第8話 渉二!

 ――一緒に走りたくない。倭国大学は往路7位、東京地球大学は往路15位。確かに両者の差は大きいように見える、けど倭国大学は復路一斉繰り上げスタート組である僕らから18秒早く芦ノ湖を飛び出すだけの存在であり、シード権争いを繰り広げようとしている学校からはまず倭国大を狙うんだと言うセリフがよく聞かれる。僕らだって少なくとも6区ぐらいは一緒に走る事になるだろう。とは言え倭国大学と東京地球大学では格が違いすぎる。一緒にするなと言うのもわかる話だが、それにしても寂しい。たったの10ヶ月しか経っていないはずなのに、雰囲気はともかく顔はそんなに変わってないのに。

 会うたびにどんどん遠くなっていく気がするかつての盟友。それもまた人生だよねと割り切るには戸塚の風は生暖かかった。ちょうどその時、忠門大学が芦ノ湖を飛び出していた。僕らの出番は、だいたい3時間半後ぐらいにやって来る。僕にも渉二にも、余分な時間はもうほとんどない。渉二は僕よりずっと先にその事がわかっている、だからああ言って僕を遠ざけようとしたんだろう。渉二のためにも、僕も気合を入れ直さなければいけない。


「2分以内で持って来てくれれば大丈夫かな、キャプテンいい調子じゃん」

「油断なんかするなよ」

「もちろん!」

 トップから20分遅れるとタスキは途切れてしまう。スタート時に既に10分遅れになっている僕らはさらにあと10分遅れるとアウトだ。単純計算で1人2分半以内にとどめなければならない。余裕を持たせるために2分となっているが、その2分がめちゃくちゃに短く思えて来る。幸い6区と言う大変難しい区間を走ったキャプテンはトップと1分7秒差の1時間0分31秒で山を下りて来てくれた。キャプテンの仕事ってのはああいう物なんだろう、そのおかげで順位も1つ上がった。先輩の注意も軽く聞き流してうきうきしながらウォーミングアップにつとめる僕の周りの空気は、圧倒的なほどの温かさに包まれていたはずだ。しかし1時間かけて温まった空気は、次の1時間で簡単に冷えた。

 7区、先頭を走っていた忠門大学のキャプテン河野があわや区間新記録の快走を繰り広げ2位以下をこれまで以上に派手に突き放した。区間2位でさえ1分30秒離され、僕らは見た目で4分10秒離された。2区間トータルで5分17秒離された訳である。


「いよいよだな。あいつなら2分差で持ってくるからさ、遊行寺坂に入るまでは落ち着いて構えてろ」

「まあ、俺らは挑戦者なんだし、どうせダメでも次今より落ちる当てもないんだから。たとえタスキがぶった切られたとしてもあたたかく迎えてやるから、ただ余力残してぶった切られたらぶん殴るからな」

 その通りだ、この日の為に全てをかけて戦って来たはずなのにその肝心要の日に全力を出さないでいつ出すんだと言う話だ。例えどんなに危機的状況であろうとも僕らには走る事しかできない。


 そしていよいよ、残り1キロ通過の声が飛んで来た。いまさら何ができると言う訳でもない時間だが、心構えを新たな物にする暇ぐらいはある。気持ちを一にしてリレーゾーンに飛び出そうとした僕の目の前で、渉二がタスキを受け取った。そして無言のまま、ずいぶんと器用にタスキを結んで行く。一応練習はして来たつもりだけどうまく行くかはわからない、でもここまで来た以上後は野となれ山となれだ。倭国大から1分ほど遅れて先輩が運んで来たタスキは赤紫色がにじんで少し赤が濃くなっていた、

「2分37(秒)!」

 タスキを握りしめた僕に横から飛んで来たその数字。おそらくは“制限時間”だろう。23キロで割れば1キロあたり6.5秒ぐらい、なんとかなりそうな数字だ。両手も両足も初っ端から全力で動かして行く、つまらないためらいを抱いて後悔するような真似はカッコ悪すぎる。前にランナーがいれば抜いてやるぐらいの気持ち、そうでなければこのタスキを守る事などできる物か。その気持ちで僕はコースへと飛び出した。

 まず初めの3キロの下り坂、ダニエル先輩たちにとって最後の難関である2区の残り3キロの坂を下るまでの段階でランナーを1人捕まえた。順位よりタイムが重要とは言えこうして他人を抜くのはやはり気持ちがいい。その気持ちの高揚がタイムを高め、身体を軽くする。長い間テレビで見て来た景色の中にいる僕、そして浅野治郎。

「今の所手倉先輩と同じですよー」

 5キロ地点に立って僕に向かって手を振っていた治郎の姿は、高校時代と全然変わらない。幾度となく記録会とかに現れてはじっと僕や渉二を見ていたあの時のまんまだ。とりあえず今回は、7区終了時点で総合6位の徳政大のランナーと同じタイムって言う気が良くなる情報をくれたからほめておくか。


 やがて僕は権太坂にやって来た。確実にテレビに映るポイントだ。

「タイム差はどうなってます」

「2分9秒だ、そのままそのまま!」

 権太坂はだいたいコースの3割を消化した所だ、そこまでで28秒しか開かれていないのならばこのまま行けるのではないか、僕はますますテンションが上がった。

 そして、黒いユニフォームが見えた。渉二だ。中継所では1分近い差があったはずなのに、この僕が追い付いている。渉二の事だから抑えているのだろう、この後確実にペースを上げて来るはずだ。とりあえず取り付いてみる事にした。高校時代のようにしばらくは一緒に走って行くのも悪くない、そしてこの後離されるのもまたよし。お互いの目標のために走る、それでいいはずだ。

「やあ渉二」

 歩道側を走っていた僕が高校の時の様に声をかけながら道路中央の白線近くを走っていた渉二の方を向こうとすると、なぜか渉二の顔が久保田さんになっていた。倭国大学の監督車かと思ったが、僕らより更に道路中央に近い位置を走っている監督車に乗っているのはうちの神原監督だ。昨日さんざん見せられて来た忠門大学の織田監督ほどではないにせよ、久保田さんの彫りの深い面相はよく覚えている。10ヶ月もの間渉二を鍛え上げて来た恩師の存在、僕にとっての神原監督と同じ存在。僕が神原監督の影響を受けているように、渉二に影響を与えて来た存在。あるいは渉二には僕が神原監督に見えているのかもしれない。

「来るな!」

 久保田さんの顔をした渉二は、高校時代から今まで一度も聞いた事がない様な大声を放って逃げるように急にペースを上げた。


 字面に反して、怒りの意がこもっているようには思えない渉二の大声。神原監督は言っていた、長距離ランナーは孤独な物でありだから時に不安になる事もあると。ましてや今の僕、いや僕らは見えない敵と戦っている。僕はこのタスキを守らなければいけないし、渉二はシード権を取らねばならない。復路一斉スタートが大量だったせいで今順位はかなりごちゃついており、どこが今何位なのか非常にわかりにくい。今の渉二は自分が何位なのかすらわかっていないかもしれない。ちなみに7区の時点では倭国大学は10位、うちが15位だった。

 そこまで考えが向くと同時に、僕の足は動き始めた。これまでより更にペースを上げ、来るなと言っていた渉二に付こうとした。

 真っ昼間だと言うのに、渉二だけがまるで地球の裏側にいるように見えて来た。足取りが重いと言う訳ではなさそうだけど、そこ以外の全てが重たい。1年生にして箱根を走っていると言う責任感だろうか、そんなのは僕も同じだ。インターハイの時でさえも常に明るく笑みを絶やさずハイテンションだった渉二とは思えない。

「……」

 再び取り付いた僕に対して渉二は何も言わず首だけを僕の方に向けた。

 やめてくれ、見るんじゃない、俺から離れろ。さっきはどうとでも取りようのある大声だったが、今度ははっきりとした拒否の意思がこもっている。いったい何がどのようにして渉二を変えてしまったのか、僕などに1分の差を追いつかれるランナーじゃないはずだった渉二がどうしてこうなってしまったのか。

 僕の中で、10ヶ月の歳月が、消えた。ダニエル先輩も、神原監督も、濱田さんも、他の先輩や仲間たちも。今まで一度も落ち込んだ姿を見た事のない親友のため一緒に走ろうと言う考えが僕の頭脳を支配した。

「今横浜駅通過した、あと1分30秒だな」

 かろうじて僕に残っていた東京地球大学の部分が聞き取ったメッセージもまた、今の僕には安心と増長の種だった。抜く事も抜かれる事もない二人旅、横浜駅前で1分30秒の余裕があるんならそれほど問題もないと思い、私的な思いを優先して少しぐらい付き合っても問題ないだろうと思うようになった。

 渉二のフォームは乱れてはいるが、そんなに顔が汗だくになっている訳でもない。と言うか、逆に不自然なぐらい汗を掻いていない。正午はとうに過ぎていて太陽は高く、さっき給水係の同級生からもらった給水は実に美味かった。それなのに汗を掻かないのは一体なぜだろうか。

「大丈夫かよ…………」

 まさか脱水症状ではと思った僕が小声だけど早口で心配の声をかけると、渉二のペースが急にがたっと落ちた。僕が落としてしまったのか? いやそんな事はないこれは勝負だ、渉二は他の何かの理由によって後退したんだ、そう自分にいくら言い聞かせようとしても頭が渉二から離れない。

 渉二!と脳内で叫び声を上げると同時に、また隣に渉二が戻って来ていた。1年前に、お互い箱根路を走ろうと言い合った渉二。倭国大学ではなく、僕と同じ高校のユニフォームを着た渉二。僕の知っている渉二が、僕と一緒に走っている。いや、それから1キロも走らない内に、渉二は僕の事など顧みないで前へと行ってしまった。昔からそうだ、中盤まではともかく終盤になるといつも僕を引き離す。そしてゴールでへとへとになっている僕を余裕の表情で迎える。それが日常だった。

「今先頭がタスキを渡したぞ、今のままならば間に合うが油断はするな!」

 残りちょうど6キロでの監督の言葉、本来ならば全神経を傾けて聞くべきだったのかもしれない。でも今の僕には渉二の方が大事だった。その言葉通りであれば僕は間に合いそうだ、でも渉二はどうなるだろうか。後ろを振り向いてみたが、倭国大学のユニフォームを着た渉二の姿はない。渉二は隣にいた、そして今は前にいる。僕はその渉二に見せてやらなけれればいけない、大学に入ってから10ヶ月の成果って奴を。

 僕はこんなに粘れるようになった、渉二には勝てないだろうけどこれまでのように負けたりはしない。だから次に会った時はまたもう少しだけ差を詰めて、いつか勝ってやる。もちろん同じ条件、同じ場所からのスタートで。もちろん足にダメージがなかった訳ではないが致命的と言う訳ではない。予想の範囲内のペースダウンだ。


 鶴見中継所が見えた。あと1分20秒で繰り上げだと言う、これまでずっとテレビで見て来た経験が当てはまるのであればセーフのはずだ。僕の中の渉二は既にタスキを渡して僕を待っているはずだ。その渉二のためにも、僕はこのタスキをつながなければいけない。

 けれど僕がタスキを手に取って丸めると渉二の姿は消え、ダニエル先輩や濱田さんの姿が見えた。渉二はどこに行ったんだ、渉二はどこに! そうだ、絶対にこの先で待っているはずだ。目線が渉二を求めてさまよい、その分だけ足がお留守になる。何やってんだよ、お前は東京地球大学の下園亘だろ! 今の僕はこのタスキを渡さねばならない! 前を見据えなければ! するとタスキをかけている同級生の姿が見えた。アンカーは繰り上げでもオリジナルのデザインと同じタスキをかける事になるが、あんなカラカラな布に何の意味がある! そして倭国大学のユニフォームを着たランナーもそこにいる……

「渉二!」

 ガードレールの向こうにいるダニエル先輩に向けてそう叫んだと同時に、一本の布が道路に投げ捨てられた。そうだよ、渉二がタスキを渡せないはずなどないじゃないか! 僕だってやればできるんだよ! その事を見せてやるよ!

「初出場の東京地球大学、見事タスキをアンカーまでつなぎました!」

 僕が丸まったタスキをアンカーに渡した事を日本テレビのアナウンサーに告げられてからほんの25秒後、非業の運命を告げる銃声が、鳴った。


「ああ、間に合わなかったよ」

 泣いた。渉二がタスキを渡せなかったと言う事実が信じられなくて、ただ泣いた。嬉し泣きしてもいい場面なのに、なぜか悲しくて仕方がなかった。

「すみません……」

「別に構わないぞ」

「その、渉二は……高校の同級生で…………」

 中継所で赤ん坊のように泣いている僕を、ダニエル先輩は懸命にあやしてくれている。もう何を言ったらいいのか訳がわからない。寝転がっているコンクリートの冷たい床は無性に気持ちが良いはずなのに、それでも感情はまったく落ち着かない。箱根駅伝柄のタオルを汗とそれに倍する涙で湿らせながら、僕はダニエル先輩にすがり続けた。

 僕がようやく涙を涸らして立ち上がり、大手町への移動車に乗り込んだのはあの銃声が鳴ってから7分24秒後だった。なぜ正確に言えるかと言うと、その時ちょうど渉二が鶴見中継所に入り込んで来たからだ。

「やっぱり脱水症状でね、途中棄権させようか否か迷ったらしいよ」

 ダニエル先輩は重たい調子でそう言ったが、それが却って僕にはありがたかった。そうでもなければ渉二があんなひどい走りをするはずがないのだから。

 渉二とは会わなかったし、会おうとも思わなかったし、まず会えなかった。僕が移動車に乗っている間にも渉二は病院に搬送されて手当を受けようとしている最中であり、僕にはこれからアンカーを待つ仕事がある。それは今しかできない事であり、そして渉二にはいつでも会える。

「まだ時間はあるぞ」

「どこの病院かわかりませんよ」

 車を降りた僕にダニエル先輩が温かい声をかけてくれた。渉二の事だろう。

「僕のスマホあります?」

「ほらよ」

 1時間13分40秒のコースとの戦いを終え、7分24秒の涙との戦いを終えた僕の体は疲れ切っているはずなのに、指と頭はいつもより数段早く動いていた。悲しみを消化しきれたとは到底思えていないけれど、自分なりにできる事はしなければならない。

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