肉体なるもの
雨か雪、あるいは霧。
男は、鉄塔の上にいた。じっと立っているだけでも足が竦んでしまうような場所。風は弱いが、確実に彼の背中を押した。
しかし彼は、なんらの恐怖を感じない。彼は望んでそこにいた。
「死ぬべきは、俺なんだよ」
独り呟く。内に反発する声を聞いた。それは幻聴でも、もちろん彼の妄想でもない。彼には、本物の声が聞こえる。もう一人の声が。
「まあ、お前はそう言うだろうな。でもな、もう無理なのさ。俺はお前を救ってやれない。これ以上は、虚しいだけだ」
内なる声は更に激しくなる。彼はそれを無視して、そっと目を閉じた。
物心ついた時から、彼らは一つだった。問題はなかった。彼らは、とてもうまくやっていた。
ただひとつの問題点は、肉体の主導権を握る彼自身に、生きる気力が無いことだった。彼はいつでも死にたがっていた。
対して、もう一人は全然、生きる意志をもっていた。肉体の主導権を握りたいとさえ考えていた。しかし、それは叶わなかった。
一瞬、強い風が吹いて、彼の身体が加速される。風をきって落下する。目を閉じたまま、どこまでも。
衝撃も、痛みも、やってこなかった。ただ、次に目覚めた時、彼は独りだった。
清潔なベッドの上で身を起こし、彼はぼんやりと辺りを見回した。腕も脚も、思い通りに動かせた。それは、彼が心から望んだ状況だった。
一年が過ぎ、三年が過ぎた。彼は鉄塔の上にいた。風がごく弱く吹いている。
「お前の言っていたことがようやく解ったよ」
独り呟いた。それは、或いは本当に独り言だったのかもしれない。
「なあ、俺達は、本当に二人だったのかな?」
数秒の後、地面に乾いた音が響いた。
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