第10話 NEET、泥のように眠る

 とにかく、吐いた。酸っぱい胃液くらいしか出なかったが、それでも吐いた。


 当たり前だ。

 生きてる何かを殺すのなんて初めてだったんだから。それも、無意識に踏んづけてしまっているアリなんかとは違い、明確な意思でもって、大きな動物を殺したのだ。人じゃなくても、相手から襲ってきたとしても、俺が殺したことには違いない。


「オェェエエエエ……げほっ、ごほ」


 トイレの便器に顔を突っ込み、ゲロゲロと吐き出す。既に胃の中に吐き出すものはなかったが、こうすることで罪悪感が消え失せるような気がしたのだ。

 つまり、これだけ苦しんでるから許してくれるだろうという自分勝手なネズミに対する無意識なアピールなのだろう。クソが。そんなこと、殺された側からすれば何の意味もないっていうのに。


「…………落ち着け、よし、落ち着け……落ち着いたな」


 身体が胃から物を吐き出すことに慣れてしまいそうだったので、深呼吸をして吐くことを止める。胃の辺りを慎重に手でさすり、なだめる。リビングの方からきゃあきゃあ悲鳴が聞こえるが、聞かなかったことにしよう。


 今はただ、ベッドで泥のように眠りたい気分なのだ。


 ただ、ガラスの破片を振り下ろしただけなのに、信じられないくらいに疲れている。飛びかかりを回避した時に痛めたとかでないのはわかっていた。単純に何かの命を奪ったから疲れているのだ。


 一回でこれとか、戦場で戦う兵士の精神とかどうなってるんだ。凶器が銃だからこれほどの負担はないのか? ……なんて、他のことを考えて意識を逸らさないとやっていけない。


 とりあえず、休息だ。休息をとろう。


 そう思ってなんとか立ち上がり、おぼつかない足取りで二階に向かおうとする俺の聴覚が、どたどたと慌ただしくこちらに近づいてくる足音を捉えた。十中八九、妹のだ。


「お、お兄ちゃん!」


 慌ててこっちにやってきた妹、米沢ほのか。

 ほのかはいつものように慌ただしく……いや、非常事態だからか、いつもより若干慌ただしい気がする。


「あれ、あのネズ、ネズミ……? とにかく、あれ何!? あと、血まみれだけど大丈夫!? っていうか顔見るの久しぶりだけど元気そうだね、良かった。病院とか行かなくて大丈夫なの?」

「…………おう」


 なんというか、いつも通りで安心した。

 マシンガントークで安心するとかおかしな気がしないでもないが、日常に戻ってきた、という気持ちになれた。そして、安堵したら眠くなってきた。後のことは妹に任せようかと思ったが、それは酷だろうと考える。

 しかし、眠い。非常に眠い。


「……ほのか」

「なに? お兄ちゃん。もしかしてどこか怪我――」

「庭に開いた穴からロープ引っ張り上げておいてくれ。それでもうあのネズミみたいなのはこなくなる。あの死体は親父に任せろ。確か爺ちゃんと山で狩猟してた頃があったみたいだから、解体方法は知ってるはずだ。――疲れたんで、俺は寝る」


 妹の言葉を遮って柄にもなく饒舌じょうぜつに――ほのかは天変地異の前触れを見たかのような顔をしていた――指示を出すと、俺は思い通りに動かない身体を引きずって、二階へとあがっていった。

 そして、絶妙な男臭さがある自室へと戻り、敷き布団へと倒れ込む。そのまま掛け布団を被ることもなく、意識は闇の中へと沈んでいった。

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