しむことなく。

人に比べれば短いその生涯を終えた。

道々後を振り返り振り返り、ご婦人を気遣う優しい犬だった。

そんな犬にとって、自分が死ぬと言う現象は理解の外だったはずだ。

 小さなテリアがもし死と言う概念を理解していたとすればどうだろう。

きっと自分の死を恐れるより先に。

残していかなければならないご婦人を気遣い心を痛めたに違いない。

 ふたりの間には言葉で説明しきれない、種を超えた深い絆が確かに結ばれていた。

それは訓練を受けた獣医師では無くとも、一目見れば誰にでも分かる絆だった。

私は仕事柄、それまでに多くの犬とその飼い主を見知っている。

だがふたりの互いに慈しみ合う美しい姿は、慣れた私の目にも特別な関係として映ったのだ。

そうしてこの様に長く私の心にも残った。

 小さなテリアが亡くなってしばらくして、ご婦人もまた鬼籍に入られたと風の噂に聞いた。


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