夕焼けに神を見る (下)

 それからというもの、僕らは頻繁に会うようになった。どちらかと言うと彼女のほうが僕を求めてくれていて、時には僕の通う大学の前まで迎えに来てくれたこともあった。幸い、暇な大学生ゆえ、彼女と一緒にいることについて物理的な問題はなにも無かった。

 僕らは大抵、そこらをふらふらと歩き回り、疲れるとベンチや喫茶店の椅子に座って、なんでもないような話をした。誰も傷つけず、何らの深刻さももたないような、おそらくはかなり幸福な話を。平たく言えば、どうでもいいような話だ。僕も、彼女も変わり者だった。

 例えば、僕らは夕暮れのファミリーレストランで、こんな話をした。

「Kさんは、すぐに散ってしまう花と、 長い間咲き続ける花、どちらがより幸せだと思う?」

「むずかしい質問だね。そうだな、僕は、すぐに散ってしまう方が幸せだと感じる」

「なんで?」

「だって、長いこと存在しているのは、疲れる。実際に僕なんて、すっかりくたびれてしまっている」

「まだ二十代なのに」

「そう。でも君だって、十代で、もう随分くたびれている」

「そうかもしれないね。でも、じゃあ、存在していることは苦痛なの?」

「さて、どうだろう。それを否定してしまうと、命そのものを否定してしまうことになるからね」

「命は、存在なの?」

「そうだよ。僕も君も、そこらを歩いているおじいさんも。そこにいる。根本的に命なんてものは、それだけなんだ」

「でも私たちは、もう少し複雑でしょ?それだとあまりにもつまらないよ」

「そうだね、君は正しい。命には、もう一つの側面がある。それが、思いのほか重要でね」

「もう一つの側面?」

「うん。それは、可能性だ。命は、ただ単純な存在であると同時に、可能性なんだよ」

「よくわからないよ」

「例えば僕は今、こうしてご飯を食べながら、話をしている。食物からエネルギーを得て、君という他の個体と交流している。それは、食物や君に対して、何らかの影響を与えていることに他ならない」

「具体的に?」

「食物はエネルギーに変わり、君は僕の言葉に感化される」

「それが、可能性なの?」

「うん。読んで字のごとく、可能性だよ。僕は自分自身によって、世界に何らかの影響を与えることができる。作用可能なんだ。これは、きっとお化けにはできない」

「そうなの?」

「だって、考えてみてよ。触ることも、話すこともできない彼らは、もう一切の可能性をもたないでしょう。いてもいなくても一緒。そんな哀しい幽霊が、もしかしたらこの世にも沢山いるのかもしれない」

「わかるような、わからないような」

「わからなくても大丈夫。でも、命は存在であり、可能性である。この言葉だけは憶えておいて。意外に、人はこんな単純なことに気づかない。みんな、自分の生活と、とりあえずの人生の実感を満足させるのに必死でね。それは、僕にはひどく哀しいことに思える」

「なんか、全然違う話になっちゃったね。で、元にもどると…」

「僕は長々と咲いている花より、さっと散ってしまうような花が好きだ」

「そうそれ。命が可能性だっていうなら、幽霊が哀しいっていうなら、生きていることはとりあえず美しいことで、死んでしまうのは哀しいことじゃないの?」

「相変わらず飲み込みが早くて驚くよ。その通りだ。実に正しい。だから注意して欲しいのは、それがあくまで僕の意見だということだ」

「Kさんは、死にたいの?」

「死にたかった、のほうが正しいかな。うん、今は君がいるからね。それに、こうしていて、僕は自分の虚無感の正体を突き止めたんだ。僕はどうやら、この基本的な命の構成要素を愛せないらしい。それは、大抵の男が綺麗な女の子に惹かれるように、当然にね。ああ、別に性的マイノリティ云々について言及するつもりはないよ。純粋な例えさ」

「ふぅん。でも、今は死にたがってないなら、なんで早く散ってしまう方がいいの?」

「鋭い指摘だ。人間は、なかなか過去を切り離せないものなんだよ。それは、自らの元になることだからだ。オリジナルの僕は、たしかにどこかに存在した。でも、僕は、それを知り得ない。だって僕は人の子で、当たり前のように様々な外部要因に晒されて生きてきたのだからね」

「また難しいことを言う」

「いや、いいんだ。今のは前置きだよ。大事なのは、人間ってのは連続的な変化を続けることで、少しずつ変わってしまうってことなんだ。それは、人格の檻の変形に他ならない。この檻は非常に強固なものでね、そうそう簡単には変形しない。だから、人間はどうにでもなってしまうわけにはいかない」

「むぅ、もっとわかりやすく」

「そうだね、例えば、虫嫌いの人がいたとして。その人は、遠巻きに昆虫を見ただけでも悲鳴を上げてしまう。さてこの人は、一体どこまで、虫に慣れることができると思う?」

「難しいね。そんなに嫌いなら、せいぜい近づいてみるのが関の山じゃないかな」

「そう、僕もそう思う。いわゆる普通の状態では、この人が人格の檻を捻じ曲げてまで、虫好きになることは考えづらい。その限界を知るためには、何らかの重圧をかけて、その変形を促す必要がある。これによって、人は自らの人格の限界を知る」

「でも、長い時間をかければ変形するんでしょ?」

「そう、細かいところはね。もっとも、これはあまり客観的な意見じゃない。でも、僕はそう信じている。人の根本的な部分は、一生変わらない。…話が逸れたね。とかく、人ってのはどう足掻いても、外部の影響を受けて生きる。そのなかで、僕らは連続的に変化していく、ああ、正確には一部、離散的な所もあるように思うけれど。でも、基本的には連続的。つまり、僕は変化した僕を元に、また変化していく。そうやって生きているから、過去というのは簡単には切り離せないんだよ。突然、全くの別物にはなれない」

「ああ、今のはちょっとわかり易かったかも」

「理解力が高くて助かるよ。さ、眠い話はこれくらいにして、お勉強タイムといこう」

「そっちのほうが眠たいんですけどー」

「期末テストが近いんでしょ?後で泣いても知らないよ?」

「はいはい、わかったわかった。やりますよー」

「じゃ、今日は数学から」

 僕は大学生であることを利用して、家庭教師の真似事をしてみせた。それは彼女のほうが望んだことだったのだけれど、しばらくすると、すっかり僕のほうがこれを気に入っていた。もっとも、彼女は十分に賢く、僕の助けなんて本当は要らなかったのだと思うけれど。でも、こういうスタイルをとることによって、僕らはより自然に会話できるようになった。幸いなことに、彼女はいつだって僕のつまらない『哲学もどき』を、興味津々と聴いてくれた。

 これまた面白いことに、僕は彼女に対して、一切の性的欲求をもたなかった。歳が多少離れているとはいえ、大きくはほとんど変わらぬ若い男女なのだから、そんな色のある話が一つ二つあっても不思議ではないと思うけれど。僕にとって、彼女は友人のようでもあり、また妹のようでもあった。もっとも、僕に妹などおらず、その例えが的確なのかどうかも判らないけれど。なんとなく、妹がいたらこんなふうなのかな、と思ったのだ。

 彼女もまた、僕を兄のように慕ってくれた。こちらはもう少しリアルに、僕のうちに兄の像を見つけていたようだった。何度か間違えて、『お兄ちゃん』と呼ばれたこともある。しかし彼女に兄はいない。少なくとも僕が聞いた話では。人は存外に、イマジネーションを身近に感じられるのかもしれない。

 僕らは、変わり者同士だった。過去に、いや彼女にとっては現在にだが、同じような傷をもち、独特の感性をもっている。哀れな彼女は、それ故にイジメの標的とされたのだろう。そしておそらくは僕も、そうだったのだろう。

 僕らは良い関係を築いた。彼女の両親によからぬ誤解を与えないよう、折をみて挨拶にも行った。彼女の両親は随分と良識的で、静かな人たちだった。なるほど彼女のような娘が育つわけだ。娘が嫌な思いをしているということは知らなかった。僕もそれには触れずに、勉強を教えているということだけを伝えた。

 僕らは潔白で、共依存のような関係を続けた。それはそれは心地よく、僕はまだ生きていたいのかもしれないと思わされたほどだ。これといって問題は無かった。そうして、一年が経った。


「Kさーん。遊びに来たよー」

 彼女は、僕の通う大学に入学した。それも、僕と同じ学部にだ。何度か、本当に行きたいところに行った方がいいと忠告したのだが、彼女は聞かなかった。というか、本当にここに来たいのだという一点張りで、譲らなかった。

「や。どう、大学は?」

「いいね。広いし、思ったより綺麗だし。それに、人との距離が微妙に遠いのが何よりいい」

「そりゃよかった。気に入ってくれて何よりだよ」

 彼女は、僕のいる研究室にやってくるようになった。特に用もなく、ただ遊びに来る。僕は彼女が来るたびに手を止めて、ご飯を食べに行ったり、彼女にコーヒーを飲ませたり、あるいは一緒に帰ったりした。そんな様子を見て、実の妹だと勘違いされたこともあった。顔はそんなに似ていないはずなのだが。

 ただ、いつまで経っても僕の中で彼女は友人であり、妹であった。僕は敬語をやめてからも、彼女をLさんと呼び続けた。彼女もそれに倣った。


 もはや、僕にも彼女にも問題は無かった。彼女は陰鬱な教室での日々から解放され、今は自由に学ぶことを楽しんでいる。僕は彼女に半ば縋ることで、自分の立ち位置を得る。とてもわかりやすい。

 それで、すべて解決されたはずだった。


「Kさん、やっぱりここにいたんだね」

 夕方。僕は独り、防波堤で海を眺めていた。そのまま身を投げてやろうというつもりで。とても綺麗な夕焼けが見えた。僕はしばし、それに見蕩れていた。そうしていると、彼女がやってきたのだ。

「なんでわかったの?」

「むかし、連れてきてくれたよね。私が、やっぱり辛いって泣いてた時に」

「ああ、そんなこともあったね」

 彼女は今でこそ救われているが、僕に出会ってからも、毎日のように向けられた純然たる悪意に苦しんでいた。それは、他者の目からも明らかだった。僕は、時に泣きじゃくる彼女を励まし、必要なら抱きしめてやった。

「うん。連絡もつかないし大学にもいないし。なんとなくKさんが行きそうな場所を考えてたら、ここを思い出して」

 彼女のほうに向き直った。真っ直ぐに、その瞳を見据える。

「死にたいって言ったら、君は笑うかな?」

 彼女は、見事な夕焼けを背負っていた。まるで神様みたいだ、と思う。彼女と共にいて彼女以上に救われていたのは、僕のほうだったのだ。

 彼女は笑った。とても哀しげに。でもひどく自然に。

 しばらく、僕らは話さなかった。どちらも口を噤んだまま、見つめあっていた。ただどちらも、その口元に笑みを浮かべていた。

 やがて彼女が口を開いた。

「やっぱり、人の根本的なところは、一生変わらない?」

「…ああ、そうだね。僕の正体は、つまるところ慢性的な人生への嫌悪だった。僕は当たり前のように、僕がいつぞやに君に説いた命の性質を、愛せない。でも僕は人間だから、そういうわけにはいかないんだ。この矛盾を解消するために、僕はいつでも死にたがっていた。君に縋れば、なにかが解決すると思っていた」

 そこで言葉を切った。彼女の目を見つめたまま。彼女は表情を変えず、じっとそこに立っていた。

「そうじゃない、んだよね。結局のところ、僕はどう足掻いても満たされないんだ。イジメを受けようが受けまいが、守りたい人がいようがいまいが。僕は、そんなことでは生きていけないみたいだ。そう、はじめから出来損なっていたんだよ」

 彼女は、まだなにも言わない。僕はいよいよ半狂乱になって、涙を流しながら訴える。

「ねえ、僕は、どうすればよかったのかな。足りないものなんてなにもないんだよ。でも、僕はいつまで経っても満たされないままで」

 突然、彼女が距離を詰めてきた。僕は怯むことなく棒立ちしていた。次の瞬間、僕の唇は彼女のそれによって塞がれた。彼女は僕の頬を支え、逃がすまいとしているようだった。今度は驚きで体が動かなくなった。彼女はそのまま口を開かせ、ひどく濃厚なキスをした。僕はなされるままだった。ようやく離れた彼女は、なぜか涙を流していた。笑ったまま。

「ああ、Kさんなんて殺してしまいたいよ。ねえ、一つ教えてあげる。一度愛してしまったらね、もうダメなんだ。私は、Kさんに依存してる。Kさんには隠していたけど、ずっと前から異性としても好きだった。私の命の恩人。私はもう、あなたなしでは生きていかれない」

 彼女はそれから僕に抱きつき、ゆっくりと体重を預けてきた。僕は力なくその場に座り込む。当然、彼女もつられて座り込む。

 彼女は膝立ちになって僕を押し倒し、馬乗りになった。コンクリートから、潮と腐った魚の匂いがした。僕はぼんやりとその様を見つめているだけだった。まるで、神様に懺悔する罪人のように。

 彼女は僕の首元に両手を伸ばし、そっと絞めた。ごく弱い力で。少し息苦しい程度で、窒息には程遠い。けれど、そこにはある種の明確な殺意が感じ取れた。

「ねえ、Kさん。私たち、互いに酷いことしてるよね。生きる意味を擦り付けて。そりゃあ、私は去年、気が気でなかったから、そんなに深いことも考えていなかったけれど。でも、そうだよね。私たちは、ひどく歪んでいるんだよ」

 そこまで言ってから、ふと黙った。そして、息苦しそうに俯く。数秒の後、見えた彼女の目からは涙が零れていた。

「でも、それの何がいけないの?私は、Kさんに生きていて欲しい。ずっと私の傍にいて、私を生かして欲しい。私は、Kさんが好き。大好き。だから、暴力的でも、エゴでも、死んで欲しくない。…でもわかってる。きっと、ここでKさんを絞め殺してあげるくらいでないと、私は、あなたの大事な人になれないんだよね」

 彼女は、少し力を込めた。気道が少しだけ狭くなり、僕は心地の良い酸欠状態に陥る。

「そんなに、僕のこと考えてくれてたんだね。うれしいよ」

 僕は掠れた声で言った。

「そうだよ。私は、Kさんのことばっかり考えてた。そうしていれば、生きていける気がしたんだ。でもKさんは、私に寄りかかって生きていけないんだって、どこかでわかってた。私はKさんが好き。その全部が好きなの。だから、誠実でありたいと思う。でも同時に思うの。私に寄りかかってほしいって。ああ、どれだけ考えてきたことか。だから、Kさんなんて殺してしまいたいんだ。私だけのものにして、それ以外は考えないようにしたいんだ」

 彼女は首を絞める手を離し、ゆるゆると僕の上に倒れ込んだ。彼女の柔らかな体温と、はやい鼓動を感じる。僕らは、ここにいる。

 彼女は背中を震わせて泣いていた。声を殺して、静かに。僕はそっと、彼女の背中に腕を回した。波の音が聞こえる。当っては砕け、当っては砕け。

「ねえ、Lさん。僕は、君を傷つけた。でも、そのおかげで、一つだけわかったことがある。僕は、君の涙に勝てない。君に哀しそうな顔をされるくらいなら、生きた方がましだって思えるんだ」

 思えば、ずっとそうだったのかもしれない。彼女の崩れそうな様は、痛々しくて、弱々しくて。僕を生かしたのは、その涙だったのかもしれない。

「だから、僕は、生きている限り、君を傷つけ続けるだろう。…どう?やっぱり絞め殺したくなったんじゃない?」

 彼女は半身を起こし、こちらを見た。泣いていたけれど、笑っていた。僕らは感情がバカになってしまったみたいだ。

「大丈夫、私もね、あなたが死ぬくらいなら、泣いた方がましだって思えるの。大丈夫、あなたが生きるためなら、なんだってする。必要なら、絞め殺されたって構わない」

「僕もだ」

 僕は起き上がり、彼女と至近距離で向かい合った。ちょうど、彼女が僕の膝に乗るような体勢。僕は後頭部をそっと支え、今度は自分からキスをした。ひどくしょっぱかった。

 夕陽は、もうすぐ沈もうとしていた。僕は唇を離して、ぎゅっと抱きしめた。彼女が耳元で囁く。


「大丈夫。私もあなたも、ここにいる」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る