第36話 駆け巡る機体と想い
ニールは意識にさえ留めなかったが、ハルは強烈なGに堪えながらも無線の声を聞き流せなかった。
クリスの言葉は確かに世迷い言のようでも、現にニールがどうやって機体を制御しているのかわからない。
空力学でも航空学でもホワイトピジョンの軌道は異様で、その飛んでいる様はまるで、風でも操っているかのようにさえ見えた。
防戦一方のクリスにとって最早活路はたった一つしかなく、またオリーブの巨木に沿って急降下するしかなかった。
枝の間へ逃げていったカラスエムブレムを追ってニールも下降する。
速度の乗るホワイトピジョンでは逆に狭い場所は飛びづらい。
さらにニールが怒りに任せて攻撃するので、流れ弾が枝に当たって避けざるを得なかった。
そうして距離を作ることができたクリスが最後の攻防を仕掛けた。
急上昇して、機体の限界高度まで上がったクリスは失速させて機首を真下へ向ける。
低空から向かってくるホワイトピジョンへ狙いを定めて、フルスロットルで急降下させた。
ニールもカラスエムブレムへ向けてスロットル全開で急上昇させた。
状況としては、真上を狙わなければならず不利だというのに、ニールは怒りのままに勝負を買っていた。
ニールにはもう勝負を降りて安全策を採る考えなどなかったのである。
急降下と急上昇によるヘッドオン。
二機が縦軸にすれちがう瞬間に勝負が決まる。
いつか嵐の中ヘッドオンで勝負を決めたように、その時の仕切り直しをするように、真っ正面からアプローチしていく。
どちらもこの攻防で最後にするつもりなのか、後のことを全く省みない操縦で近づいていた。
エンジンに負担が掛かることも、オーバーロードの可能性も省みずに加速していたのだ。
両者の考えにあるのはただ一つ。
相手よりも速く飛んで、反応されるよりも速く撃つ。
射程距離内に入ったと悟られないうちに撃ち抜くということ。
射程距離内へ入った瞬間にどちら先に撃てるかという、早撃ちの対決となっていた。
速い者がこの勝負に勝つ。
機体の速度、照準の速さ、動体視力で捕捉する速さの3つが戦いを左右する。
ニールにとって機体性能と動体視力の自信はあったが、射撃の腕でクリスに勝つ自信は弱かった。
さらにニールは真上へ向けて狙わなければならないので不利な状況だった。
不利な状況に打ち勝つためにニールが考えることは一つ。
クリスの不意を突いてやることだった。
そのために今の今まで残しておいた切り札――。
「アフターバーナーを使う!」
二機が射程距離内へ入る直前、ニールが燃料噴射口を変化させる操作をする。
ノズルを細めてジェット出力を高めているが、ノズルの口だけを開いて、炎を噴き出し始めたのだ。
「うおおおおおああああああ!」
ニールが咆哮を上げながらスロットルを握り締めた。
その瞬間は何も考えずにただ必死で、ホワイトピジョンの加速Gに身を任せていた。
アフターバーナーが推力として正しく発揮するかどうか、エンジンにどんな負担があって、ダメージがあるのか、ニールには定かでない。
いつかハルに禁じられてさえいたが、目の前の勝負に賭けていたニールは引けなかったのだ。
それでも切り札は確かに発揮していて、更なる加速力を生み出していた。
ホワイトピジョンはカラスエムブレムの急降下速度も越え、自機の最高速度も越え、クリスの反応速度も越えた。
クリスの意表を突き、引き金を引かれるよりも早くニールの動体視力が敵を捉え、親指の引き金を押し潰して機首40ミリ機関砲を食らわせていたのだ。
殺った、殺られた――。
両者が同時に確信する。
二人が足元で擦れ違う瞬間にこの苛烈な戦いの顛末を知り、それぞれが違う感情で交差した。
墜ちる。
撃たれた機体は翼を飛散させながら墜ちる。
急降下をしたまま落下しているので風圧でも破損箇所から飛び散っていく。
割れたキャノピーの破片はパイロットの体に突き刺さり、エンジンからの火で燃えるだろう。
ニールの目からもそれはわかった。
地上へと落ちていく機体に振り向いて見ても、パイロットが助からないのは察していた。
それでも機体の残骸から、黒い人影が脱出して白いパラシュートを開いた。
やはりパイロットは一流のようで、脱出する技術さえ卓越していたようだ。
落下傘で降下していく敵を見て、ニールはとどめを刺すべく軌道を変えた。
相手は丸腰だったヒロを容赦なく殺した憎き敵だ。
復讐のためにはこのまま黙って見過ごすことなどできず、ニールは怒りを抱えながら照準を合わせた。
後部座席のハルが尋ねた。
「殺すの?」
「罪もないのに、攻撃だってしてないのにヒロを撃ったんだ。仇を討ってヒロの無念を晴らす」
ハルは何も言わずに唇を噛み締めた。
ハルもヒロを失って悲しんでいるし、怒っている、ニールはそう思い込んで構える。
直接撃っても、パラシュートを撃ってもいい。
ただそれだけでヒロの仇を撃つことができる。
怒りで満たされている自分にとって何の抵抗もないようにニールは思えた。
しかし、いざ撃とうとした瞬間、引き金に掛けた親指は固まってしまったかのように全く動かなくなってしまった。
怒りだって憎悪だってあるのに、たった親指を動かすだけの行為ができなかったのだ。
それどころか敵パイロットのことが脳裏に浮かんできた。
自分を殺さなければならなかったのに忠告してくれたこと。
オリーブ、神の試練とやらに自分を買ってくれたこと。
撃とうとしているのが血の繋がった兄だということ。
五人兄弟を救うために生きていて、一緒に暮らすのが密かな夢だったこと。
幼い頃、奴隷商人に売られそうになった時、クリスに助けられたということ。
ニールにとってクリスは唯一の兄であって、優しかった時のことも強く覚えている、かけがえのない人だった。
躊躇っているうちに、撃たんパイロットが目の前から過ぎようとしていた。
とどめを刺すには今しかない。
逃せば自分の手で仇を討てなくなり、それどころか逃げられる可能性さえある。
確実に復讐を果たすのなら今ここで撃つしかない。
だというのに、ニールは今殺そうとしているパイロットの顔をはっきりと見てしまった。
流血で汚れ、意識があるかさえ定かでない、実の兄の顔を見てしまったのだ。
そして遂にニールは、引き金を引けずに通りすぎてしまったのだ。
ヒロを殺されて憤っているのに、葛藤はそれさえ眩ませてしまったのである。
「くそ……ヒロすまない。俺はお前の仇を撃ってやれない……腹が立つし憎いけど、それでも俺の兄弟なんだ……」
ニールは操縦桿を震える手で握り締めていた。
視界前方をはっきりと見ることができなくなり、肩を静かに震わせる。
ハルが後部座席からそれを見ていて眉を寄せている。
何かを言おうとしていて、ニールの肩へ手も伸ばすが止めてしまう。
ニールが複雑な悲しみに泣いているのを静かに眺めていた。
クリスを追って、ホワイトピジョンを着水させて、巨木の根元へ下りた。
パラシュートが落ちた場所へ急ぐと、クリスはオリーブの巨大な根に座り込んでいた。
足を引きずったのか血がクリスへ伸びていて、辺りも赤い。
髪も服装も黒いのが相まって、クリスが座り込む姿が黒ずんで見えた。
「兄さん!」
満身創痍の兄を見て、ニールは駆け寄り抱きかかえた。
「ニール、まだ私を兄と呼んでくれるのか」
「あんたはヒロの仇だし、仲間を殺したのは許すことはできない。でも、どんなに憎くたって俺の兄さんはたった一人しかいないんだ」
「いつまでも経っても愚かな弟だ。所詮私は自分の望みを一方的に押し付けただけだというのに。しかしなニール、私はお前が神に認められ始めて、本当によかったと思っている。なにせ、私の兄弟なのだからな」
「あんたは……この期に及んで俺のことを……」
ニールはクリスを強く抱き締める。
その感覚でクリスがもう長くないことを悟った。
「兄さんはずっと俺のことを考えてくれてたんだ。奴隷商人から逃がしてくれた時だって、俺を殺さなきゃいけなかった時だって、試練を受けなきゃいけない時だって、全部俺のためだったんだ。それを今更知るなんて……」
ニールは堪えることなく涙した。
弱々しく惨めな姿でも躊躇うことなく兄を抱えて、胸の中で泣き崩れる。
「ニール、これからも神からの試練が訪れるだろう。私の他にもお前を阻もうとする者はいる。しかしどんな試練でも撃ち勝て。苦しいかもしれないが、私も向こうで見守っている。そうすればきっとニールの望みも叶えられるだろう……」
クリスは息も絶え絶えにゆっくりと話すと、それを遺言にしてふっと意識を失った。
手からクリスの腕が溢れ落ちてしまうと、ニールは奥歯を噛み締める。
唇も一緒に噛み締めて、心が溢れる感情で傷むのを堪えた。
「馬鹿野郎……兄さんが死んじまったら、俺の望みなんて叶わないじゃないか……」
もう息もなくなったクリスを見て、ニールもハルも悲しんでいた。
この結末しか有り得なかったのだろうか、絶対に戦わなければいけなかったのだろうか、もっと誰もが救われる結末にはできなかったのだろうか、後悔してももう変えることはできない。
兄は死んだ。
ヒロも巻き込まれた。
その現実を受け入れようとしてもすぐには受け入れられず、二人はただ泣いているしかなかった。
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