Existence

 たとえば、私が死んでいるとしよう。私は、街角で花を売っている。しかし、これがひとつも売れないのだ。私はやがて眠たくなって、そのまま眠りこけてしまうのである。


 夢の中で、私は半透明だ。街角に私の店もきちんと在って、けれどたとえ客がそこへやって来ようとも、私はもう、対応することができない。私はまるで幽霊だった。いま、見知らぬ男が私のところへやって来て、けれど私にはまったく気づかぬまま、終ぞ私と一度の視線も交えぬまま、立ち去ってしまった。そんな工合なのである。

 私は大人しく立っているのにも飽きてしまって、ふらふらと街をさまよい始めた。私は、きっと初めからこの街に存在しなかったのだ。というのも、私がこんなふうになっても、街はちっとも変わらない。私は無性に哀しくなってしまって、俯いた。道行く人々は、私に気づかないどころか、私を避けもせずに、半透明の体を通過して行く。私はますます哀しくなった。

 歩いて歩いて、とうとう、私は、自分が宙へ浮かべることを知った。それは突然の発見であった。はじめて飛んだ そらは、不安定で恐ろしかったけれど、同時に心地よかった。私は、いつまでも宙を飛んでいた。


 私は宙を飛びながら、街角の花のことを思った。私がこのまま戻らなければ、彼らはきっと萎れて腐ってしまうであろう。それはとても残念なことであった。私は帰ることも考えてみた、けれど、元に戻る方法も判らぬ。今更どうしようもないと諦めた。そう思った途端に、体が軽くなった気がした。私は、ひどく自由だった。

「人間って、忙しいのね」

 私は空の上から、人々を見下ろして言った。ここから見れば、どんな人間でも蟻のように見える。その黒い点々が、あちらこちらへと列を為して動き回っているのだ。その様は、まるで蟻と同じだった。


 私には、随分と昔のことだけれど、家族がいた。友達がいた。けれど何時のときだったか、私は彼らを ことごとく失ってしまった。私は哀しいはずだった。けれど、実際に私は、自分の身に起こったことが、哀しいことなのかそうでないのか、ちっとも判別がつかないのであった。ただ、失くした。そればかりは憶えている。それだけである。


 私は空に浮かんでいるのにも飽きて、また、地上が恋しくなった。私はもう、幽霊であることを忘れていた。私は、そもそもどこから来たのだろう。私は、いま、夢の中に居るのか、それとも、そんなのはただの幻想で、実は反対であったのか。もう、とんと見当がつかぬ。しかし、ただ一つ言えることは、その二つに大差は無いということである。私は、いつから、いや、もう、ずっと前から、きっと、死んでいたのである。


 はて、私は、いったい、いつから。

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呼吸のような世界 不朽林檎 @forget_me_not

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