「――ねぇ、ホントに何も隠してない?」


 二人で校舎の階段を駆け下りながら、もう一度だけ桃彦に訊いてみる。

「何にも隠してないよ。ぼくが嘘つけないの、一番よく知ってるくせに」

 たしかに、これまでの十七年間の人生で、桃彦に嘘をつかれた記憶はまったくない。最近はむしろ、正直すぎて困っているくらいだ。

 それなら、この胸騒ぎは何なんだろう。

「夕方には、また病院に戻っちゃうらしくて……。後から知ったら、モコちゃん怒るかもしれないと思ってさ」

 その呼び方は禁じている。ちょうど踊り場だったので、軽く右尻を蹴り上げた。

「ごめんごめん。二人きりになると、つい出ちゃうね」

「二人きりでも校内じゃ禁止! 次からは、一回ごとに罰金百円!」

「えー、百円は厳しすぎるって。それなら蹴られるほうがまだ嬉しい」


 校舎を出るなり、真上からの強烈な直射日光に襲われた。

 当然のように駐輪場に向かっている桃彦に、思わず声を掛けてしまう。

「ねえ、今日ぐらい、タクシーで帰ってもいんじゃない?」

 何しろ、銀じいちゃんが家に帰ってくるのだ。

 あまり考えたくもないが……、銀じいちゃんのガンは、とっくに全身に拡がってしまっている。手術も去年のが最終回らしい。会うたびに体が細く小さくなっていた。それが辛くて――いや、理由はそれ以外にもあったが、しばらく見舞いに行けていなかった。

 ともかく、その時が迫っているのは間違いないのだ。

「そんなぜいたく、できないよ」

 桃彦の足は止まらない。

「えー、ヤだよー、暑いし。タクシーで帰ろうよー」

「けど、二学期まで置きっぱなしになっちゃうじゃん、自転車。……ぼくら、今はもう二人とも帰宅部なんだし」

 こんなときに嫌味なことを!

 おかげでまた、あの屈辱的な場面を思い出してしまった。

「ってホラ、うちのクルマなら、シート倒せば二台とも積めるし。そのうちお父さんに頼むからさー」

「けど、ぼく、お金ぜんぜん持ってないよ」

 何を今さら。

 生まれながらのお隣りさんなので、お互いの家の経済事情くらい、嫌でも分かっている。

 桃彦は高二なのに月の小遣いが六百円、おまけにスマホも持っていない。自宅では桃子のおさがりのノートパソコンを、枕木家のワイファイ環境のぎりぎり端っこで使っている。

「それくらいなら持ってるから」

 銀じいちゃんが絡んでいるので、たぶんお父さんが出してくれるだろう。

「ふつうに帰ろうよ、モコちゃん。銀じいちゃんも、そのほうが嬉しいって」

 いつもながら、こういうところに腹が立つ。何の根拠もないはずなのに、なぜか説得力を感じてしまう。


「――皿見先生のこと、あんまり好きじゃないの?」

 しばらく険しい顔で自転車を漕いでいたからだろう。桃彦が唐突に訊いてきた。

「……って、どうして?」

「いや、あんなふうに、無理やり帰ろうとしてたから……」

 ってことは、とっくに廊下にいたのだろう。それこそ、まんまと助け舟を出されてしまったということか。

 不本意だ。あまりにも不本意すぎる。

「……別に。面倒だから、一秒でも早く帰りたかっただけ」

「面倒って、何が?」

「……それ、アンタが言う?」

「え? どういうこと?」

 これが他の誰かなら、そのしらじらしさに呆れるところだ。桃彦の場合、長い付き合いの桃子でさえ、それが素なのだと諦めている節がある。

「……アンタさ、『枕木ルート』ってワード、聞いたことある?」

「ないけど……、あ、モコちゃ――じゃなかった、枕木の新しいあだ名とか?」

 だろうな。

 さすがの桃子でさえ放り投げてしまった。たとえ丁寧に説明したところで、それで状況が好転するわけでもない。

 今はただ、銀じいちゃんの待つ家へと急ぐことにする。

 


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