桃を継ぐもの

上野雑庵




 夏休みが始まった!

 だから桃子は、さっそく教室を抜け出そうとしている。誰よりも早く、うっかり連中に捕まってしまわないように。


「――ちょっと! 枕木さんッ!」


 甲高い声を飛ばしてきたのは、担任のサラミちゃんだ。こっちも堂々と席を立ったので、当然といえば当然だろう。

「まだホームルームは終わってないわよ、席に戻りなさいッ!」

「ってさー、もうチャイム鳴ったじゃん」

「まだ鳴ってる途中ッ!」

「ゴングでもブザーでもホイッスルでも何でも、鳴り始めたらその時点で試合終了! そんなに大事な話なら、チャイムが鳴る前に終わらせないと」

 うんうん頷きながら、クラスメイトたちも帰り支度を始めている。試合終了。だから桃子も、そのぶん優しくサラミちゃんに声を掛ける。

「先生の言いたいことは、ちゃんと理解してるって。例の事件が解決するまで、夜中にふらふら出歩かなきゃいいんでしょ」

 ちょうどチャイムも鳴り終わった。

 勝ち誇った桃子が、悠然とドアを開けようとしたときだった。


「なるほどね。じゃ、枕木さん、いったん通知表を返してもらいましょうか」


 落ち着きはらったサラミちゃんの声。

 桃子も思わず足を止めた。

「……って何? 言うこと聞かない、って親にチクるつもり?」

「そんな子供じみたこと」

 サラミちゃんは鼻で笑っている。

「だって、今のあなたの理屈だと、今朝のあなたは遅刻になっちゃうのよ。チャイムが鳴り始めてから、教室に駆け込んできたもんね。ぎりぎりセーフ、とか自分で言ってたけど、だったら全然アウトだよね」


 ぐぬッ!


「一学期だけでも、たぶん百回はあったでしょう? あなたの将来のためにも、それはきちんと情報として、親御さんとも共有しておかないとね」


 うかつだった。

 分かりやすい手のひら返し。薄情なクラスメイトたちの冷笑が、あちこちから刺さってくる。

 何か言葉を探していると、いきなり目の前のドアが開いた。と同時に、背後からはサラミちゃんの甲高い声が飛んできた。


「あらまぁ、守山くんじゃない!」


 よりにもよって!

 こんなカッコ悪い場面を、まさか桃彦に見られるなんて。悔しすぎる。たぶん生涯の恥になってしまうだろう。

「あ、すみません、まだ終わってなかったですね……」

 つい逸らした視線の先に、クラスメイトの不気味な微笑みが並んでいる。やはりサラミちゃんだけじゃない。自分以外の全員が、すっかりかわいらしい女子に戻っていた。

「いいのよ、全然。それより、どうしたの?」

「あ、入院中の祖父がちょっと……」


 え……、銀じいちゃんが……!?


 慌てて視線を戻す。

 どういう意味なのか、桃彦は真顔で小さく頷いてきた。

「で、これから枕木さんも一緒に病院に……」

「枕木さん!」

 しょうがなく向き直ると、サラミちゃんはもう目の前まで来ていた。さっきまでとは別人の、理解のある表情が仕上がっている。

「いいから、今すぐ行ってあげなさい」

「けど、通知表――」

「それもいいから」

 不気味な笑顔でさえぎられた。口止めの意味もあるのだろう。

「――じゃ、守山くん、気をしっかりね。焦って事故らないように」

「はい。ありがとうございます、皿見先生」


 桃彦を追うように、桃子も教室を飛び出した。

 不穏な胸騒ぎしかない。それでもともかく、夏休みは始まった!

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