密
無人のリビングは、ちゃんと冷房が効いていた。
何しろ、六月から九月まで、ずっとエアコンを入れっぱなしなのだ。
「いつも、びっくりしちゃうよなぁ。ほんとに、電気代、大丈夫なの?」
桃彦にそう訊かれるのも、毎年のことだ。つけっぱなしのほうが安いことは、何度も教えてやっている。今日は省くことにした。
「ピザでもピラフでも、どれでも適当にチンしていいから」
桃彦を冷蔵庫に促すと、自分はスマホだけを持って、ソファに沈み込んだ。
「モコちゃんは? お腹すいてるんでしょ?」
「アタシはいいや。ちょっと調べもの」
「……って、何を?」
「もちろん、さっきの銀じいちゃんの話」
「ってことは、モコちゃんも、じいちゃんの話を信じてくれたんだね」
「んなわけないじゃん、逆よ、逆」
そう言い放ってしまったので、さすがに付け加えておく。
「あ、もちろん、銀じいちゃんのことは信じてるよ。疑ってるのは、さっきの話の内容。だって、信じろってほうが無理じゃん」
「うーん。やっぱり、そうだよね……」
ピラフをレンジに入れながら、なぜか桃彦は残念そうだ。
「……って、まさか、アンタは信じちゃってるの?」
「うん、もちろん」
即答かよッ!
「本気で? てっきり聞き流してるんだと思ってた」
「そう? びっくりした表情とかしてなかった?」
「まー、アンタにしちゃ、わざとらしいリアクションもあったね。それって赤鬼? 青鬼? とかさー」
桃彦は恥ずかしそうな笑みを浮かべている。
「そっか……。やっぱり、ぼくは男優には向いてないかもなぁ。自分じゃ、なかなかの演技だと思ってたんだけど……」
「ってことは、ホラ、やっぱりアンタも信じてないんじゃん!」
「いや、ぼくは信じてるよ、ちゃんと」
またしても即答。しかも、桃彦にしては力強い。
「いい? 銀じいちゃんが言ってたみたく、全国のどこかにも、守山家みたいな桃ファミリーがあるとするじゃん? そのうちの誰かが、ぜったいネットに情報あげてるはずだって」
見える距離でもなかったが、スマホの画面を突き出した。
「いろんなワードで検索してみてるけどさ……、結局、ありきたりの桃太郎しか出てこないし」
「先祖代々の秘密なんだよ、きっと」
「別に、隠す必要ないじゃん。世のため人のため、いいことしてるわけだしさー」
「知らぬが仏、っていうの? みんなが知らないほうが、何かと安全なんだよ、きっと。桃太郎の昔話も、そのためのカムフラージュだったりして」
やけに得意げなので、鼻で笑ってやる。
「世の中、そんな控えめな人間ばっかりじゃないから。せっかく鬼退治するんだし、それこそ動画でもアップしたら、それなりの小遣いになるって」
それこそ守山家のように極貧なら、むしろそうするべきだろう。桃の木を守っていくだけでも、けっこうな時間と労力をとられているのだから。
他の桃ファミリーはともかく、守山家は明らかに秘密主義が過ぎる。何しろ、自分自身が鬼退治に行かなきゃかもしれない桃彦にさえ、今日まで黙っていたのだから。
隣の家のことながら、何となく腹が立ってきた。
「仏だかホットケーキだか何だかだけど……、いちおう本気で信じてるんなら、アンタも怒っていいんじゃない? 家族全員に、ずーっと隠しごとされてたんだよ」
それなのに、桃彦は笑顔のままだ。出来上がったピラフを手に、嬉しそうにこっちに向かってきている。
「うん、やっぱりモコちゃんに嘘はつけないから言っちゃうけど……」
あ、何か、嫌な予感。
「実はぼく、前から知ってたんだ」
「……って、誰に聞いたの?」
「洋一おじちゃん」
……最悪だよ、オー、マイ・ダディー。
さすがに言葉が出てこない。
「って言っても、わりと最近だけどね。……去年の春、モコちゃん家の屋上で、ぼくたちの高校合格のお祝いパーティーやったときに」
たしかにやった。
銀じいちゃんも含めて、守山家の全員が揃っていた。それなのにどうして、よりにもよってお父さんなのだ!
「けど、洋一おじちゃんはそのこと覚えてないと思う。いつもみたく、完全に酔っぱらってたから」
言われてみれば思い出した。
酔っぱらったお父さんが桃彦を捕まえるのは、いつものことだった。本当はきっと、男の子が欲しかったのだろう。桃彦が矢賀莉子と付き合いはじめたあたりから特に、そっち系の知識を授けていた。時々いやらしい手つきを交えながら、二人きりでの密談を繰り返していたのだ。
だからそのときも、桃子は遠めから冷ややかに眺めていた。というより、睨みつけていたはずだ。
とすると、てっきり違うものを握っていると決めつけていたあの手つきは、木刀を握っていたのかもしれない。
「さっきのじいちゃんの話は、ほとんど全部。それ以外にも、いろいろ教えてくれてね。次は百パーセントぼくの番だって言ってたから、何となく、心の準備はしてたんだ」
酔った勢いとはいえ、とんでもない愚行だろう。
地味な守山家にとっておそらく唯一にして最大のイベントを、おかげですっかりぶち壊してしまったのだから。映画のネタバレなんかより、何百倍も許されない。
さっきの桃彦の下手くそな演技っぷりに、銀じいちゃんが察してしまっていたらどうしよう。
「何か、ごめん……。あの人、いいかげん禁酒させないとね……」
「あ、ぜんぜん、洋一おじちゃんは悪くないって」
美味しそうにピラフをほおばりながら、桃彦が一瞬だけ笑顔を向けてくる。
「ぼくがちょうど、あの桃の木を疑い始めてた頃でさ。品種はともかく、あまりにも樹齢が長すぎるんだ」
知識がなさすぎて、そう言われてもピンと来ない。
「接ぎ木とか挿し木とかも、一度も見たことなかったしさ。父さんに訊いたら『じいちゃんに訊け』って逃げられるし、じいちゃんに訊いたら『古来種だから』で済まされちゃうし……。で、あのとき洋一おじちゃんが酔っぱらってたから、ためしに訊いてみたんだ」
なるほど。桃彦にしては賢明だ。
「それに、もともと、父さんが洋一おじちゃんに話しちゃってたわけだしね」
「だからって、よりにもよってアンタに漏らしちゃうなんてさ。せめて、アタシとかお母さんとか――」
言いかけて、もう悟ってしまった。
そう、知らなかったのはおそらく自分ひとりだけなのだ。潤子おばちゃんはもちろん、お母さんもとっくに知っている。ひょっとしたら、自分たちが生まれる前から知っていたのかもしれない。
怒りとか悔しさとかより、何となく寂しさが湧いてくる。それ以上は考えないことにした。
ともかく、父親の酒癖のせいで、少なからず責任は感じてしまった。
昌おじちゃんの動きは読めないものの、せめて桃彦とは手を組もう。銀じいちゃんを傷つけないような時間を、二人で作り上げないといけない。
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