第15話 カルアミルクとチルナノグの人々
図書館を後にしても、ニールはまだハルの整備場へ帰るのを躊躇っていた。
兄弟を探す旅に出られない鬱憤と、ハルの元へ帰ることへの葛藤がニールを酒場に向かわせていた。
気を鎮めるためにもヒロに会ってきたというのにまだ誰かと話したい気分だった。
「いらっしゃい。あらニール、久しぶりだねえ。いつものでいいかい?」
馴染みの店「オカジマ」へ入ると、ミストレスが席に着くのを待たずして聞いた。
ニールは足の高いイスに座りながら答える。
「いつもの? なに飲んでたっけ?」
「なにって、ミルクだろう? 身長気にしてよく飲んでたじゃないか」
言うなり側で聞いていたカウンター客が噴き出した。
「恐れ入ったぜマダム。ミルクの注文も聞けるとはよ」
「ミルク飲んでる割にはあんまり変わってねえぜ」
店が笑いに湧く。
ミストレスさえも笑っていたが、馬鹿にされたニールは不愉快極まりなかった。
ニールは口元を引きつらせる。
「……カシスミルク」
注文を聞くなり、また爆笑に包まれた。
カウンター客たちは先程よりも声を上げて笑い、机を叩いたり転げたりして全員で腹を抱えている。
ニールだけが眉をひそめていた。
しばらく笑った後に、客の一人が言った。
「それで、自慢の飛行機はどうなったんだ? ハルに何か言われたか?」
ニールはぎくりとまた口を引きつらせた。
ハルと喧嘩したことはできれば人に聞かれたくない。
あまり話題にしてほしくないが、切り出した客は話を広げていく。
その客をよく見れば、今朝港で会った大工の親父だ。
「今朝、港で壊れた水上機を引いてたんだ。ハルのとこに持ってったみたいだが、それからどうなったかまだ聞いてねえぜ」
大工の追求にニールは答えられない。
冷や汗を流してグラスを煽るだけだ。
それでも客たちはニール抜きで盛り上がっていった。
「壊れたって言うと……あのクリムゾンレッドかい?」
「確かあの水上機はハルちゃんが大切に作ってたやつじゃないか」
「かなり壊れてたからな、こっぴどく怒られたんだろうよ」
「ってことは、ニールが今ここにいるのも……」
居場所がなくて逃げてきたから。
言葉にしなくてもそれはこの場の全員が悟ってしまった。
ニールは堪えきれず額を押さえる。
大工の親父は取り繕うように言った。
「まあ、時にはそういうこともあるよな。俺も今朝、カミさんに怒鳴られたばっかりだ」
「バカ、おめえの場合はいつものことで、しかも毎回自業自得だべ」
「仕方ねえだろう。商売上のことなんだからよ」
「……マスター、食事も追加で頼む」
ニールが濁すように注文を追加する。
夕飯も店で済ませることにしたようだった。
注文した酒とマドラーがカウンターに出てきた。
カルアの黒色とミルクの白色が、混ざっている中間でもやついている。
綺麗なビジュアルだったがニールはステアさえしないで豪快に傾けた。
ごくごくと喉を鳴らして飲んだ後、鬱々と言う。
「……あめえ」
「お前さんが頼んだんだろう。大人しくアードベッグでも飲めばよかったのによ」
「んなもん手が出ねえよ。ハルのせいで今は安物に甘んじるしかねえんだ」
「がっはっは、いつかのチャンピオンも今じゃ地に落ちたもんだぜ」
客たちは笑っていてもニールは笑えない。
「ほっといてくれよ。まったく、この街には一人でゆっくり食事できる場所すらないのか?」
「そんな店、このご時世すぐに潰れちまうよ。ほら、お前がいた頃はあったレストラン、あれだって今じゃもう空き地になってる。借金だけが残って、家すらもなくした店長を雇い入れたのが、ここのママって訳よ」
「よしな、面白い話でもない」
ミストレスは注文の用意をしながら苦笑した。
この店に来てずっと不機嫌だったニールも始めて顔を変える。
話の店員を教えてもらうと、ニールも記憶に残っている人物だった。
「人の輪を大切にするのが俺たちチルナノグ民だ。鬱陶しく思うかもしれんが、お前が行き倒れた時も助けてやるつもりだぞ」
名前も知らず顔ぐらいしか覚えていなかった大工は、屈託もなく笑って見せた。
そんな他人にも等しい相手をニールは不覚にも惚れ惚れとしてしまう。
顔に出てしまいそうになったところで慌ててそっぽを向いた。
冷静を取り繕ってニールは答える。
「……でも、助けてもらうだけじゃだめだろ。甘える人間は助けてもらう価値すらない。誰だって一人でも生きていけるようにならなきゃ」
「今のニールは、甘えてるって思うのか?」
「甘えてるさ、だめだめだ」
ニールはきっぱりと答えた。
これまで兄弟を救うために旅を続けてきたというのに、少しの迷いもないように、自分自身を責めているかのように言った。
まるで思うところがあるかのようにグラスの酒を見つめる。
黒と白のカクテルの表面に、ニールはハルを見た気がした。
「ハルのところに戻るべきじゃないかもしれないな。あいつのところにいたら、旅のことなんか忘れちまいそうだ。別に宿でもとって仮家にするべきかも」
悩みを話すニールは酒にでも話し掛けているかのように呟いた。
ハルが誰のことかもわからない客たちは互いに顔を見合わせる。
店のカウンターはジャズが流れるだけになった。
「ニール、ハルちゃんはあんたの大事な家族だ。そうだろう?」
「血は繋がってないけど、そうだと思う。育ててくれたのはあの人たちなんだ」
「なら、簡単に手放すもんじゃない」
「でもそうでもしなきゃ俺は甘えんだ。そのくらい居心地が良くて大切なんだ」
「大切なら、甘えてても腐ることはないはずだ。きっとまたニールは旅立つさ」
その言葉にニールははっとして振り向いた。
口を強くつぐみ、目に力がこもる。
「ニール、居場所は作ろうと思っても簡単にできるものじゃない。帰ってきた時ぐらい甘えたらどうだ?」
「そうだな……いいかもしれないな」
ニールはそう呟きグラスに口をつけてすすった。
とぐろのなくなって茶色くなった酒は一口目と味が変わり、ニールの舌に馴染んでいた。
周りにどう思われようともニールはその酒が美味いと思うようになっていた。
それからすぐにして、注文の用意をしていたミストレスが言った。
「食事ができたけど、本当にここで夕飯済ませてくのかい? ハルちゃんのところで食べなくていいのかい?」
質問の意味を理解して、ニールは狼狽える。
「いいのかよ」
「いいんだよ。こいつらの飯がまだだったからね」
「そうだよ、もう腹ペコなんだ」
カウンター客も笑いながら言うので、ニールは呆れて口を歪めた。
心の中で、本当にお節介な人たちだと悪態づく。なのにニールの表情は満更でもなさそうだった。
「まったく、仕方ねえな。それじゃあ俺は家で一杯やるから、あんた達は俺のおごりで楽しみな」
「マジかよニール、文無しだってのに悪いな!」
「本当だよ」
そう言ってニールは注文通りの金額を置いて席を立った。
これでまた財布が寂しくなったが、不思議と心は寒くなかった。
勢いで言ってしまったがきっと後悔することはない。
ニールはそう思いながら豪快な笑みを浮かべ、背後に手をひらかして店を出ていった。
ニールが見えなくなってしばらく経ち、声も聞こえなくなった頃、今度はカウンターの大工が小声で言った。
「マダム、俺にもカルアミルクを頼む」
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ニールが整備場に戻ったのは、暗くなって外も静かになった頃だった。
喧嘩したハルがどうしているのか気になっているニールは整備場の裏扉から恐る恐る様子を窺う。
ハルがまだ機体の修理をしているのをじっと眺めたままで、なかなか中へ入ろうとはしない。
話をしようと思って整備場に来てみても、何を話していいかわからずにずっと扉の影に隠れたままだった。
「ニール、何してるの?」
ハルは機体修理に手を割きながらもニールに気付いていた。
気付かれていないと思っていたニールは渋々影から出る。
気まずさで頭を掻きながらハルに話し掛けた。
「修理の様子が見たくなって」
「いいけど、ニールが見てても面白くないよ?」
「いいんだ。今は見てたい」
ニールは作業台に軽く腰掛ける。
ハルは怪訝な表情をしつつもあまり気にせず、またすぐに作業に没頭し始める。
金属が立てる作業の音だけがしばらく二人の間に流れた。
「そういえば、相変わらずそんな格好してるんだな」
ニールは珍しく顔を赤くしながら言った。
ハルは普段、作業服を着ているが、今はそのジッパーを腰辺りまで下げていて、黒いインナーと筋肉質なお腹が見えてしまっていた。
しかしハルはあまり恥じらう様子もなく答える。
「だって作業してたら暑いし、脱いだ方が楽なんだもん」
「でも、どこの馬の骨ともわからないやつに見られるんだぞ」
「そこまで気にしないけどな。……ニールはそんなに意識するの?」
ハルはニールに振り返り、訝しむような目で見つめる。
ニールはハルの苦笑する顔を見て、急いで目を逸らした。
「変な輩に狙われたら面倒だから言ってるんだ」
「わかった。じゃあ今度からそうする」
ハルが納得しても心を探るような目はやめない。
見透かされてからかわれているような気がしてニールは顔を真っ赤にして叫んだ。
「手伝おうかと思ったけどもういい!」
「あはは、ごめんごめん」
ニールは笑うハルにうんざりして背を向ける。
大股でずしずしと歩いて整備場を出ようとするが、途中で何かを思い出して足を止めた。
「そうだった」と漏らして、柔らかく声を投げ掛ける。
「あんまり遅くなるなら、キッチン借りて夕飯作るけど何がいい?」
「久しぶりにニールのイカ天が食べたい!」
「相変わらず好みがおっさんくせえな……」
ニールが苦し紛れに言うと、ハルはこちらを見ながらとても嬉しそうに笑った。
ニールはハルに連られて口を緩めてしまう。
笑みを浮かべたままニールは整備場を出て、キッチンへと向かっていった。
チルナノグに戻って最初はハルと喧嘩してしまったが、ようやくかつての生活に戻れた気がして、ニールはしばらく微笑んでいた。
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