第7話 「俺はお前と一緒に走りたくねえよ」

 1月2日。降水確率は10%だけどずいぶんと雲の厚い日。湿度はやや高め。走るのにはそれなりに恵まれた環境と言えよう。

 当日変更により往路を走ると言う事はなかった。やはり僕の出番は、あるとすれば復路なんだろう。

 午前五時、渉二と顔を合わせた。夏合宿以来に言葉を交わした渉二の顔は、相変わらずどこか疲れ気味だった。

「渉二、頑張ろうね」

「ああ亘、お互い全力で戦おうな」

 渉二もまた補欠であり、僕と同じく当日変更で往路を走ると言う事はなかった。復路に出て来るのか出ないのか、出て来たとしてどこなのか。僕と同じ区間を走りたいのか、いや走りたくないのか。それから夢の箱根路に向けての心構えがどうとか、倭国大の生活はどうとかいろいろ聞きたい事はあったが、どこかそれを聞くのははばかられた。

「そう言えば治郎は」

「浅野か?あいつは元気か」

「ああうん今日もこのコースのどこかに立っているかあるいはテレビにかじりついているかのどちらかじゃないかな」

 三年間かけて親しくなったのに、どうにもよそよそしい。僕からも、治郎からも遠ざかろうとしているように思える。僕はともかく陸上部でも何でもない治郎、ただ陸上を見るのが好きなだけの治郎からはそうそう逃げようがないと言うのにこのそっけない態度は一体何なのか。僕が半ば逃げるように言葉を紡いで渉二から離れると、渉二はやれやれと言いたげな表情でため息を吐いた。

「いよいよだな」

 神原監督は監督車に乗り込んだ。これから僕たちの箱根駅伝、僕たちの歴史が始まる。僕たちに過去はない、あるのは未来だけだ。そしてその未来は、少なくとも過去よりは確実に明るい物になる。渉二がそうしているように、僕も渉二から離れなければならないのかもしれない。


 スタートを告げる銃声が鳴った。この時だけは平等だ。2区にダニエル先輩、3区に濱田さんを置いているとは言えうちの学校はやはり絶対的な能力ではどうしても劣る。なるべく集団でけん制し合い、スローペースのまま流れて欲しい。

 東京地球大学のユニフォームは集団の真ん中にいる。自分とずっと寝食を共にして来た人間がそこにいる、最高のぜいたくだと思う。一緒にラーメンを食べた人間、一緒の空気を吸った人間。時に争い、時に…おっといけない、今日僕がすべきことがあった。

 平塚中継所、11時半ぐらいに濱田さんが飛び込んで来る場所。今日の僕の仕事はそこで4区を走る先輩の面倒を見ながら、走り込んで来た濱田さんにタオルをかける事。テレビではずっと見て来た仕事。当然ながら、同じ役目を務める事になる人間がたくさんいる。そんなたくさんの人間が、全く違う立場の21個の集団に分かれているのだからいろいろ面白い。その集団からは様々な空気がにじみ出ている。

 その空気の差が顕著になり始めたのは六郷橋の辺りからだ。ちょうどその時、スローペースで流れていた集団が一挙にばらけ出した。そのペースでは遅すぎた人間が一挙に動き出し、そのペースでも早かった人間が集団からこぼれ始めた。東京地球大学は何とか大集団の最後尾についていたが、残り4キロで振り落とされた。

「まあ万々歳だろ、何せこれが東地大記録なんだから」

 1時間3分41秒、トップとの差は1分29秒で16位。似たような立場の明公大に4秒負けているのは気に食わないが、それでも一緒にいた先輩のジョークとも真剣ともつかない様な言い回しに少し胸を撫で下ろした。


 花の2区、各校のエースが集う区間。しかしオーダーを見て知ってはいたがまあ留学生の多い事。ダニエル先輩を含めて4人の留学生がこの区間を任されている。そんな中で区間賞を取るのは大変だ、いやそれ以上にこんな所を走るような人間はそういう存在に対して激しいライバル意識を持つ人間が多いし実力もあるから、まず日本人たちに勝たねばならない。

「今回初出場した東京地球大学。2区を走るのは2年生、ダニエル・ハートレー・ブレイク。日本に来てハマったのはラーメンだそうで、最近では後輩も一人ラーメン好きにしてしまったそうです」

 そう言えば初出場と言う事で取材はたくさん来たが、その時僕はラーメンについては一言も言っていない。ダニエル先輩ったら個別に取材を受けた時にそんな事を言ったのか、僕のプライベート情報を聞いた先輩たちが大笑いしながら僕の方を指差すもんだからみんなして笑い出し、緊張感にあふれているはずの中継所の空気が一挙に軽くなった。真剣勝負の真っ最中だってのにのんきなもんだが、これもまた箱根駅伝の現実だろう。しかしそんな中でも、なぜか倭国大の辺りだけは真剣勝負の空気が漂いっぱなしだった。正しいのかもしれないけど、どこか寂しい感じだ。

 レースの方はと言うとやはりダニエル先輩はすごかったけれど、他のランナーもすごかった。ダニエル先輩はチームを9位まで上げて来てくれたけど、全体では6番目のタイムに過ぎなかった。この成績ならば上出来なのが僕たちの現実だが、とは言え次ぐらいまではいい格好をしたい。濱田先輩にとってこれからの走りは大学生活の集大成とも言うべきそれだ、ありきたりな言葉だけど全てを出し尽くして平塚中継所にやって来てもらいたい。その体を受け止め、そしてその気持ちも受け取りたい。

「日テレの3号車が俺たちにくっついているぞ、なんかこうして中継車がベッタリ貼り付いてくれるとものすごく偉くなった気がするな」

「ですよね」

 ああやって中継車に付かれると言うのは個人的な憧れでもあった。逐一とまでは行かないにせよ日本中が注目してくれる存在になれると言う事など、生涯で何度あるかわかりゃしない。初出場である明公大とうちが揃って走っていると言う今大会で確実に耳目を集めそうな事象に飛びついて来た結果だろうが、とにかくこうしてうちの大学が注目されるのはいい事だと思う。

 濱田先輩が中間点を通過した。依然として明公大のランナーとくっついたまんまだ。あと3キロを過ぎたら体勢を整えておかねばならない、そこまでにはどうにかして相手を振り落として欲しい。

 なぜうちの大学に入ったと聞かれる事があれば、濱田さんの走りにあこがれてと答える事にするつもりだった。去年の1月3日、学生連合の9区を任された濱田さんは、わずか17秒の差でタスキを守り切った。にわか作りのチームとは言え仲間である人間の思いを無為にする事などできないと言わんばかりの必死の走り、ああいう走りをしてみたいと思わせるような走り。迷いに迷っていた背中を押す程度には力があった走りに魅かれて――――まあ十分な理由だと思う。

 その濱田先輩が平塚中継所に飛び込んで来る。徐々に気温が上がり始める午後0時にふさわしい汗だくの髪を振り乱して走り込んで来る濱田先輩は、これまでやって来た他のどのランナーよりも小さく見えたが、存在感はどのランナーよりも大きかった。タオルで受け止めた濱田先輩の、僕より5キロ重いはずの体は、まるで抜け殻のように軽かった。これが陸上人生最後の走りになると明言していた濱田先輩の顔は、抜けるような青空を顔にくっつけたみたいに晴れやかだった。走りの方も、最後に明公大のランナーに離されたものの1人にも抜かれる事はなく区間10位、前とのタイム差は離されたが万々歳と言っていいだろう。

「あとは頼むぞ」

 4区を走る3年生の先輩に向けたはずのその声を、勝手に自分に向けられたと解釈していい気になってみた。僕にもそれぐらいの権利はあるだろう。だけどその濱田先輩と共にいい気になって平塚中継所から自動車に乗り、やがて芦ノ湖へたどり着いた僕らが見せられたのはなんとも凄まじい物だった。


 4区終了の時点で4位だった忠門大学が、5区に入るや大平台にも達しない内にトップに立ち、それからも後続との差をぐんぐん広げている。もちろん僕らは元から相手にされていない存在であるにせよ、こうされてみるとただ素直に称賛するしかない。

「10分差は付けられないよな、6分ぐらいで勘弁してくれるよな」

「そうですよね、目標通りであれば6分ぐらいで済みますよね」

「まあそのおかげで復路のスタートは寂しくないだろうけどな」

 結果として6分4秒差で済んだ、と言う表現はたぶん間違ってないだろう。うちの5区を走った先輩のタイムは1時間17分54秒、一方で忠門大学の5区のランナーのタイムは1時間11分50秒。区間17位と区間新記録を比べる物じゃないだろうが、それにしてもとしか言いようがない。

 まあ濱田先輩の言う通り、忠門大学のおかげで往路トップから10分以内にゴールできなかったチームが行う事になる復路一斉繰り上げスタートを総勢14チームで行う事になったのだから、そういう意味では明日のスタートもあまり今日と変わらない。箱根駅伝一年目のチームとしては実にありがたい事だ。

「とりあえず往路の連中はよくやってくれた、後は復路の5人に託すんだ。是非とも汗まみれのタスキを大手町に持って来てくれ」

 監督は部員全員を集めたその場で正式に復路のオーダーを発表した。そして、僕の箱根駅伝デビューが決まった。

 やはり9区だ。僕の走りによりタスキを最後までつなげるか否か命運がわかれる区間だ。もちろん責任は全区間同じはずだが、それでもやはりのしかかって来る物の重さは認識せざるを得ない。

「今日は早めに寝ます」

「おうおう、それがいいな、ああ言っとくけどラーメンはねえから」

 もうラーメンと言う言葉が出るだけで場が和んでしまう。うぬぼれを起こすほど高尚な存在でもないつもりだが、その和やかな雰囲気を起こすきっかけを作っている点は自画自賛してもいいと思う。僕たちには僕たちの駅伝がある、勝つだけが駅伝ではないはずだ。


 1月3日朝、戸塚中継所に向かった僕は車内で、倭国大学がやはり当日変更で9区に渉二を持ってくると言う話を先輩から聞かされた。全く、こんな事が起きるとは。まあ確かに渉二が起用されないのはどうかと思っていた手前考えられなくはなかったが、渉二と一緒の区間を走れる幸運を僕は神様に感謝したくなった。

 そして戸塚中継所にたどり着くや僕は、矢も楯もたまらずに倭国大学のユニフォームを探し回った。人込みの中ではいくら選手と言えど自在に動く事ままならず幾度かどこですかと先輩や他校の人に聞きもして迷惑をかけてしまった事は許して欲しい。

 渉二は倭国大の人たちに囲まれて、じっと座っていた。その姿はまさにこれから戦わんとする男のそれであり、僕よりもずっと大人びて見えた。

「渉二、僕も9区になったんだ。よろしくね」

「俺はお前と一緒に走りたくねえよ」


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