青い雨蛙
変わり者の男が独り、山道を往く。彼は村の外れに住み、ひっそりと暮らしていたが、日に一度、村へ出掛けていき、人に会う。これがもう十年も前からの習慣であった。
彼が言うには、
「俺は、一人になると死んで
ということであったので、彼はこの習慣を決して変えなかった。たとえ変わり者だと村人に揶揄され、疎まれても、それは揺るがない。
彼は実際に変わり者であった。日銭を稼ぎ、先人の示す正常に従って生きる村人達には毛頭興味のもてぬ哲学を語る。おまけに相手が白旗を振っても、語ることを止めない。彼が初めて村を訪れてから、一人としてまともに取り合わなくなって了うまで、そう時間は掛からなかった。
良い天気であった。杉の大木に手をかけて身を乗り出せば、村はすぐそこである。どこかで鳶が鳴いた。陽は並んだ水田と藁葺き屋根を等しく照らし、所々を村人が歩く。畦には名前の判らぬ緑の草が揺れ、水面は淡い青を映す。植え込みに紫陽花が眩しく、気の早い家から風鈴が聞こえる。
彼は村人に睨まれながら家の間を歩き歩き、一際大きな家に辿り着いた。ここは村一番の水田を持つ男の家である。男には妻子がおり、今も二人して庭で遊んでいる。妻は大層な美人で有名な女であったから、男はそれを誇っていた。
また、男は村一番の善人であった。それは村じゅうの人が知るところで、皆は大層、この男を慕っていた。もっとも、この村一番の善人をもってしても、彼の相手は務まらなかった。
「おーい、山本さん。出て来ておくれ」
その声に応えたのは、庭にいた二人であった。まだ小さな女の子は鞠を手に母親を見上げる。彼女は露骨に顔を顰め、不承不承、口を開いた。
「哲さん。またですか」
「またとはなんだね。俺はただ、あなたの御主人様とお話がしたいだけなのだがね」
彼女はそれ以上なにも言わず、ゆっくりと家の中へと消えていった。
彼は庭に足を踏み入れた。ここにも紫陽花が咲いている。風鈴は聞こえないが、晴天に似合わぬ蛙の鳴き声がする。足元を這う蟻に何となく目を遣ってから、それをふいと上げると、いつの間にやら傍にいた女の子と目が合った。
「どうも、お嬢さん。母君はお厳しいでしょう?」
女の子は黙ってかぶりを振ったが、見つめる目は変わらず真っ直ぐであった。彼は自分でも気付かぬうちに、少し怯んで了った。
「ああ、そうか。それは良かった」
無理な笑顔を向けると、女の子も少し笑った。二人の間を鮮やかな蝶が横切る。それと同時に、山本夫婦が出て来た。
「主人を連れて参りました」
明らかに不機嫌そうに呟いた彼女は、庭の隅で蝶と遊ぶ娘へ駆け寄った。
「や、哲さん。今日はどうしたんだい?」
山本は機嫌良く声をかけた。これはいつもの事であり、彼が善人と呼ばれる原因の一端である。
「山本さん。今日も少しばかり話させてくれ。村の奴らは皆つまらない者ばかりだ。あなたくらいだよ、私とまともに話してくれるのは」
村人が向ける明らかな嫌悪も、彼にとっては瑣末なことであった。そんなことは一向に問題でなく、彼が、自らを生かすために必要なことをできるか否か。これこそが問題なのである。
山本は苦く笑み、そっと応える。
「そう言うなよ。哲さんは、ちょっと堅すぎるのさ。それに、僕以外とは話せないのに、なんでわざわざ村へやって来るんだい?」
「そりゃ、俺が死んで了うからさ。独りじゃ生きていけないのさ」
彼は即答したが、これを受けて、山本はますます笑みを深めるばかりであった。
「なあに、死にやしないよ。そりゃ、ずっと独りじゃあ、淋しいかもしれんが。一日や二日、誰かと話さなくても、人は死にゃしないよ」
今度は彼が笑った。明らかな嘲笑であった。
「なに、そりゃ本気で言ってるのかい?死んじまうよ。人は、独りだと死んじまうんだよ」
「そんなら、今日から試してみな。安心しろよ。死にゃしないから。もし、哲さんが死んだら、僕は腹を斬って笑って地獄へ落ちてやる」
彼はあくまで嘲笑を続けようとしたが、それが小さな子に言い含めるような口調であったので、段々と腹が立ってきて、とうとう堪えかねて言って了った。
「上等だ、やってやろうじゃないか。
「ああ、約束しよう」
この時ばかりは、山本も投げやりに言った。彼は怒気を纏ったまま足早に去っていく。背後で山本に駆け寄った妻が何やら耳打ちする。山本は目を閉じ、諦めたように頷いた。
彼は家に帰り着くと、戸を乱暴に開け放ち、食事の支度を始めた。内心、独りで過ごすことを恐れてもいたが、意地にかけて村には行くまいと思った。そして山本を地獄へ連れて行くのだと。
それから三日、彼は淡々と独りで過ごした。家事をこなし、小さな畑の世話をして、日が暮れてから眠る。何も変わらなかった。勿論、彼は死ななかった。
三日目の夜、彼は寝つけず、表へ出た。満月が辺りを照らし、彼の足元に影をつくった。どこからか、虫の合唱が聞こえる。また蛙が鳴いていた。畑の作物は凛と背を伸ばし、その傍に、使い古したクワなんかが置いてある。
静かな夜だった。月明かりの中で、彼は自分の人生を想った。夜はまるで鏡のように、彼の精神を研ぎ澄ませ、そこに映し出した。
数分の後、彼は呻き声を上げて
やがて身体を起こしているのも苦しくなり、すっかり倒れ込んで了った。地面に頭が着くと、土と草の匂いが彼をやさしく包み込んだ。少し濡れた地面から、着物に水が染む。
目の前で蛙が跳ねる。珍しい、青い雨蛙だった。月明かりに照らされて青白く、不気味にさえ思えた。蛙は彼の方に向き直り、酷くはっきりと、一声鳴いた。
彼は死んで了った。夜だけが、彼を見つめていた。
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