第5話 エステルの店、ニールの生い立ち

 水上機で空に戻る頃にはもうオレンジ色になっていた。静かだった塔から一変してエンジンの音が鳴り響く。

 二人は興奮冷めやらぬまま座席にいた。ネロとの大きな勝負に出て、じっとしていようとも、気持ちがなかなか収まらず、張り詰めたまま息をしていた。

「メフィストを取り返したいからって、まさかあんな大博打に出るとは思わなかったわ」

 エステルが大きめの声で言う。

「でもネロと交渉するためにはああするしかなかった」

「そうだけど、自分自身を賭けるなんて思い切りすぎよ」

「それだけ譲れなかったということさ。それにエステルも一緒だろう?」

 ニールがメフィストに掛ける気持ちも、エステルが母に掛ける気持ちも変わらない。二人は同じ博打を打った者同士だった。それが可笑しかったのか誇らしかったのか、ニールの顔には笑みが浮かんでいた。怒っているエステルもそうだった。明後日には勝利か破滅か決まってしまうというのに二人の表情は晴れやかだった。

「まずはその傷を手当てしないといけないわね。私の家に来て」

 エステルに言われて、ニールは案内されるままに水上機を飛ばした。日が水平線に沈むのを眺めながら海へと下りていった。


 エステルの家は「アメリカ」と同じ島にあった。「マグメイル」と呼ばれているこの島は約7ヘクタールの面積があって、周辺では最大の大地だ。住居が密集して棟を成していて、港と桟橋が一ヶ所に集中している。港には島とあまり変わらないサイズの空母が停泊しているが、甲板には一機も機体が載っていなかった。

 島には二千人近くの人が住んでいるが、もうどこの住居もいっぱいだった。人が密集しているので、どこに行っても人で賑わっている。島にはまだ緑が残っていたが、それも住居にするつもりなのか、重機が停めてあった。

 エステルの家は住宅の中心から離れた、港に近い場所にあった。エステルは大きな窓と看板の隣にある扉を開ける。扉に付けてあった小さな鐘をちりんちりんと鳴らしながら二人は中へと入った。

「家というより店みたいだな」

「みたい、というより本当に店だったの。もう閉店するつもりだけど」

 建物の外には解体用の重機が横付けしてあった。郵便受けにも何かの通知がいくつも詰まっている。

「そこ座って」

 エステルが棚から薬箱を出しながら言う。ニールは言われた通りカウンター席に腰掛けてパイロット帽を脱ぐ。しかし家の不穏さが気にせずにはいられなかった。エステルは苦笑しながら説明する。

「もうわかってると思うけど立ち退きを迫られてるの。土地代を稼げなくて店も閉めちゃってるから、早く出てけって。でもそれは割り切ってるの。まだ店をやってたかったけど、借金がかさむだけだったら別の仕事もしなきゃって思ってるの」

 エステルが湿らせたガーゼでニールの傷口を洗っていく。メフィストに殴られて切れた唇だけでなく、ごろつき達と喧嘩した時にできた怪我も手当していく。

「でもお母さんはどうしても諦め切れないの。私の大切な人が売られるなんて黙って見てられない。勝負に勝って、お母さんを返してもらって、また一緒に暮らしたいの」

「大丈夫、きっと明日叶う」

 エステルは嬉しそうに笑うが、大きすぎるリスクに手を震わせていた。ガーゼで消毒液を付けられて怪我に染みる。

「ねえ、聞きにくいことを聞いていいかしら?」

「なに?」

「ニールの兄弟全員を自由にできたら、何かしたいことがあるんじゃないの? ただ兄弟を自由にしたいって訳じゃないんでしょう?」

 エステルはネロとの話を思い出したから気になったのだろう。ニール自身も何も反論できなかったことを気にしていたのでそう思った。ニールは口元を緩めて穏やかに答える。

「やりたいことはあるけど、兄弟を助けたい気持ちに比べたら些細なことだ。そう言われたらネロが言った通り俺は罪悪感で動いてるのかもしれない」

「うん、それで?」

「叶ったらいいなってぐらいの本当に小さくな理想なんだよ。だから敢えて話すことでもなんでもない」

 妙にはぐらかそうとするニールにエステルは苦笑する。

「恥ずかしがらずに」

 エステルに追求されてニールは目を逸らす。歯を食い縛って口を閉じていたが渋々口を割った。

「兄弟と一緒にまた暮らしたいんだ。父さんを探す旅を再開するか、どこかの町の家を借りて住むのか決めてないけど、離れてた時間を取り戻したい」

「いい夢じゃない。恥ずかしがることなんてないわ」

「夢は語るものじゃない。自分の胸に秘めておくもんだ」

「きっとさらけ出した方が叶うものよ」

 ニールは赤面したままバツが悪そうにそっぽを向く。エステルははにかみながら絆創膏をニールの傷に貼り付けた。

「泊まるところがないなら、ここに泊まったらどう?」

「いいのか?」

「お金取ったりしないから心配しないで」

 エステルは治療道具を箱に仕舞いながら言う。泊まるところをまだ探していなかったニールはエステルの言葉に甘えて、家に泊まらせてもらうことにした。


 しかし、二人に与えられた短い時間も休むことは許されないようだった。ニールが異変に気づいたのは夕食後に機体のところへ向かった時だった。明後日の勝負に備えて整備、点検を済ませようとしていたのだが、見知らぬ連中が機体の周りを囲っていて、ニールの機体が荒らされていたのだ。

 エステルがそれを見るなり叫んだ。

「あんたたち何やってんの!」

 エステルが追い掛けたが連中は飛行艇ですぐに引き上げ、あっという間に空へと逃げられてしまった。エステルはそれを見上げながら奥歯を噛み締める。

「あいつらはただのチンピラじゃないわ。きっとネロの差し金で荒らしに来たのよ」

 ニールは眉をひそめて呆然と立っていた。愛機に悪戯されたのがそれほどショックだったのか、予想外だったのか、まだ心が現状を受け止められていなかった。しかし機体の損傷状況が気になって、ニールははっと機体へ駆け寄った。

 ニールの愛機は油圧系を中心に荒らされていて、操縦に欠かせないエルロン、エレベーター、ラダーがあらぬ方向を向いていた。キャノピーは割られ、装甲は落書きされ、エンジンにまで悪戯されている。まだ修復不可能な状態にまでは陥っていないが、これではエンジンを回すことさえできない。

「大事な機体なのに、派手にやってくれたな」

「直りそう?」

「わからない。俺の技術だけじゃ限界もあるだろうし、時間も一日しかないからな。きっと完全には元に戻せないと思う。機体を設計したあいつがいれば何てことないんだけど……」

 あいつ、という言葉を聞いてエステルは眉を曲げる。誰のことだかわからなかったが、今は気にしている場合ではなかった。ニールは奥歯を噛み締める。

「奴らがここまで姑息だとは思わなかった。もう少し来るのが遅かったら完全に壊されてたかもしれない。そうなればきっと問答無用で奴隷にさせられてた」

 沸々と沸き上がる怒りをニールは噛み締めていた。愛機を悪戯されて、卑怯な手を使われて、憎まざるを得ない。悪戯で切れた配線を握り締めるニールをエステルは同じ気持ちで見ていた。

「エステル、忙しくなりそうだ。手伝ってくれるか?」

「もちろんよ。私だって賭けに乗ったんだから」

 機体修理にどれだけ掛かるかわからない。どれだけ直せるかもわからない。それでもこのまま諦める訳にはいかない二人は残り一日と数時間のリミットで機体を直し始めた

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