第5話 予選会
予選会当日。多数のユニフォーム姿の男性が集まった。
2週間前に行われた出雲駅伝を歯噛みして眺めた学校。
また箱根路を走りたいと願う学校。
僕らの様に初めてタスキを持ち込みたいと願う学校。
そして予選会と言う大勢の学校が集まる中で自分の実力を見んとする学校。
箱根駅伝の予選会に出場する学校は基本的にこの4つに分かれる。
学校から1時間かけてたどり着いた、立川昭和記念公園と言う名のこれからの戦場には選手・関係者・ギャラリーと言った人間がぎっしりといる。そんな場所に僕は、荷物持ちの先輩たちを従えながら入った。
気温は15℃、薄曇りで湿度48%風は東風が1.8mと言う環境は絶好のそれと言っていい。結果的にどうなるかはともかく、この好天をプラスにしなければならない。
「去年よりもっとすごいな」
それにしてもダニエル先輩は陽気だ。決戦を前にしてこれだけの気持ちでいられるのはうらやましい。いやいや安直にうらやましがってはいられない、この姿勢を見習わなければならない。
「ダニエルには倭国や明公の留学生たちと戦うつもりで行ってもらいたい。明公もまた初出場を狙っているからかなり激しく飛ばして来るだろう、どうか頼むぞ」
「わかりましたキャプテン」
それでいてコートを脱いでユニフォーム姿になると表情が一気に引き締まる。いつもの優しい先輩から、戦うランナーへと変わる。全く見事な変化だ。
「あっ渉二」
僕がダニエル先輩の変わりように感心しながら倭国大のユニフォームを探すと、そこには倭国大陸上部59人の最後列に立つ渉二の姿があった。選ばれたんじゃなかったのかと言おうと思ったが、久保田監督の絶対トップ通過だと言う太い声のせいか敷居が高くて仕方がなかった。
そうだ、ここにいる以上もはや渉二とは完全な敵味方だ。東京地球大が倭国の脅威になる訳はないにせよ、渉二だって僕の事を構ってなどいられない。
「頼んだぞ、亘」
代表を外れた4年の先輩が僕の肩を叩いてくれた。僕とダニエル先輩の荷物を両手に持ちながら終始にこにこした表情でここまで来てくれた先輩のためにも、本選に出場してあと4つの枠を開けてやらねばならない。
560人のランナーの中の、僕たちは前から3番目の列にいる。極彩色に彩られた様々なユニフォームの中で、自分たちの放つ輝きこそ一番強い物だと信じて疑わない人間たちが今思いをぶつけ合う。
銃声が鳴った。当然だけどこの状況ではまともに走れる物ではない。いくら陸上自衛隊の滑走路と言う横に広い空間であったとしても、前後左右どころか斜めにもぎっしりとランナーがいる中ではただ単に走る事しかできない。結局集団が大きくほぐれる事になったのは、2キロほど走ってからだった。
6分5秒。微妙に遅いが悪くはない。しばらく3分ちょうどのペースで走り続け、後はそのまま行ってしまいたい。トラックとロードで勝手が違うのはわかっているが、一度成功したやり方を変える必要もあるまい。
しかしそれにしてもランナーが多い。小学生の時から見知ったユニフォームを着て、そしてこれまでの記録会で出会った事のあるランナーもいる。ある意味、僕は既に憧れの舞台の中にいるとも言える。と言ってもそれから更に先に進むのが今の僕の望みと役割であり、チーム内でたった3人だけの単独で走る役目を与えられている以上感傷に浸っている暇もない。
当たり前だが1キロ3分ちょうどで走るランナーなんてここには山といる。乗っかって行くと言うのも悪くはない。いっそこのまま最後まで3分ペースを貫き通す事が出来れば最高だろうが、もちろんそんなに甘い事はない。どこかで落ちるのはわかっている、とは言え、それを1キロでも遅くしたい。
5キロを通過する所で、右腕を見た。15分8秒。まあ予定通りだ。そしてここからしばらく緑が一杯の立川昭和記念公園を後にし、市街地に出る事になる。どうしても殺風景ではあるが、これが僕が目指す箱根駅伝のコースだ。
「下園、その調子だ」
「そう言えば皆さんはどうなってます」
「ダニエルも濱田さんも今んとこ好調、4番手以下もきっちり走ってるよ」
先輩の声だ。5・10・15キロの所に立っている先輩たち、2年生や3年生だけじゃなく4年生もいる。濱田さんやキャプテンを含む4年生の駅伝をこれで終わりにさせる事などできない。
先輩は右手にスマホを持ちながら今僕がもっとも知りたい情報を返して来る。ファンの人たちの声援を始めとするこの喧騒の中で役目に集中できる辺りはやはり上級生だ。ああいう胆力と集中力は実に素晴らしい。後で秘訣を聞いてみたいもんだ。
9キロを通過した、27分10秒だ。ほぼ予定通りと言っていい。だがここからが本番だ。あれほど僕の周りにいたランナーも7人ほどになっている。3年生の先輩によるとどうやら今僕は47位集団にいるらしい。560人の中の10%の位置、このまま終われれば個人的には万々歳だ。
「しっかりしろ!」
いよいよ10キロの中間点が見えて来た所で、先輩たちの優しい声とは違う野太い怒声が前から飛んで来た。
「このままだと相模大に負けるぞ! 全日本に出たくないのか!」
相模大学は前回箱根本戦11位、今年の全日本予選もトップ通過と言う名門でハナっから僕らの相手ではなかった。そんな存在と競い合っているのはどこだろうか。そんな事を考える間もなく僕が10キロを通過すると同時に、レースは動き出した。
僕の周りにいた7人の選手の内1人がペースを上げ2人が付いて行き、3人がゆっくりと後退し始めた。僕はそのまま残り、残る1人と50位争いを繰り広げる事にした。この予選会に順位なんて関係ないが、一緒に走りあうのはリズムを作ると言う点でもいい。いっそこのままずっと走り込んであわよくば1時間3分切りでも狙ってやろうかとまで思った。図に乗るなとか言われても言い返せないけれど、それでもここまで来た以上と言う思いはあった。
前半に飛ばしていたランナーが落ちて来る。僕らはそのランナーを4人ほど抜きながらペースを刻み続ける。ここからが本番でありすべての命運がかかっている。残りはもはや8キロあまり、21.0975キロを走り切った時には全力を絞りつくしてやるに越した事はない。
「下園、俺たち今9位だぞ!」
先輩の声が響く。9位! おそらく10キロ地点での事なんだと思うけど、9位と言う数字は何よりも輝く宝石だった。その宝石をつかむためにここまでやって来たのだ、僕らの手でその宝石をつかみ取ってやろうと思うと、ますます力が湧いてくる。と言っても正直な話僕にはもうあまり余力はなかった。これ以上ペースを上げる力もなければ、その気もない。ただペースを刻み続けるのが精いっぱいだった。
それでもペースが落ちない事そのものは武器になる。まもなく15キロ、立川昭和記念公園に戻って来た。僕たちの赤と黒のストライプを含め、様々な色の旗が並んでいる。樹木の緑の色に負けず、かと言って押し潰すでもない旗たちは開始時とさほどかわらないそよ風に当てられながら、わずかな音を立ててなびいている。後ろがどうなっているのかはわからない。前にもランナーがいるが色しか見えない。一応ナンバーは当てられているので思い出そうとすれば思い出せるのだが。
「おいこら、このままだと全日本は赤信号だぞ!」
15キロ地点の目の前で、僕のすぐ前のランナーに向けてまたさっきと同じ怒声が響き渡った。しかしなぜ彼ばかりそんなに怒鳴られるのだろう。どこかの学校のエースなのか、確かにエースならこんなとこを走っていたら怒られもするだろう。しかし全日本、全日本大学駅伝の事だろうけどそれに出られるような学校で、あの色のユニフォームとなると……まさかと思った途端に勝手に足が動き出し、その怒鳴られたランナーに並びかけた………………渉二じゃないか!
「渉二!」
思わず声をかけたが、渉二は誰だよと言わんばかりに首を傾げただけだった。まるで他人事のような物言いだ。確かに今は完全な敵味方だしお互い全く余裕もない状態だろうが、何もそこまでしなくてもいいじゃないか。
「あの……」
なぜこんな所を走っているのか、渉二の力ならば1時間3分切りすらありえるはずなのにと言う疑問を投げかけようとした途端に、渉二は突然ペースを上げ出して僕から離れて行った。溜め込んでいただけなのか、それにしてもあまりにも不自然なタイミングだ。いやほぼ15キロ地点を通過した所だから不自然でもないが、どこか強引で奇形じみた印象はぬぐえない。僕が同じように強引なスパートをやらかしたからお返しとでも言うのか。高校時代からそういう悪ふざけめいた事を僕と渉二はやっていたからいつもの事とも言えたが、やはり何かがおかしい。
ああそうだ、あと残り6キロあるんだ。これ以上渉二の事を考えている余裕はない。15キロ地点で45分25秒、このまま行ってやるしかない。とは言ってもリズムを崩した罰はまあ簡単かつてき面に当たるもんだ。15~16キロで3分6秒かかってしまい、あわててリズムを立て直しにかかった16~17キロでは3分9秒になってしまった。
「そのままそのまま、行けるって!」
「東地大、箱根に行くぞ!」
部員たちの声が頭に響く。あと3キロ、何として1時間4分は切りたい。最後の力を振り絞ってリズムを整え、17~18キロは3分2秒まで戻した。誰に向けられたのかわからないラスト、ファイト!の声援が力を与える。たぶん味がしないだろう汗が吹き出て来るが、気にはならない。目に入った時はさすがに右手で拭ったが、それでリズムを崩す事はなかった。
ゴールが見えた。次々とランナーが入って行く。そしてなんとなく見つけてしまった、テレビカメラ。考えてみればそのテレビカメラこそ僕らを箱根駅伝予選会と言う場所に導いた物であり、また同時に僕らを支えてくれる物でもある。
1時間3分58秒、52位。一応目標としていた1時間4分切りには成功した。それから30秒ほどしてキャプテンがフィニッシュし、その後も1分足らずの間に6人のランナーがフィニッシュした。
「大丈夫でしょきっと」
10人ゴールした順番では7番目だそうだが、しかしあくまでも問題はタイムだ。濱田さんは目標の1時間3分切りに成功したがダニエル先輩は1時間2分切りに失敗しており、単独走をした3人の勝敗はほぼトントンと言っていい状態だ。こうなったら後ろの7人に託すしかない。大丈夫だと思ってはいるが、なおさら緊張する。もしこれがギリギリだったらどうだったか、あるいは全然ダメだったらどうなのか。データってのは気を大きくも小さくもさせる。
「第1位、倭国大学!」
やはりかとしか言えない。前回の惨敗は突発的な何かが起きての大ブレーキのせいでありまともならばこんな所を走っている存在ではないのだから。そのせいか知らないけど倭国大の辺りはずいぶんと静かだ。続いて2位の相模大学と7秒の差だった事が告げられると倭国大のいた辺りの空気が一挙に引き締まった。もっと大差を付けたかったのだろう、もっともな話だ。
………………そして。
「第8位、東京地球大学!」
第7位で呼ばれなかった時はかなり不安になったが、ともあれ苦労が報われた事には間違いない。僕らは素直にはしゃぎ、抱き合い、歓声を上げた。
「ライバルは明公かねえ」
東京地球大学の歴史から見れば悲願の初出場ではあるが、予選会全体から見ると僕らの存在は少し薄かった。僕たちと同じ悲願の初出場を、4位で決めた明公大学と言う存在。まさか一発シードなんて事はないだろうにせよ、ああして僕らよりずっと耳目を集めているのを見ると少しうらやましい。
「おめでとう渉二、トップ通過だって」
「………………」
とにかく予選通過を決めて浮かれ上がった僕は渉二に声をかけようとしたが、渉二は何も答えないままうつむくばかりだった。後から見たデータによれば渉二は1時間3分36秒で44位、チーム内6番目と言う素晴らしい数字だった。ちょっとは自慢してもよさそうなはずなのに。
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