第4話 ダニエル先輩

「いよいよだな」

 八月の下旬、僕と一緒に練習を終えて部屋に戻って来たダニエル先輩の鼻息は荒い。そう、いよいよ本格的な陸上シーズンの到来だ。十月には箱根駅伝の予選会がある。何が何でも、10枚しかない切符を勝ち取らねばならない。いやその前に、僕個人としてまず予選会に出場する12枚の切符を勝ち取らねば始まらない。

 29分17秒64、それがあの夏合宿の最中の記録会の渉二のタイムだった。あの後さすがだよなと声をかけてみたが、渉二は軽くうなずいたきり何とも言わなかった。あれでも倭国大の中ではギリギリ10番手だと言うから全く恐ろしい。そして、校内でギリギリ10番手なのは僕だって変わらない。

 僕が自分なりに練習してタイムを上げた以上にうちの学校のレベルは上がっている。30分4秒84と言う僕の持ちタイムは、4月の時ならば校内で7番目だった。雑草ほど伸びるのが速いとは部室の広間に置いてある漫画雑誌で見たセリフだが、今僕はその雑草の中にいる。自分自身も雑草なのに、その雑草が厄介で仕方がない。

 いやしかし、考えてみれば僕自身高校の時既に5000mで15分を切れる程度には走れていた人間だ。その点では雑草と言うほど下から這い上がっていると言う訳でもない。なんとも中途半端で面倒くさい立ち位置だ。

「ダニエル先輩はチーム内での自分の立ち位置ってのをどう思います?」

「日本に来ていろいろ勉強して覚えた言葉で言うと、暫定一位って奴だね」

「先輩にとってその暫定一位を脅かす立場って誰ですか?」

「全員だよ」

 ダニエル先輩は最初からエースと言う立場で決まっているからいいよなと言うひがみとやっかみを込めた僕の質問に対し、ダニエル先輩は暫定一位などと言ういつ覆されてもおかしくないと言う意味合いの言葉をぶつけて来た。

 慢心もなければ、驕りもない。あくまでも自分がただの部員である事を自覚した上で、きちんと自分の役目を果たそうとしている。予選ではタイムを稼ぐ立場であり、本選に出れば花の2区に代表されるようなエース区間を走る事になるだろうと言うのにだ。勢い任せで続けてぶつけた愚問にも、ダニエル先輩は全く姿勢を崩す事なく答えてくれた。

「僕は自分の立ち位置ってのがよくわからなくて」

「期待の新人じゃだめか」

 期待のだけ余計だと思わなかった訳でもないが、言われてみると腑に落ちてしまう。僕には今年ダメでもまだ三回チャンスがある。あわてる必要はそんなにないはずだ。今年に関しては選ばれたら幸運ぐらいのつもりで、まずは目の前の練習に励むしかないんだろう。僕は改めてダニエル先輩と同室であると言う幸運に感謝したくなった。

「でもな、またラーメンか?」

「いや、その…………」

「人の事は言えないけどな」

 合宿中、ラーメンは一度しか食べていない。ダニエル先輩と僕のためにわざわざ合宿所の人が作ってくれたその一度だけだ。結論から言えば、おいしかった。だがいつも授業や練習の前後に食べるそれとは、何かが違った。


 栄養のバランスとか、まるで考えていないようなゴリ押し。懐の寒い人間向けの、コストが第一味が第二栄養は第三の学食のラーメン。言葉は悪いけどだいたいそれで間違っていない。合宿を終えてから大学に戻ってののべ十日間の練習日で、僕は五回もそんなラーメンを食べた。

「高校時代、キミからラーメンの話なんか聞いた事ありませんよ。それがなぜまた」

「大学の先輩に勧められて食べたらいつの間にかね」

「ダニエルさんですか」

「なんでわかるんだよ」

「一年生の時から日本になじもうとしていて、それで監督や先輩・同級生と共にいろいろな食事や習慣を学んだんですかそれで気に入ったのがラーメンで、その結果すっかりはまってしまって」

「去年の東京地球大学なんて予選13位だぞ、そんな情報どっから仕入れたんだ」

「任天堂大学のOBが監督を務めるとなった時からある程度注目はしていましたから」

 僕がある意味ですっかり変わってしまった中、浅野は相変わらずだ。ちょっと電話してちょっとラーメンの事を話したら、すぐこうなった。一体どこからこんな情報を仕入れて来たんだろう。高校時代あいつは塾があるとか言う理由で帰宅部だったが、今思うと本当は大学駅伝の私的取材をしていたんじゃないだろうか。あんなガチガチの優等生がそんな事をしてたと知ってたら先生たちはどう思っただろうか、まあ僕らとの付き合いからある程度は察してくれるかもしれないが、少し印象を改めた事は間違いない。もちろんこれは憶測の域を出ないが、実際にそうでもしていなければ浅野がここまで詳しい理由がわからない。情熱なのだろうか、僕らが実際に走ろうとするのと同じぐらい浅野も情熱を持っているのかもしれない。

「なあ浅野、もしお前に渉二並の体力があったら箱根路を走りたかったか?」

「わかりませんね、そうなってみない事には」

 だが情熱と言ってもいろんな形がある。僕らが走ろうとするのと同じぐらい、浅野には情報を集めようとする情熱もあるのかもしれない。たとえ陸上部に入っても、浅野はマネージャーになる道を選びそうだ。浅野がスケジュールを管理して、僕と渉二が競い合う。それが最高の関係なのかもしれない。

「そう言えば渉二はどうした?」

「最近話してませんね、多忙で」

「そうか」

「ラーメンはほどほどにしてくださいね」

 あいつも練習に励んでいるんだろう、そう思うと負けていられないと思えて来る。便りの無いのは良い便りだと思う事にしよう。


「言っておくけど、ダニエルだって当確じゃない。これまでさんざん言って来たように、今日の一発勝負の結果次第で予選会のメンツが決まると考えろ。覚悟はいいな」

 九月半ば、部内での予選選抜レースと称しての20キロ走が行われた。箱根予選の雰囲気に慣れさせると言う事で32人全員いっぺんに走る事になる。言うまでもなく上位12人が箱根予選を走る事ができるわけだが、12番手を狙おうとか言うせせこましい発想でやっていては12番手にもなれないだろう。

 特攻と言う訳でもないが、もしここで失敗すれば僕の1年生の陸上シーズンは95%終了する事は間違いない。だから、さすがにダニエル先輩と濱田さんにはついて行かないにせよ、最初の10キロを自分のベストタイムに近い30分10秒で走ってやった。暴走かもしれないと思わなかった訳ではないけど、これを逃せばもう来年のこれのための一年間になるかもしれないと思うとためらいはなかった。

 気が付くと前に3人、周りに4人しかいない。後ろは離れている。このままのペースを維持してやればいける。実際にできるとは一言も言えないが、練習の通りに走ればなんとかなってしまう、そのはずだ。不思議な事にそのはずだと思い込むと、オーバーペースで入った事など嘘であったかのようにペースが落ちない。やがて、一緒に走っていた先輩たちが次々にこぼれ落ちて行った。なぜか自分が落ちないで周りだけが落ち、いつの間にか一人ぼっちになっていた。

 迷う事は何もない、走ればいいんだ。走るためにここにいるんだから、他に何のしようがあると言うのやら。その先に待つ箱根路の事を考えると、重たいはずの足が妙にすいすいと動いた。


 1時間0分40秒、チーム内5位。結局残り1キロで反動が来てしまい3分16秒かかったのはいただけないが、望外の戦果であった事に変わりはない。

「これはあくまでも予選の参加者を決めるためのレースだからな、もちろんまず予選で10位以内に入り箱根路に駒を進める事が重要ではあるが、今からその先の事を考えておかねばならない。よって予選参加者の座を勝ち取れなかった者たちも決してあきらめるな。そして見事わが校の代表となった12名よ、君たちには是非とも新たな歴史を作ってもらいたい。去年よりたった3つ上げればいいだけだ、今の君たちならばできる」

 去年、東京地球大学は予選で13位に入った。10位とは5分40秒の差があったもののその前の年は18位で10位と11分30秒の差だったと言う事を考えればずいぶんと強くなったと言える。

「おめでとう」

「濱田さん、ありがとうございます!せいぜい、予選でも迷惑をかけないように……1時間4分切りを目指して頑張ります」

「監督とテルが言ってたぞ、ダニエルとオレと、そしてお前は単独走で行かせたいって」

 とにかく部内5位のタイムで走り見事予選参加メンバーとなる事が決まった僕に真っ先に声をかけてくれたのは、濱田さんだった。3年と言う学年差のせいか、ダニエル先輩のように同室でないせいかわからないけど、濱田さんと言う存在はなんとなく遠かった。しかしそれにしてもテルってのはキャプテンの内原さんのあだ名だが、そのキャプテンと監督が僕に2人のエースと同じことをさせようと言うのか。全く驚いた。

「そんな」

「不安でもあるのか」

「今日は開き直って走っただけですから」

「じゃあずっと開き直ってろ、いいな」

 開き直り続けろ、それがエースである濱田さんが僕に望むレースなのか。投げやりと言うには心がこもり過ぎているその言葉に僕はなんと答えていいかわからなかった。

「おめでとうございます。立川で東地大代表に決まったに値する走り見させてくれませんか?まあ嫌と言っても行きますけど」

 実に治郎らしいメールだ。徳政大学だって前回の箱根駅伝は12位、立川で行われる予選会を突破せねば箱根は走れない。仮に僕がメンバーに入っていなかったとしても治郎は立川に行っただろうし、あるいは徳政大学がシード権を持っていたとしても行ったかもしれない。

「三重への旅費は大丈夫かい」

「さすがにそれは…まあ来年には島根への旅費を工面したいですけど」

 徳政大学は僕らと違い愛知から三重で行われる全日本大学駅伝にも出る。箱根予選からたったの3週間後の事であり予定を合わせるのも大変だろう。この辺りを気にしなくていいのは挑戦者様の特権でもある。それに引き換え常連校である徳政大学は来年の島根、つまり出雲駅伝の事さえも考える事ができるのだからうらやましい話だ。僕だって一度は東京地球大学のユニフォームに出雲駅伝を走らせてみたい、でもそのためには箱根駅伝本戦で10位に入らなければならない。遠大なる道のりだ。

「渉二はどうしたんだ?治郎ならわかるだろ?」

「予選に出る事は決まったみたいなんですけど、それ以上はわかりません。倭国も全日本に出ますし、東北の方で記録会に出場していた事は確認してますけど何せ1500mだけだったので」

 1500mってのは長距離って言うより中距離だ。僕自身記録会のような舞台でそんな距離を走った事もないし、学内でもその距離の記録を持つランナーは多くない。もちろんスピードがあるに越した事はないだろうが、なぜわざわざ1500mなのか。他の距離で何か記録会に出た事はないのかと送ってみたけど僕たちと一緒に走ったのが最後っぽかった。

 本人に聞いてみようかどうしようか迷った。あの久保田って言う倭国大の監督の事はよく知らないし、それぞれの学校にはそれぞれのやり方があるのだろう。僕がうんたらかんたら言っても始まらない話だとわかってはいるが、それでもどうしても気になる。

「まだそこまではわかりません。ごめんなさい」

 全日本に備えているのだろうかと思って送ってみたが、当たり前のようにそんなメールが返って来た。渉二が倭国大の中でどんな事をしているのか、僕は何も知らない。大学と言う名前がある以上、同じように学問をし同じように練習をしているのは間違いないはずだ、それでいいじゃないか。まずは目の前の課題を何とかしなければならない。そう、東京地球大学を箱根路に立たせるための練習が大事だった。


 ――開き直れ。濱田さんに言われた言葉だ。だがどうやって開き直ればいいんだろう。駅伝って奴は、自分ひとりでするもんじゃない。自分の遅れが、全員に跳ね返って来る。マラソンなら自己責任の四文字で終わるが、駅伝の場合は別だ。

「亘」

「渉二!」

「ショウジ?」

 どうしようと思っていた僕の肩を叩いたダニエル先輩に向かって、僕は渉二と言う名前を口にしてしまった。高校時代、迷える僕の背中を押してくれたのは渉二だった。ダメならダメでいいじゃねえか、ケツは俺が持ってやる。そんな言葉をいつも投げ付けてくれた。だが、ここに渉二はいない。それどころか、敵味方の関係だ。

「大坪渉二……夏合宿で一緒に走った亘の親友」

「親友って言うか、かつての仲間です」

「あの時見たけど、あまり部の中でなじんでいるようには見えなかったぞ。何か常に焦っている感じで、一刻でも早く強くならなければって。確かにタイムは早かったけど、それでもほんの少しの満足もないって顔をしてた。亘は満足したか?」

 内容は良くなかったが、タイムとしては満足。それがあの夏合宿の記録会の僕なりの結論だった。渉二のあの時のタイムは29分20秒74、5組の中ではトップであり倭国大学全体でも8番目だった。高校時代の時から変わらないポテンシャルだ。自分なりに必死に練習して来たはずなのに、差は相変わらず大きい。

「もしボクが失敗したら、その時は頼む。そしてその逆も、だ」

「はいっ!」

 お前が失敗しても、自分がその分を返してやる。そうなのだ。駅伝とは一人で他の全員に負担を押し付けてしまうような事態が起きる代わりに、一人で他の全員のミスを帳消しにもできるスポーツなのだ。半年近く過ごした仲間たちに、ちょっとばかり頼ってもいいじゃないか。


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