夕焼けに神を見る (上)

『死にたいと言ったら、君は笑うかな?』


 しずかな海辺に、そんな言葉が響いた。いやに明瞭に。夕焼けを背に、彼女は確かに笑っていた。とても哀しげに。けれど、僕がこれまでに見てきたどれよりも、自然に。


 彼女と出会ったのは、多くの高校生達が通学路にしている大通りだった。その歩道、街路樹が影を落とすアスファルトの上を歩いていた。よく晴れた日で、季節は秋だった。

 昼下がり、歩道を歩いているのは高校生以上の年齢層で、学生と言えば僕を含めた暇な大学生くらいだった。

 そんななか、制服を身にまとった少女が独り道端に座り込んでいた。明らかにワケありといった具合に、俯いている。ここからでは、その表情が判らない。

 普段なら、特に気にせず通り過ぎているところだった。別に、興味も無い。僕だって彼女だって人間なんだ。道端に座り込んでいたい日だってあるだろう。そう思う。

 けれど、その時の彼女はあまりにも弱々しくて、とても放っておけなかった。それに、もし体調でも崩して立ち上がれなくなっているのなら、尚更見捨てられない。僕は仕方なく彼女の前で立ち止まり、その長くて艶々した黒髪に覆われた頭を見下ろした。

 僕の気配に気づいたのか、彼女は顔を上げてこちらを見た。その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。人のことを言えた立場ではないが、地味な顔立ちをしていた。本当に、絵に描いた文学少女、といった感じに。彼女はなにも言わなかったので、僕のほうから声をかけた。

「どうしたんですか?体調でも悪いのですか?」

 彼女は黙って首を振った。表情は暗いまま、目も虚ろだった。僕は困ってしまった。自分から声をかけておきながら、どう対処したらよいのか、さっぱり見当がつかないのだった。

「別に、そういうわけではないのです。ただ、少し悲しいことがありまして」

 僕が黙っていると、彼女が助け舟を出すように口を開いた。助けを必要としているのは、明らかに彼女のほうだったのに。僕は少し可笑しくなってしまって、口元を弛めた。それで、ようやく僕も平静を取り戻した。

「そうですか。でも、こんな所に座っていては、人の邪魔になってしまうかもしれません。それに目も虚ろで、心配です。場所を変えましょう。時間があれば、話を聞きたいのです。赤の他人の僕なら、多少は気兼ねなく話せるのではないでしょうか?」

 僕は手を差し出した。彼女は恐る恐るといった感じにそれをつかんだ。軽く引っ張りあげてやると、すんなりと立ち上がった。体重の問題だろうか、まるで重さを感じなかった。その手も、小さくて弱々しい。

「ありがとうございます。でも、大丈夫です」

 その返答は正常なものと言える。僕が反対の立場でも、そう言ったかもしれない。見ず知らずの男に打ち明けられるような悩みなど、そうそうないだろう。しかし僕は引き下がらなかった。どうせ、やることもなくて暇を持て余していたのだ。

「まあ、そう言わずに。飲み物くらいなら奢りますよ?」

 彼女はしばらくの間黙り込んでいたが、諦めたのか、それとも警戒を解いてくれたのか、微かに頷いた。僕はそれを承諾とみなし、背を向けて歩き出した。彼女は黙って後についてきた。

 そこらにあった喫茶店に入り、コーヒーを二杯注文した。再び店員が現れるまで、彼女はじっと、僕の顔を見つめていた。

「なにか、ついてます?」

 自分の顔を指しながら言ってみる。おそらく見当外れのことを言っているのだという自覚はあった。

 彼女は待っていたかのように首を振って否定した。

「いえ、そういうわけでは。…ただ、変わった方だなあって」

「気にしないでください。よく言われます」

 なにかツボに入るところがあったのか、ようやく比較的自然な笑みを見せた。口角を持ち上げ、軽く目を細めて。先程までは、まるで余命数ヶ月の病人にしか見えなかったのだが、こうして笑うと、年相応の少女に見えるのだった。

「やっと笑ってくれましたね。どうですか、少しは落ち着きました?」

「ええ、おかげさまで」

 僕も軽く笑ってみせる。大切なことだ。笑顔はある意味で、言語以上に人と人を通じ合わせる。会話の基本と言ってもいい。彼女はコーヒーを一口含み、少し俯いた。

「すこし、くだらない話を聞いて頂けますか?」

「もちろん、僕でよければ」

 彼女が語ったのは、およそこのようなことだった。

 彼女は、その制服からも判るように高校生であり、今年で十八になるそうだ。そして肝心の悩み事というのは、ありきたりなイジメの話だった。理由も、おそらくは地味で無口な子を、ただ無造作に標的にしただけという、なんとも幼稚でありがちなことであった。

 救いがあるとするならば、せいぜい無視されたり、陰口をたたかれることくらいで、肉体的な被害が無いことだった。

 彼女は、耐え続けた。それは、彼女自身の強さに依るところもあった。しかしそれ以上に、彼女は孤立無援ではなかったのだ。彼女には友達がいた。その子もまた、彼女と同じように静かな子で、一年生の頃からの付き合いだったらしい。イジメを受け始めてからも、その子だけは彼女に寄り添ってくれた。

 しかし、それは全て嘘だった。その子は、彼女と仲の良いフリをしつつ、実は彼女についての根も葉もない噂を、クラス中に吹き込んでいたのであった。

 彼女はひどく傷つき、その子に問うた。なぜ、こんなことをするのかと。

 その子は答えた。別に、嫌いになったわけじゃない。でも、一緒になっていじめられるのはイヤ、と。

「わかりやすい、くだらない話でしょう?私も、そう思います。どこにでもあるような、くだらない話」

 僕はしばらく黙り込み、かけるべき言葉をあれこれと考えていた。一分ほどそうしたあと、ようやく口を開く。

「確かに、ありきたりな話だ。本当に、どこにでもある。現に、僕は高校時代に同じ目に遭った」

 彼女が目を見開いた。決して、気を引くための嘘ではない。僕は高校時代、本当にイジメに遭った。それも、彼女が今体験しているのと同じようなものに。僕はコーヒーを啜った。苦かった。

「だからね、あなたの気持ちは痛いほどよくわかります。僕も毎日が苦痛で、本当に学校を辞めてやろうかと思ったこともありました。ええ、そうですね、今でも覚えていますよ。確かに、やられていることを一つずつ挙げていけば、大したことではないのです。でも、『明らかに嫌われている』という感覚は、なかなか耐えがたいですよね」

 彼女は黙ったまま、こくこくと頷いた。僕は続ける。

「そのうち、実は自分が悪いんじゃないか、なんて思い始めるんですよ。ズレているのは自分で、まるで、自分が化け物にでもなったかのような気がしてくる」

「それ、わかります。私もそう思うようになりました」

「ええ、正常な心理ですよ。毎日毎日、純粋な悪意をぶつけられていれば、誰だってそうなってしまいます。それがどんなに不快なことか、僕は知っています。だから、あなたに安っぽい同情を向けたくはありません。逃げてください。もし、本当に苦しくなったら、早く逃げてください。それで、いいんですよ」

 制服の袖を捲って見せる。古い傷跡が、いくらか残っている。

「こんなことも試してみました。…ええ、痛いだけなのにね。なんだか、救われた気分です。あなたに話を聞いてもらえて、本当に良かった」

 僕はニュアンスに気をつけて笑ってみせる。彼女は涙を目に溜めて、僕をじっと見た。

「誰にも言えなくて、もう、どうしようもなくて。さっき、あなたが言ってくれた通りです。私がおかしいのかな。そう思い始めたのがダメでした。私は、本当にここに居るのかって思っちゃって。それで、それで…」

 言葉に詰まった彼女は、直視できないほど痛ましい悲しみを満面に湛えた。涙が零れ始めたのと同時に、テーブルに突っ伏す。僕は上着を脱いで、頭の上からそっと掛けた。

「好きなだけ泣いていいですよ。大丈夫、僕は、あなたを否定しません。僕もあなたも、ちゃんとここにいます」

 ここからでは、詳細な様子を知ることはできないが、そんなことをする必要も無い。彼女は明らかに泣いていた。声を殺して、静かに。

 そうして、十分ほどが経った。少し湿ってくぐもった声が、上着の端から聞こえてきた。

「ごめんなさい。取り乱してしまいました」

「気にしないでください。…落ち着きましたか?」

 彼女は上着を少しずらし、顔を覗かせた。その目は赤く、明らかに涙のあとを残していた。

「…、もう、大丈夫です」

「そうですか」

 僕は上着を受け取り、再び身に着けた。彼女は礼を述べると、今度こそは震えていない声で言う。

「どうも、ありがとうございました。…あの、お名前を訊いてもいいですか」

「もちろん。僕は、Kといいます。あなたは?」

「私は、L。Lといいます」

 僕はLさんに向かって手を差し出した。彼女は恐る恐るその手を取った。ついさっきも見たような気がする。

 店を出て、僕らはしばらくぶらぶらと歩いた。これと言って目的は無い。彼女も僕も、ただの偶然によって、そこにいるだけなのだった。あてもなくさまようことは、意外に心地よかった。どちらも、あまり話さなかった。海辺の道に差しかかった時、彼女は唐突に足を止めて尋ねた。

「あの、ところで、なんで私に声を掛けてくれたんですか?」

 僕はすこし考え、答える。

「それはね、僕も、座り込んでしまいたかったからです」

 彼女の体調が心配だったとかいうのは、しょせん言い訳に過ぎない。本当のところを言えば、座り込む彼女のうちに、今の僕自身を見たからなのだ。

「僕はね、さっきも言った通り、あまり人に好かれないんですよ。おかげで恋人はおろか、友達さえ、それらしいのが見当たらない。僕は独りなんです」

 彼女は黙って頷いた。

「でね、問題は、それ自体ではないのです。僕が、自分の生きる何らの理由も見つけられないことなのです。つまりね、僕は生きているけれど、たしかに、それはもう生きているけれど、でも、死んでいるのと同じことなのです」

 彼女は明らかに顔を顰めた。よくわからない、という表情。予想通りの反応に、少し笑ってしまう。

「えーと、まあ、口で言ってもよくわからないと思います。それは当たり前のことです。とにかく、わかりやすく言うと、僕はもう、これ以上生きていたくないのです」

 ようやく納得したように頷く。僕はそれを横目で見て、目を閉じた。風が緩やかに吹いている。果たして僕は、どうしてこんなふうになってしまったのか。何度も考えてきたことだけれど、その答えは得られない。結局のところ、現実的な苦痛があろうがなかろうが、僕はいつまでも死にたがっている。

「なら、自殺しようとしてるんですか?」

「本当は、そうするべきなんだと思います。けれど、僕は意気地無しだから、そうもいかないのです。何度もそれを考えはしましたが、結局死ねずじまいです。…こんな奴が、悩んでる人にあれこれ言うのも可笑しな話ですね」

「そんなことないです。Kさんみたいな人だからこそ、私みたいな人間に勇気を与えられるんだと思います。少なくとも、私は、あなたに出会えて良かった」

 彼女の目は真剣だった。その言葉に、心臓が揺れるのを感じる。

「では、あなたのために生きていてもいいですか?」

 無意識に零れ出た言葉だった。気がつくと、僕は涙を零していた。そんなつもりは全く無かったのに、心と体がすっかり離れてしまったみたいに、それらの反応は自動的に起こった。今日出会ったばかりの少女に何を、と、自分でも思う。しかし、放った言葉は取り返せない。

 彼女はしばらく黙っていた。驚いたふうでもなく、ただひたすらに、なにかを考えているようだった。やっと正常に機能し始めた体が、その失態を取り繕おうとした時、彼女が口を開いた。

「私でよければ、あなたの力になりたいです」

 その目は真っ直ぐで、僕は余計に悲しくなる。

「…ダメです。あなたは、まだ高校生だ。こんなつまらない人間に、時間を費やすべきではない」

「じゃあ、私の力になってください。生きる理由が無いのなら、私のために生きてください」

 僕は絶句した。彼女が、ここまで食い下がるとは思っていなかった。完全に自分の失態だが、これは想定外の事態だった。

 数十秒の後、僕は苦く笑んで彼女の目を見つめた。

「じゃあ、そうします。これからは、あなたを支えるために生きます。たとえ、それがどれほど暴力的なことだったとしても」

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