動物の無用な擬人化は診察の障害になる。

だからそのことは、厳に慎むべきだと私は信じている。

ところが日々の診療を重ねるうち、私はある種の迷いに捕らわれるようにもなった。

私はいつしか、人と似たような思考をする犬の存在を疑うようになっている。

迷いは晴れぬまま『それはさすがに獣医師としては恥ずかしくも非科学的だろう』と自身を諭すまま今日に至った。

 

 毎日のように公園へ出かけていた息子が幼稚園に通い始めていた。

すると仕事を始めて五年程経つ頃のことだったか。

 うららかな春の日差しは薫風くんぷうまとい。

林の明るい緑に金色の粒子を撒き散らしている。

見えるまま感じるままの通り。

春の装いは去年とちっとも変わりはしない。

それなのに公園から戻る息子の泣き声も。

日差しの中に眩しい妻の柔らかな微笑みもない。

あれはそうした、ちょっと寂しくなってしまった昼前の事だった。

 若い夫妻に連れられた雑種の子犬が病院にやってきた。

生後六十日前後だろうか。

雄の子犬だった。

子犬は数日前、新居のまだ芝を張ったばかりの庭先に、突然現れたとのことだった。

[彼]は物怖じもせず、べったりとした芝の上にちょこんと座っていた。

そうして、リビングの掃き出しを開けた妻女を見上げてニコニコ笑ったらしい。

口を開けて下から見上げる子犬は、確かにニコニコ笑っているように見えるかもしれない。

獣医師としてそれに異論は無い。

 

 何と言っても、乳歯が生え変わる前の子犬の愛らしさは、他に例えようもない。

あどけない瞳を持つ小さくて暖かな毛玉の魅力を知る者ならどうだろう。

瞬く間にその魔性の虜となる他に選べる道があるだろうか。

 人は小さな毛玉が小首を傾げて高速でしっぽを振る姿を一度ひとたび目にしてしまえば最早成す術はない。

白旗を上げてその魅力の軍門に下るしか選ぶ道はない。

脳はオキシトシンのもたらす多幸感に満たされ、表情筋はだらしなく緩んでしまう。

 さすれば例え如何な重責を担う英雄豪傑勇者であろうとも、内なる欲望に逆らうことはかなうまい。

その身の内に湧き上がる甘やかな陶酔感は如何いかばかりか。

仔犬の魅力は仁義礼智忠信孝悌なぞまとめてぞろりと吹き飛ばす程の威力を発揮することだろう。

それは彼ら彼女らに等しく、我を忘れさせるに違いない。

 そのことは例え神様や主君であっても止められはしない。

 

 勢いで思わず毛玉を抱き上げようものならもういけない。

子犬とは、いささかのてらいもなく、大喜びで人の顔を舐めようとする魔獣なのだ。

畢竟ひっきょう抱き上げて顔をひと舐めでもされようものならその刹那。

子犬(魔獣)と人の間には生涯解けぬ契約が結ばれてしまう。

・・・そうして家族の定員が一席増えることになるのだ。

 

 御多分にもれずこの日やってきた子犬も、夫妻の心を一瞬で鷲掴わしづかみにしたらしい。

来院時にはもう新婚家庭がかもす排他的幸福の只中に。

確かな地位を獲得していたのだから子犬の魔力は侮れない。

 その子犬は、全身を淡い茶色の

和毛にこげに覆われていた。

足先と尾の先だけは雪ウサギのように白く、陽を浴びるタンポポの綿毛のように人目を惹く。

少し大きめの垂れ下がる耳とピンと立つしっぽが愛らしい。

既存の犬種の良いとこ取りと言う容姿が出自の遺伝的複雑さを伺わせる。

様々な洋犬の遺伝子が生み出した混沌の中に、日本犬の“らしさ”を一垂らしというところだったか。


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