第7話 ネロの下僕、奴隷になるということ
ニールたちのいる場所と同じ、マグメイルでの出来事だった。
空は晴れていたがその直射日光が麻の服だけを着た人々を攻め立てる。
周囲には下水から汲み上げられた汚泥の臭いが漂っていて、民衆は誰も近付こうとしない。
ネロの奴隷だけがマグメイルの一角に集められていて、汚泥を原料にレンガを作らされていた。
その奴隷から少し離れたところでメフィストがムチを持って監視していた。
昔は働いている奴隷たちのように糞尿でレンガを作らされていたが、ネロに認められたおかげでこうして監視役に就けている。
奴隷の身分でありながら出世を目指すのであれ、さらにネロの信頼を得なければならない。
幼い頃から奴隷だったメフィストはそれだけが何よりも正義で、他に少しの自由など許されていなかった。
昨日ニールが訪れてもそれは少しも動じなかった。
今日も奴隷を監視し、手を休めるものがいたらムチを唸らせる。
ネロに命じられたことだけをこなし、ネロの信頼を得るためだけに働くだけだった。
ところが、その監視しているうちの一人、白い髭と髪が目立つ奴隷が突然倒れた。
日干ししていたレンガをひっくり返したまま、そのままうずくまって動かない。
メフィストは「何事だ?」と奴隷たちに投げ掛けた。
「病のようです!」
「昨夜から顔色が悪かったので、悪化したのかと思われます」
メフィストは目を細めて立ち上がる。
ムチを片手にして、うずくまる奴隷へ向かう。
「お待ちください、この者に一日だけ猶予を与えてください! そうすればきっとまた存分に働けます!」
メフィストがムチ打とうとすると、他の奴隷が足にしがみついてきた。
メフィストのズボンの裾が泥で汚れる。
メフィストはそれに苛立って奴隷を蹴り飛ばした。
「ネロ様の前でもそんな言い訳するのか?」
メフィストが冷たく言い放つと、病に倒れている奴隷へ向けてムチを振り下ろす。
風を切るほどの勢いで背中が打たれると、奴隷は叫び声を上げてもがいた。
「休むな、働け」
メフィストがまたムチを構えて叫ぶ。
奴隷はよろよろと膝で立ち上がり、仕事へ戻ろうとした。
「いかんなメフィスト。それは感心しないぞ」
メフィストの背後から声がして、振り向くとそこにネロが歩いてきていた。
メフィストの肩を叩きながら言う。
「このままあの奴隷を働かせていては他の奴隷にも病が伝染ってしまう。残念だが何らかの対処が必要になる」
「失礼しましたネロ様!」
「いいのだ。次から対処を変えればよい」
「で、では……この奴隷は休ませてやればいいのでしょうか」
「違う」
ネロがメフィストにそう答えると、懐から大きなナイフを勢いよく抜いた。
両手で構えて切っ先の狙いを付けると、奴隷の首へ向けて力任せに突き刺した。
背後から脳幹を串刺しにされた奴隷は病に喘ぐこともなくなり、ぴたりと動かなくなる。
目が明後日へ向きながら倒れ、血をあまり流すことなく一気に死んでいった。
助けに回っていた奴隷がその死に様を見て叫び声を上げた。
それだけでなく、堪らず地面に尻餅を突く。
メフィストもその様子を見ていて、眉を寄せて口を強くつぐんでいた。
奴隷が息絶えたのを確かめて、ネロはナイフを強引に抜いて立ち上がった。
目を見張って呆然としているメフィストに告げる。
「休むような者がいたら殺せ。奴隷は生きるか死ぬかの選択さえ主にある。今度から奴隷が病に倒れたら躊躇いもなく殺してよい」
「は、はい」
「いい返事だメフィスト。しかし――」
メフィストが呆然と立っていると、ネロは両足を引っ掛けてメフィストを地面へと転ばせた。
そのまま馬乗りになり、まだ血が滴っているナイフを突き付ける。
ナイフの切っ先が目に向けられて、メフィストは恐怖しながらネロを見詰めた。
「よもや昨日現れた、兄とのたまうニールに動揺しているのではないだろうな? 私への忠誠が揺らいでいるのではないだろうな?」
メフィストはすぐには返事はできなかった。
倒れた拍子で胸まで打ったのか呼吸まで乱れている。
「まさか私を裏切ってあの兄と共に行くつもりではないだろうな? 賭けの勝負も兄に味方するつもりではないだろうな?」
ナイフに濡れている血が滴りそうになる。
頭を串刺しにされた者の血だ。目に溢れそうだが瞼を閉じられない。
「答えろメフィスト。お前は今、何を考えているか。私への忠誠がまだ確かなものか答えるのだ!」
メフィストがようやく返答する。
「わ……私の忠誠は変わりません! 私には奴隷としての世界しかなく、他の世界を知りません! ネロ様に認めてもらうことだけしか知らないのです!」
「本当だろうな?」
「本当です! 私の目に映るのはネロ様だけです!」
メフィストが必死に訴えてようやくネロは解放してくれた。
血のりの付いたナイフを、殺した奴隷の服で拭う。
メフィストは何度も荒い呼吸しながらそれを見ていた。
ネロがため息を吐いて告げる。
「明日のドッグファイトは私が勝つ。ニールだとか言うパイロットが負ける姿をマグメイル全員で笑うつもりだ。貴様もそれを楽しめ」
ネロの表情は笑いもなく動揺もなく冷静だった。
ナイフを懐へ納めて背中を向けると、奴隷たちの間から離れていく。
それでもメフィストは呆然と尻餅を突いていた。
腰が抜けてしまったのか、自らの仕事も思い出せないまま倒れている。
やがて奴隷たちは仕事を思い出し、再び汚泥のレンガを作り始める。
メフィストに手を差し伸べる者は誰もいない。
奴隷たちの側で、メフィストは倒れたままだった。しかし、もうメフィストの表情は恐怖では満ちてはいなかった。
奥歯を噛み締めて反抗心を剥き出しにしていたが、誰の目にも留まらず、自分自身さえ気付くことはなかった。
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