第3話 真っ赤な顔のエステルと青い唇

 ニールはエステルを降ろすためにゆっくりと海へ下りた。


酒場「アメリカ」の桟橋へ横着けする。


後部のプロペラを止めると、ニールは主翼へ下りて助手席のエステルに腕を伸ばした。


「あんた意外とタフだな。失神せずについてこれた」


エステルは手を貸してもらっても、しばらく黙ったまま席に座っていた。


何も考えられないようで放心しているようだったが、ようやく我に返るとニールの手を叩いてのける。


「なんて無茶な飛び方するの!」


エステルはニールの手を借りず勢いよく立ち上がる。


一人で翼へ下りて、尾翼のフロートから桟橋へと降りる。


「連中から逃げ切れたっていうのに無謀にも戦おうとするし、素人の私が乗ってるのに急降下し始めるし、かと思えば急上昇してくるくる回るし、おかげで私は振り回されて舌を噛んだわ! 奴等が後ろに着いたと思ったら逃げないでゆっくり飛び始めるし、このまま撃ち殺されるかと思ったわよ!」


エステルが捲し立てる文句にニールは桟橋へ降りながら苦笑いを浮かべた。


エステルの文句はまだ収まらない。


「あんなアクロバット飛行、一度も経験したことなかったのに遠慮なしに揉みくちゃにされて、こんなことになるならエンジン回してあげなきゃよかったわ!」


「わ、悪かったよ。感謝もしてる。君が助けてくれなかったらこいつもきっとぼろぼろになってた」


「ほんとにそう思ってるの?!」


恐ろしい剣幕でエステルが顔を突き出してくる。


激怒しているのは嫌というほどわかったが、エステルの唇はまだ青白いままだった。


それがおかしくてニールは口が緩みそうになるが「うんうん」と頷いて誤魔化した。


エステルはようやく怒りを収めてくれたが「まったくもー」と不満を漏らした。


そっぽを向かれて目も合わせてもらえない。


話をするのも気まずかったが、ニールは酒場での話を思い出した。


「奴隷商人メフィストの話だけど、何か知ってるのか?」


エステルは何も答えてはくれなさそうにそっぽを向いていた。


しかし、元々エステルは奴隷商売の件を聞き付けてニールに話し掛けたのだ。


睨んでいたエステルは仕方なくと言わんばかりに口を開いた。


「そのメフィストって奴隷商人に、私の母親が連れていかれたの」


エステルが遠い目を海に向けているのを見て、ニールは唇を固く閉じる。


「私は元々あの店じゃなくて、お母さんと一緒に飲食店をやってたの。でもうまくいかなくて借金を返せなくなって、奴隷として連れていかれてしまった。もしかしたらもう売られてしまったかもしれないけど、それでもまだどうにか借金を返せないかと思って働いてるのよ」


エステルが話している間、ニールはただの他人事とは思えなくて眉を潜めていた。


一際大きな波がやってきて桟橋が揺れる。


ニールはパイロットスーツのジャケットに手を突っ込みながらバランスを取った。


「兄の俺まで耳が痛い話だ。俺が止めるべきだろう」


「ニールたちは兄弟だったのにどうして離れることになったの?」


「……俺が幼い頃、得体の知れない男に襲われたんだ」


辛い過去を思い出しているのかニールの表情が険しくなる。


「船がエンジンで動き始めた頃だったよ。当時俺たち家族は一隻の飛行艇に乗って旅してた。失踪した父親を探すために母親と俺たち三人兄弟で色んな町を回ってたんだ。なのにある日一人の男がやってきて、俺たちの飛行艇が珍しいってんで襲ってきた。母親は乱暴されて殺されて、兄弟は奴隷として売り飛ばされたんだ」


「今は奴隷商人のメフィストも奴隷だったってこと?」


「そうだ。それどころか今も奴隷で主に汚い仕事をやらされてる可能性がある。エステルのお母さんを売ろうとしているのも本当はメフィストの主かもしれないんだ」


「だとしたら、ニールはメフィストを殺さなくても済むわね」


いつの間にか自分がメフィストを殺すことが前提になっていたことにニールは戦慄する。


エステルの見掛けに寄らない過激さに冷や汗を掻いた。


エステルが更に尋ねる。


「ニールも奴隷に売られたの?」


「俺はいつも飛行艇の操縦をやってたし、兄弟の助けもあったから、どうにか逃げることができたんだ。でも俺が助かっただけで兄弟は売り飛ばされて散り散りだ。だから今度は俺が兄弟四人を助けて自由の身にさせなきゃいけない。過去を清算しなくちゃ俺の人生は始まらないんだ」


「……ニールの気持ちはわかった。でもメフィストが奴隷業をやめなかったらどうするの? 本当に兄弟を殺せるの?」


「そんな結末にしたくないが、兄弟の仇と同じ道は歩ませない。覚悟してきたつもりだ」


海と同じ色をした鳥が鳴き声を上げながら二人の頭上を過ぎていく。


エステルはニールをじっと見つめた後、何かを決心するように言った。


「わかった。それじゃあ今から私がメフィストのいる場所に案内するわ。絶対お母さんを取り返して」


「助かるよ。でも、あの酒場のことはいいのか?」


ニールがエステルの働いてた『アメリカ』を指差す。


「母親を取り返すために働いてたのよ。ニールが頑張ってくれるのなら訳ないわ。それと……」


エステルが水上機のフロートに飛び移って言う。


「兄弟を自由にできるといいわね」


真っ直ぐ言われた真摯な言葉に、ニールははにかんで機体に乗り込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る