第226話 女の涙
「ただいまー。」
「ただいま戻りました。」
牡丹と共に家に帰って来たのは夕方6時を過ぎた頃だった。あと少しで6月になろうとしているだけあってまだ陽が出ている。俺は春、夏が好きじゃないから早く秋になって欲しい。
「お帰りなさいっ!!」
「お、おう?」
いつも通り美波が出迎えてくれるが、何だろう?いつもより美波が力強いような気がする。
「お帰りなさい!」
美波より少し遅れてアリスが来る。安定の光景だ。この光景が俺の癒しだよ。
「お帰りなさい、遅かったですね。」
「え?」
美波とアリスの背後から楓さんが現れる。え?なんで?日曜日だよね?
「楓さん?何でいるんですか?」
「水曜日まではいますよ?だって明日はアリスちゃんの書類の回収、明後日には転入手続きをしないといけません。私がいないと面倒な事になりますよ?」
「来てくれるんですか?」
「当然です。」
「…正直ちょっと不安だったんですよ。俺が通ってた小山小学校ってあんま良い思い出無いから1人で行くのがなーって。」
「……。」
ーー美波だけはその言葉の真の意味を理解する。
「だから楓さんが来てくれるのなら心強いです。」
「ウフフ、大丈夫ですよ。どちらにしても来週からこっちに引っ越しますから。今週末に引き継ぎ完了です。来週から茨城支社に配属です。」
「初耳なんですけど!?嬉しいですけどね!?」
…楓さん優しいなぁ。ダメープルなくせにこういう事をしれっとするからヤバいんだよなぁ。
「タロウさんっ!!私も行きますっ!!」
「えっ?」
やっぱりいつになく美波が力強いぞ。何かが乗り移ってんじゃないか?
「私も明日ついて行きますっ!!明後日もっ!!」
「いや、美波は大学じゃん。」
「そんなのどうでもいいです。」
「どうでも良くないよね!?」
なんなんだ今日の美波は。いつもより暴走してるぞ。一体何があったんだ。またダメープルがなんかしたんじゃないだろうな。
「なあ美波。単位が足りなくなったりしたら困る事になるぞ?それにテストの時にも困る事になる。」
「単位は足りてます。ノートは夕美ちゃんに見せてもらいます。」
「いや…でもさーー」
「とにかく行きますっ!!絶対ですっ!!」
「あ、はい。」
あかん、なんか知らないけど今日の美波には勝てないわ。まあ、足りてるならいいか。
「じゃあタロウさん、明日の打ち合わせをしましょうか。一杯やりながら。ウフフ。」
「どさくさに紛れてなに禁酒令破ろうとしてんですか。ダメですよ。禁酒です。」
「そ、そんなぁ…!せっかくおつまみセット買って来たのに…!!」
やっぱりダメープルだな。てか何やってんのこの人。全然反省してないじゃん。
「はいはい。着替えてリビングで打ち合わせしましょう。」
俺と牡丹は美波が用意してくれた部屋着に着替えて家の中に入る。潔癖の俺は家に入る時は着替えないと絶対嫌なのだ。そんな面倒臭い俺にみんなは何も言わずに従ってくれる。本当に良い子たちだ。
だがキッチンへと向かった時に事件が起こる。
「ぐはっ…!!」
ご機嫌の牡丹がどら焼きの箱を開けたと同時に膝から崩れ落ちる。
「どら焼きが…どら焼きが…」
「どうしたの牡丹ちゃん?」
ーー美波とアリスが『どうしたのじゃねぇよ。』みたいな目を楓に向けている。
「今朝見た時は10個以上あったのに…」
「このどら焼き美味しいわよね。つい全部食べちゃったわ。ウフフ。」
「流石は我が好敵手である楓さん…迂闊でした…ふふふ…」
…絶対こうなると思ってたよ。
俺はキッチンにある戸棚から箱を取り出し牡丹へ手渡す。
「はいよ牡丹。」
「…はい?なんでしょ…!!!こっ、これは!?ドラ吉のどら焼きの包み紙!?」
「一昨日買っておいたんだよ。絶対こうなると思って。」
ーー安定の有能っぷりを見せつける慎太郎。
「あ、ありがとうございます…!!嬉しいです!!」
目をキラキラさせやがって。みんながいなかったら押し倒してるぞ。
「あ!まだあるんですね!私も食べたいです!」
食べたいじゃねぇよ。自重しろよダメープル。
「…楓さんは甘いの食べるのも少し禁止です。」
「そ、そんなぁ…!?酷すぎますっ!!訴えます!!」
「何言ってんですか。食べ過ぎですよ。ものには限度ってもんがあるんです。」
ホント何言ってんだこのダメープルは。よくそんなに食ってその細さを維持出来るよな。
「アレもダメ、コレもダメって制限ばっかりじゃないですか!!私は子供じゃないんですよ!?」
「大きい子供じゃないですか。」
「な、なんですって!?」
ーー慎太郎の言い振りに楓は怒りを露わにする。
「訂正して下さい!!」
「事実じゃないですか。」
ーー慎太郎も引かない。別に間違った事は言ってないと思っているからだ。こういう時の慎太郎は強い。
「タロウさん、楓さん、落ち着いて下さい…!」
ーー険悪な雰囲気が出て来たので流石に牡丹が止めに入る。
「俺は落ち着いてるよ。落ち着いて無いのは楓さんだ。そんなに糖分ばかり摂ってたら糖尿病にだってなるし、心臓にも負担が出るんだ。いくらなんでも限度がある。大人なら考えないといけない。行動があまりにも子供すぎる。」
「あ!また子供って言った!!」
ーー2人に険悪な雰囲気が醸し出る。
「謝って下さい!!」
「嫌です。」
「謝って!!」
「嫌ですって。間違った事は言ってません。反省して下さい。」
ーー慎太郎の目がダメな人を見る目に変わる。慎太郎は絶対に自分の意見を曲げるつもりはない。謝る事も、甘い物を食べさせる事もするつもりは無い。断固たる決意を持っていた。
ーーだがここで慎太郎に予想外の事が起こる。
「えっ!?」
ーー楓の頬を涙が伝う。
「うっ…ぐすっ…謝って下さい…」
ーー楓が嗚咽を漏らしながら慎太郎に謝罪を求める。
「ちょ、ちょっと…!!なんで泣いてるんですか…!?泣かないで下さいよ…」
ーー慎太郎は慌てふためく。もはや慎太郎に断固たる決意などは無くなった。どうすればいいのかわからなくなっていた。安定のヘタレである。
「だって…酷いことを言ってイジメるから…」
「イジメてなんかいませんって…!!俺は楓さんの身体を心配してですね…」
「謝って…!!」
「ごめんなさい。すみませんでした。泣かないで下さい。」
ーー慎太郎は簡単に意見を変える情け無い男である。
「どら焼き…食べてもいいですか…?」
「だ、ダメですよ!?話聞いてました!?」
「ううっ…ひっく…」
「な、泣かないで下さいよぉ…わかりましたよ…食べていいですよ…」
「…お酒。」
「はい?」
「お酒も飲みたい…禁酒を取り消して下さい…」
「それとこれとは話が別ですよね!?」
「うっ…うぅ…えっぐ…」
「な、泣かないで下さいよぉ…あーもう…わかりましたよ…飲んでいいですよ…だから泣かないで?お願いします…」
「ひっく…泣き止んだら撤回するんだ…」
「しませんよ…どんな事があっても撤回しません。だから泣かないで下さい。」
「わーい!やったー!!」
「えっ?」
ーー楓がコロっと豹変して喜ぶ様を見て慎太郎はあっけに取られる。
「わかったかしら、美波ちゃん、アリスちゃん。女の武器はここぞという時に使うのよ。」
ーー慎太郎は美波とアリスを見る。すると2人がちょっと気まずそうに慎太郎から視線を逸らす。
「ごめんなさいタロウさん。実は私と美波さんはこの芝居を知っていたんです。」
「すみません。でも楓さんがお願いするので断れなくて…」
ーーそんな馬鹿な、と思う慎太郎だが、良く考えたら2人が止めに入らないのはおかしいよな、と今になって気付いた。
「さてと、頂きまーす!うーん♪このどら焼き本当に美味しいわね。あ!あとお酒の準備しないと。」
ーーどら焼きを食べながら冷蔵庫からビールとおつまみセットを出す楓を見て慎太郎が待ったをかける。
「ず、ズルいですよ!?反則です!!無効!!」
ーー喚く慎太郎を見て楓が勝ち誇った顔でポケットから何かを取り出し、そのスイッチを押す。
ーーカチッ
『な、泣かないで下さいよぉ…あーもう…わかりましたよ…飲んでいいですよ…だから泣かないで?お願いします…』
『ひっく…泣き止んだら撤回するんだ…』
『しませんよ…どんな事があっても撤回しません。だから泣かないで下さい。』
ーーカチッ
ーー更に勝ち誇った顔で楓はボイスレコーダーのスイッチを押して再生を停止する。
「飲んでいいですよね?」
「…はい。」
ーーご機嫌でビールの缶を開ける楓。それとは対照的に悔しそうな顔を浮かべながら慎太郎は
『絶対にいつかお仕置きしてやる。』
そう心に誓ったのであった。
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