逢い引き桜

 それは桜の咲いた夜のことだった。わたしと妹は、それを頭上に眺めて、なんだか不思議な気分になった。満開の桜はとてもきれいで、わたしたちはいつまでもそれを眺めていた。

 わたしと妹は、ちいさな田舎町の生れであった。わたしたちは仲睦まじい兄妹として、近所にも承知されていた。わたしは何処へ行くにも、この妹を連れていた。決して裕福な家庭ではなかったのだが、特に困ることも無く、それなりに幸福な日々を送っていた。

 ところが、わたしが十六、妹が十四の時、わたしたちの両親はとても呆気なく、交通事故によって死んでしまった。まだ二人とも死ぬには早く、皆がその死を悼んだ。

 両親の葬儀で、わたしは遺影のなかの二人に語りかけ、一人声を殺して泣いた。理由は自分にも判らぬが、なぜだか声を上げてはならないような気がしたのだ。人工的に気温の調整された部屋で、わたしは一人、そこに立っていた。きっと、世界でいちばん孤独であったと思う。そう感じた。

 わたしたちは、生活能力をもたぬ子供であったので、助けが必要であった。そこで、わたしたちはそれぞれ違う親戚のもとへ引き取られた。妹は叔父に、わたしは叔母に引き取られた。

 わたしたちは春の日、確か四月の中頃であったと記憶しているのだが、桜の木の下で別れた。わたしはこの町に留まることになっていたのだが、妹の引き取り手である叔父は、隣町に住んでいたのである。妹はこの別れを淋しがって、その二三日まえから、わたしにすがりつくようにして泣いた。

「いや、いやだよ。お父さんもお母さんも亡くして、お兄ちゃんまでいなくなるなんて、絶対にいやだよ」

 わたしは、どうしてやることもできなかった。けれど、せめてもの慰めになればと思って、わたしたちの家の隣にあった公園へ、妹を連れ出した。その時、ちょうど桜が咲いていた。昼下がりのことで、まだ高く明るい陽光は、わたしたちを均等に照らした。わたしは、太陽を憎く思った。木漏れ日がわたしたちの足下で踊っていた。穏やかな日であった。

 わたしは妹の手を引き、桜の木の下へ連れていった。それからすこし屈んで、妹と目線を合わせた。妹は小柄で痩せていて、誰が見ても女の子と云う体型をしていた。特別に性的な印象を与えるわけではないが、仕草やシルエットの一々が、この上なく女性らしかった。そして妹は、とても気弱であった。学校などでは上手くやっているようであったが、それでも、きっと暴漢などに会えば、好き放題やられるに違いない。わたしには、そんな予感があった。だから、わたしは妹のことが心配であった。できることなら一人前になるまで、見守っていたかった。

 わたしは、妹の目を覗き込みながら言った。この後、三十分ほどでわたしたちは別れることになっていたので、妹は既に泣きそうな顔をしていた。

「そんな顔しないで。いいかい、 僕はあと二年で、高校を出る。そのころお前は、高校一年だ。そして、僕が高校を出た暁には、きっと独立して、お前と一緒に暮らす。僕達は、家族だ。そんなに簡単に引き裂かれてたまるものか」

 妹は黙っていた。春の生温く、やるせない風がわたしたちの間を吹き抜けた。わたしは静かにつづけた。

「だから、たった二年の辛抱なんだよ。いや、解る。僕達にとって、二年はあまりに永い時間だ。でもね、きっと、憶えていて欲しい。僕は、お前を裏切ったりしないから。なんとしてでも、お前を取り戻してみせるから。大丈夫だからな。兄ちゃんが、守ってやるから」

 妹は目にいっぱい涙を溜めて、ゆっくりと頷いた。わたしは妹をひしと抱きしめ、頭をたくさん撫でてやった。妹は、じっと大人しくしていた。

「この季節を憶えておいて。桜の咲いた日だよ。四月の、中ごろ。僕は、必ず迎えに行く。僕は叔父さんの家を知らないから、隣町の駅まで来てくれ。そこで、僕らはきっと会おう」

「うん。待ってる」

 そうして、わたしたちは別れた。妹は叔父に背中を押されるようにして、隣町へ旅立った。列車に乗り込むまで、妹は見送りに来たわたしの方を、何度も何度もふり返り、小さく手を振った。わたしはそんな妹を見る度に、胸の奥が滅茶苦茶に引き裂かれるような思いがした。


 わたしの人生で、あれほど自身の発言を後悔したことはない。わたしは、妹を守ってやれなかった。わたしは所詮、一介の無力な小僧に過ぎなかった。

 わたしは予定どうり叔母の家へ引き取られたが、そこで待っていたのは虐待の日々だった。叔母は気難しい人で、わたしがなにか、ほんの小さな失態でもしでかすと、それは気の狂ったように騒ぎ立て、わたしを殴った。例えば箸の持ち方が下手だとか、歩く音がうるさいだとか、そんなことが、暴力の引き金になった。思い切り突き飛ばされ、ストーブで大火傷を負ったこともある。幸いだったのは、いくら叔母が小太りで、女性にしてはやや背の高い人であったとはいえ、わたしの腕力の方が強かったことだ。わたしはある程度の抵抗力をもっていたし、叔母もそれは理解していたのだろう、無理な追撃は避けているようであった。それゆえ、わたしは命に関わるような怪我をしないで済んだ。

 叔母の夫は、妻の暴挙を止めなかったが、加わることもしなかった。もともと、夫婦の仲は冷めきっていたらしいのだ。そんなことも、叔母のストレスを加速させたのであろう。

 わたしは、ただひたすらに耐え続けた。どんなに理不尽なことで殴られようとも、妹を想って耐え続けた。ここで、耐えるしかないのだ。そして、いつか妹を迎えに行くのだ。そう、自分に言い聞かせた。


 また春が来て、わたしは高校を卒業した。桜が咲きかけていた。三月のまだすこし冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、わたしはわざと遠回りして、あの公園に立ち寄った。やはり、ここでも桜は咲きかけていた。その時は近い、わたしは確信していた。

 息を殺して虫のように生きる日々がさらにひと月ほど続き、ついに三月も終わりに近づいたころ、わたしは妹に手紙を出した。四月の第一週末、君を迎えに行く、約束の場所で待っていてくれ。そんなことを書いた。叔父の住所は、叔母から簡単に聞き出せた。もう、火傷の痕も、二の腕をアイスピックで抉られてできた傷も、忘れていた。わたしは、妹に会いたい一心で、そしてこの地獄のような生活から抜け出したい一心で、手紙を書いた。

 返事は、いつまでも来なかった。

 四月の第一週末、桜の花も八分ほど開いた日、わたしは満を持して、隣町の駅へ出かけた。距離にしてはほんの一駅ぶんであるのに、列車に揺られている時間は永遠にも感じられた。

 わたしは駅に着くと、そこらのベンチに座り込んで、じっと妹を待った。来てくれるという確証はまったくなかったのだが、わたしはいつまでも待ち続けた。幸い、人は少なかったため、それほど気をもむことなく、ゆったりと構えていられた。

 両親が残してくれた金が、まだ口座に残っていた。楽に食べていけるわけではないが、わたしたちの暮らしを始めるにあたっては、充分すぎる金額であった。どうやら両親は親戚もあてにしていなかったらしく、自分たちにもしもの事があっても、わたしたちへ金を確実に残せるよう、手を回してくれていたのだ。

 これに加えてわたしがせっせと働けば、貧しくとも妹を養うことくらいできるはずだ。場合によっては、妹にも色々なところで協力してもらわなければならないが、それは、きっと妹も解ってくれるだろう。そう考えていた。つまり、準備はできていた。わたしたちはどこで死んでしまうことになろうとも、この作戦を決行するつもりでいたのである。もっとも、妹が賛同してくれるというのは、完全にわたしの妄想であった。わたしも、二年にわたる息苦しい生活の中で、ずいぶん心がまいってしまっていた。

 妹は、なかなか現れなかった。人が少ないと言えど、こうして座っていると、かなりの人が行き来するのを目撃した。わたしは意味もなく、もう痛みもしない古傷をさすりながら、ただひたすらに待った。

 そうして、午後九時をまわった頃であった。わたしも、もう諦めかけていた。妹はきっと、こんな兄のことなど忘れて、幸せに暮らしているに違いないのだ。そうだ、きっとそうだ。それなら、わたしが言うことなど何も無い。わたしは、一人静かに生きるとしよう。

 そして、十時をまわって駄目だったらば、もう諦めよう、そう決めた時だった。見覚えのある姿が、遠くに見えた。いや、記憶にあるものより、少し大きくなって、髪も伸びていた。彼女は駅の徒に長いだけの階段をよろよろと登ってきた。わたしは堪らず駆けだした。コンクリートの裂け目で躓きそうになったが、構わず走り続けた。だんだんと妹の姿がはっきりしてくる。あどけなさは薄れ、大人の女性に近づいていた。立派なセーラー服を着ていた。けれど、その表情はやつれていて、眼にはちっとも生気が無かった。妹は、身なりはまったく普通であるのに、眼や表情ばかりが、死人のそれと違わなかった。

 わたしは一も二もなく妹を抱き寄せた。妹の体はやはり大きくなっていて、たしかに温かかった。妹は微動だにしなかった。ただ一言、わたしの名を呟いた。わたしは妹の肩をやさしくつかみ、そっと引き離した。妹の顔を、この愛おしい家族の顔を、いま一度、丁寧に観察したかったのである。そうしてみて、わたしは息をのんだ。妹は泣いていた。少しだって声を漏らさずに、しかしそれは我慢していると云うよりも、不可能であるが故に声が出ていないようにみえた。わたしは妹の放つただならぬ雰囲気に少し怯んだ。

「会いたかった。ずっと、お前のことばかり考えていたよ。しかしなぜ、泣いているんだ?誰が、お前を泣かせた?」

 妹は静かにかぶりを振り、わたしの眼を真直ぐに見据えた。それは哀しい瞳であった。こんな時間に田舎の駅を通る人など限られている。わたしは人目を気にすることなく、妹にやさしく語りかけ続けた。

「もしかして、叔父さんか?あいつが、何かしたのか」

 妹はようやく、表情を歪ませて人間らしい涙を見せた。それでわたしは、涙の原因が叔父にあるのだと知った。叔父のことはよく知らない。わたしたちは、親戚と関わったことがほとんどなかった。あったとしてもせいぜい、正月に挨拶を交わす程度のことで、誰も彼も、うろ覚えの状態なのであった。

 妹は振り絞るようにして声を漏らした。それはひどく震えていて、注意していないと聞き取れないくらいにか細い。

「叔父さんが、私を、何度も何度も、あ、あ、え」

 そこで言葉は途切れた。妹はとうとう声を上げて泣き始めた。わたしは妹をつよく抱きしめ、落ち着くのを待った。十分ほどは、そのままであったと思う。やがて泣き疲れた妹は、わたしの腕を抱き、ぴったりと身を寄せて言った。

「帰ろう。どこでもいい。ここではないどこかへ、連れて行って」

 わたしは頷くと、既に構えてあったアパートの一室へ、妹を連れ帰った。ここには、わたしたちを傷つけるものが何も無い。妹のみならず、わたしはひどく安心して、それと同時に、これまでのあれこれを思い出して、しばらく泣いた。妹はわたしの涙を見て多少驚いたようであったが、ただじっとわたしの隣に寄り添って、泣き止むのを待ってくれた。


 落ち着いてから、わたしたちは順番にシャワーを浴び、ローテーブルに向かい合った。妹はまったく荷物を持ってきていなかったので、わたしの服を貸した。妹の表情は相変わらず硬かったけれど、すこしは顔色もましになってきて、昔を思い出させるものになりつつあった。わたしは冷蔵庫からラムネを取り出して、二つのグラスに注いだ。氷を入れておいたので、二つのグラスは持ち上げるたびにカラカラと涼やかに鳴った。

 ラムネは、わたしたち兄妹の大好物であった。まだ両親が生きていた頃、わたしたちは近所の駄菓子屋でラムネを買い、よく二人で飲んだものだった。

 わたしは一つずつ、ゆっくりと時間をかけて、妹からこれまでの経緯を聞き出した。まずもって、あんな時間に制服を着て、身一つでやってきたのはおかしい。

 妹の口は重かったが、やがてぽつりぽつりと、言葉をこぼしていった。どうやら、妹は叔父のもとで性的な虐待を受けていたらしい。初めは軽微なものであったのだが、それは徐々に激しくなっていった。そして妹は中学三年生の夏、無理矢理に純潔を奪われ、汚されたのだ。その蛮行は幾たびにも及び、妹からは表情や感情が失われていった。自殺すら考えたが、ただひとつ、わたしに会うことだけを救いに思って、今まで生きてきた。

 しかし、叔父の手から抜け出すことは非常に難しかったようだ。妹が高校へ入学してから、叔父は妹を部屋へ閉じ込めるようになった。完全に幽閉されていたわけではないが、叔父の許可無しに外出することは許されなかった。わたしの出した手紙は、当然のように叔父に握りつぶされてしまった。しかし妹は今日になって、台所の片隅に打ち捨てられていた手紙を発見した。

 それはほとんど奇跡であった。叔父の目をぬすんで手紙を部屋へ持ち帰り、読んでみて驚いた。妹はすぐさま制服に着替え、学校に用事ができた、と言った。叔父はこれを大いに怪しみ、それなら自分もついて行く、と言った。それでこの計画は失敗に終わった。

 だが、叔父はきっと、抵抗しない気弱な妹に対して油断していたのであろう。妹が学校へ行き、なんとか叔父に不信感を与えぬよう、共に帰宅した後、彼は酒を呑み始めた。どうやら酒に弱いくせして酒が好きなようだった。妹はあえて、制服のままで叔父に甘えてみせ、彼に酒を勧めた。そうすれば、叔父がその歪んだ性癖ゆえに悦ぶと知っていたのだ。もちろん、また犯されるというリスクも孕んでいたが、もうそうするしかなかったのだ。叔父に早く寝てもらわないと、わたしに会えなくなる。

 結果、妹の作戦が功を奏し、叔父は大いに呑み、妹に手を出す気も失ってしまったとみえた。妹は駄目押しに酒を勧め、叔父がすっかり眠ってしまうのを待った。それから一目散に家を抜け出し、駅へやってきたというわけだった。

 妹は全てを話し終わると、また涙を滲ませた。わたしは黙ってラムネを飲み、怒りに震えた。なぜ、わたしたち兄妹ばかりが、こんな目に遭わねばならぬのだ。なぜ、この世はこれほどに理不尽なのか。わたしは神を恨んだ。

 わたしは服の袖を捲りあげ、二の腕の傷痕を見せた。妹が息をのんだのが判った。

「僕もね、ずいぶん酷い目に遭った。叔母さんだよ。彼女は悪魔だった。毎日のように僕を殴りつけて、こんな傷を残したんだ」

「…お兄ちゃんも、だったの?」

 わたしは頷いた。妹はやおらグラスを持ち上げ、こくっとラムネを飲み込んだ。

「ねえ、神様って、いるんだろうか?」

「判らないよ。でも、たとえいたとしても、ちっとも助けてくれないみたいだけど」

 妹はくすりと嘲笑わらった。それからわたしの瞳を真直ぐに覗き込んだ。妹の瞳は、やはり暗かった。眼ばかりが、ちっとも笑っていなかった。

「ねえ、お兄ちゃん、お願いがあるの」

「なんだい?」

「わたしを抱いて。それから、一息に殺して。お願い」

 わたしは呼吸すら忘れてしまった。妹の目から、またも涙がこぼれ始めた。眼は、すでに真赤に充血していた。わたしは何と応じれば良いのか、さっぱり判らなかった。しかし、ただ、ここで弱気になってはならぬということだけは判った。

 妹は続けた。

「そうしてくれたら、私、きっと幸せだったって言えるから」

「もう、強がらなくていい」

 食い気味に、わたしは妹のあとに続けた。

「お前が、死ぬるほどの辱めを受けたのは解る。けどね、もう、ここには僕達だけなんだ。もう、なにも恐れることはない。そうやって、自分の苦痛を、真直ぐに受け止める必要なんてないんだ。解るね?…、ほら、逃げてきなさい。兄ちゃんは、たしかにお前を守ってやれなかったけれど、これからは、きっと」

 わたしが言い終わる前に、妹は立ち上がってわたしの隣に来て、脇腹へ思い切り抱きついてきた。わたしはずっと、妹の頭を撫でていた。

 もう、この子が怖がりませんように。それだけだった。


 その後、事態は思っていたよりも淡々と、良い方向へ向かっていった。そもそも、叔母はわたしの独り立ちをあっさりと認めていた。いい加減、わたしはストレス発散の道具としても不適合となりつつあったのかもしれない。もう、迷惑をかけるんじゃない、そんな捨て台詞を受けて、わたしは独り立ちに成功した。

 叔父は、妹を取り戻そうとした。しかし、妹はわたしが思っていたよりもずっと賢く、有能だった。いつかこうなるのを想定してのことだろうか、実に巧みに、叔父の虐待現場を撮影していた。それをいつでも持ち出せるように、準備してあったのだ。もちろん酷いものだったが、これが叔父と縁を切るために最強の武器となった。

 叔父は、自らすすんで妹を預かった手前、虐待が発覚することを恐れていた。わたしが借りたアパートの一室までやって来て、妹を返せと要求してきた鼻先に、例の映像を突きつけてやった。叔父は態度を一変し、好きなだけ要求を聞くから、それは黙っていてくれと言った。少々のリスクを覚悟しながら、わたしは叔父からある程度の現金を巻き上げ、二度と関わるな、次にわたしたちの前に現れたら容赦しない、と言いつけた。叔父は、こうなってしまえばただの気弱な初老の男であった。わたしの声にビクビクと怯えながら、自宅へ引き揚げていった。

 こうして、ひとまず脅威は去った。あとは、諸々の手続きを済ませてしまうだけであった。妹は、再びわたしと一つ屋根の下に寝起きする家族となり、こちらの町にある高校への転入が認められた。幸い、クラスでも仲良くやれているようであった。

 わたしは妹の為にもせっせと働いた。決して賃金や休日の条件が優れているわけではなかったのだが、妹の献身的な態度もあって、わりに快適な生活を手に入れることができた。

 そうして、二年が経った。わたしは成人の歳を迎え、妹は高校を卒業した。まったく苦労がなかったわけではない。特に、妹がかつての事を思い出し、わたしの傍を離れて眠れなくなったことなどは、わたしの心を痛ませた。きっと、妹はこれから先、まともな恋愛が難しくなるのだろう。

 それでも、わたしたちは懸命に生きてきた。両親の死んだあの日から、兄妹のそれぞれが片割れを救いとしながら、手を取り合って歩いてきた。わたしは、もうその事実だけで、満足してしまうのだった。

 また、桜が咲いた。妹はわたしを助けるために働くことを決め、これからも共に暮らしていくつもりであった。わたしも、その決断を心のどこかで淋しいものだと思いつつも、やはり大部分で喜んでいた。わたしたちにとって、もう他人は信用ならぬものであった。それが親族であっても、である。信じられるのは互いのみであると、身をもって知ったのだ。わたしに残された、唯一の家族。それが、この妹であった。

 四月の第一週目、土曜日、午後八時をまわった頃のことであった。わたしたちは、あの公園にいた。妹を連れ出したのである。時間や状況以外は、そっくりあの時と変わらなかった。思えばここから、悲劇が始まったのだ。

 わたしたちは桜の木を見上げた。月が出ていた。見事な満月で、月明かりの中で桜は色濃く、決してはかなげには見えなかった。花びらが幾枚かわたしのそばへはらはらと落ちた。妹はそれを器用に掌へ受けて、ふっと微笑んでみせた。

「あれから、もうずいぶん経ったんだね」

「ああ、そうだよ。ここから、すべてが始まったんだ」

 生ぬるい風が頬を撫でた。この季節の夜風は、適度に湿気を帯びていて心地が良い。わたしは、木の根元へ歩いていって、そっと幹に触れてみた。樹皮はごつごつと硬く、その年齢を感じさせた。茶色、と形容しても足らない深い味わいの色は、けれどたしかに、あの日と同じであった。

「ねえ、お兄ちゃん」

「なんだい」

「神様って、いるのかな」

 妹はわたしの方へゆっくりと近づいてきて、背後からわたしを抱きしめた。背中に、たしかな温かさを感じる。それは、生きているものからのみ、感じられる精神である。この世界は、理不尽だ。けれど。

「さあ、どうだろうね」

 わたしはそっと後ろを振り返り、妹の背中に腕をまわした。細い肩が、微かに震えているのが判った。きっと、寒いからではない。けれど妹は泣いていなかった。再開した日から、わたしたちは二人とも、もう泣かないと決めた。互いを泣かせはしないと、そう誓った。

「でも、こうやって、また逢えたんだ。神か悪魔か、何の導きかは知らないけれど、それを仕組んだ者がいるというのなら、僕は感謝しなくちゃいけない」

「そうだね」

 妹はわたしを見上げて笑った。とても自然な笑顔で、それはまだ悲劇の起こる前、大人しくて控えめな妹が、わたしの前でだけは隠さず見せてくれた元気な笑顔と変わらぬものだった。すっかり光の消えてしまった眼には、今は再び、希望の光がともっている。

「わたしたちは、家族なんだよね?」

「ああ、そうだ。僕達は、たった二人きり、残された家族なんだよ」

「もう、離れたりしない?」

「大丈夫。何があっても、兄ちゃんが守ってやる」

 今度は、きちんと自信をもって言えた。わたしはまだ、立派な大人とは言い難い有様であるに違いない。しかし、もう無力なばかりの子供とは違う。こうして、大切なものを守れる。

 妹の眼を真直ぐに覗き込むと、彼女は眩しそうに眼を細め、はにかんでそっぽを向いた。僕も微笑んで、いま一度、妹の顔をつぶさに観察してみた。最近は化粧を覚えたらしく、目元や口元が艶っぽく強調されていた。そうやって、妹が女性としての尊厳を保っていることを嬉しく思った。

 桜の木が、花びらをもってわたしたちを祝福しているようだった。わたしたちは月光の下で、永いこと抱き合っていた。失った何かを取り戻すように。


 そして翌年。妹は、わたしを残して呆気なく死んでしまった。それはまるで両親と同じだった。葬儀にはあの叔父も来ていたのだが、わたしは怒ることすらできなかった。わたしは、全ての感情を一度に喪ってしまった。全てだった。妹が、わたしの全てだった。あの叔母に、同情の声すらかけられてしまい、けれどもわたしは、ただ黙っているばかりだった。わたしはまるで廃人であった。

 わたしは全然、空っぽであった。妹の関与しないわたしも確かに在ったはずで、わたしはそれを懸命に思い出そうとしてみたけれど、上手くいかなかった。妹のいない人生を、つまりはまったくの孤独に生きる人生を、わたしは想像できなかった。わたしに与えられた道はただひとつであったように思う。

 また春が来て、わたしはあの桜の木の下にいた。小さな脚立とロープを準備した。それらを然るべき状態にすると、わたしはただ、黙って桜を見上げていた。毎年のように、桜は美しく咲き誇っていた。花弁が一枚、鼻先をかすめて風に舞った。視界が滲んだ。そのわけは、もうわたし自身にも判らなかった。

 一段、一段と静かに脚立をのぼり、乾燥して無機質な輪に首をかけた。深夜の公園に、目撃者などいるはずもなかった。わたしはしばらくそのままで、夜空を仰いだ。月は、すっかり雲に隠れていた。わたしは息をすって、はいた。それすらも空虚な行為に思えた。

『桜よ桜、永らへど、見るもの在らねば、疾く枯れまほし』

 昔、どこかで読んだ一文が、頭にぽっかりと浮かんだ。あまりに唐突なことで、わたしは少し嗤ってしまって、それをもう一度復唱した。

「桜よ桜、永らへど、見るもの在らねば、疾く枯れまほし」

 夜風が花の雲を揺らした。どこか近くで、ラムネの瓶が鳴った。ぱこん、ぶしっ、からん。

 脚立は地面に伏し、わたしの体は宙に浮いた。またたく間に息ができなくなるが、その刹那、わたしは愛しい名前を呼んだ。妹の、たった一人の家族の名を。

咲良さくら

 わたしのちいさな断末魔は、無人の公園にたちこめる静寂へ消え、ただ、桜だけが、その声を聞いた。


 その後、数十年が経ち、誰が始まりか知らないが、その桜の木を『逢い引き桜』と呼ぶようになった。事実を顧みれば、この命名は不吉極まりないものであるうえ、すこし的外れである。しかし、若い者の間で、この桜の木の下で愛を誓えば、それは永遠になる、などという噂がまことしやかにささやかれた。更に数年ののち、殊に、満月の夜がいなどという脚色まで加わることになる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る