第3話 再会

 ――さて夏合宿。信州の合宿所で二十日間、陸上漬けの日々を送る事になる。

「さて、この合宿において各自目標は定まったかな。その目標を目指して私と共に頑張ろう。とりあえず十日後には記録会もある。後半はその記録会の結果を見て目標を補正して行く事になるかもしれないけど、とりあえずは目先の目標を達成する事が第一だ。自分を大事にしてこそのチームワークだからな。さあ行くぞ」

 10000m30分10秒切り、それが僕の今回の目標だ。ほんの5秒かもしれないけど、その5秒が何より遠い。今年の箱根駅伝だって、17位と18位の間にはほんの5秒の差しかなかった。これがもし優勝やシード権争いとなると大騒ぎだっただろう。ほんの5秒のために、僕たちは戦っているのだ。

 毎日フルマラソン並みの距離を走る。休みはない。一応20キロぐらいしか走らない日もあるが、その日は主に筋トレで終わる。この日ばかりは学業すら忘れて、ただただアスリートたる事に専念する。いまいちピンと来ていないが、おそらく今僕らは実にぜいたくな時間の使い方をしているんだろう。だからこそ1日1秒たりとも無駄にしたくない。

「前進できたと思う者は手を上げろ」

 1日の練習が終わる度に、僕たちは監督からそう言われる。ダニエル先輩のように毎日手を上げる人間もいれば、濱田さんのようにいっぺんも上げない人間もいる。そして僕の様に上げたり上げなかったりする人間もいる。僕はそれほど複雑な事は考えていない、単に昨日よりよくなったと思えば手を上げ、そうでない場合には手を上げないだけだ。

「練習は嘘を吐かないって偉い人が言ってた、実際に昨日よりほんの少しだけ速くなれた気がするから毎日手を上げている」

「前進できたと思ったらその瞬間満足しちゃいそうな気がするんだよな、だからはっきりとした成功の証が確認できるまではイエスと言わない事にしている」

 2人の先輩の判断は好対照だ、そしてどっちも正しいと思う。個人タイムそのものは、思惑通りに伸びている。きちんとした記録会でないが30分10秒を切る事もあった。30分10秒を切れば30分5秒、30分5秒を切れば30分ちょうどとなっていくのが世の中の流れだろう。でもそこまで急速にふくれ上がって行くのは僕自身怖い。だからあくまでもこの合宿の目標は30分10秒切りだ。高校時代から暴走して止まると言う事を繰り返して来た僕だからこそ、同じ轍は踏みたくない。


 やがて来た記録会の日。一緒に走るのはそう、倭国大学だった。倭国大学にも留学生がいる。ステファン・ジョセフと言う3年生。ダニエル先輩よりさらに背が高くてがっしりとした、いかにもと言った感じの長距離ランナー。そしてもちろん、渉二もいる。

「渉二、久しぶりだね」

「亘か、卒業式以来だな。浅野は元気か」

「元気だよ」

 3ヶ月ぶりとは言え渉二の口調はどこかよそよそしい。もう高校の同級生ではなく、倭国大学の一員なんだろう。僕はまだ東京地球大の下園亘になり切れていないと言うのに、ずいぶんと立派だなと思う。どこか子供っぽかった顔にも貫禄が付いている。

「おい大坪、旧友に再会できて嬉しいのはわかるが今日は一つの勝負なんだからな」

「さすが久保田監督、手厳しいですね」

「負けませんからね」

 倭国大学の久保田監督、スパルタと言う言葉が似合いそうないかにも昭和の男と言った感じの人。その方針で倭国大学を率いて10年あまり、きっちりと結果を出しているだけにその言葉は重い。

 東京地球大の陸上部員は32人、倭国大は59人。やはり数の差は大きいし、当然レベルも違うだろう。まあ目標が違う以上仕方がなくはあるが、改めてかつての同級生が遠くに行ったような気分になって来る。

 とりあえずの練習走で体を慣らした僕ら91人のランナーが、ずっと使っている一周400メートルのトラックを取り囲んだ。15または16人をひと単位として合計6回走る事になる。

 タイムの遅い順に並べられた結果、ありがたい事にと言うべきか僕は5組だった、渉二と同じ5組だ。

 ピストルの音が鳴ると同時に、ランナーたちが走り出す。そしてどの組でも、数で倍する倭国大のランナーが実力でも東京地球大のランナーを離して行く。全敗と言う事はないにせよ、4組までの間に東京地球大のランナーが3位以内でゴールした事は1度もない。

「渉二、頑張ろうね」

「そうだな」

 この倭国大すらも、学生陸上界全体で見ればさほど厚くもない壁であると言う事を認識したくなかった。もし倭国にいたらそれだけで打ちのめされていたのかもしれないなと思うと共に、自分のポテンシャルの低さを感じずにいられなくなった。

 いよいよ順番が来た。一緒に立ち上がった渉二の顔は完全に戦士のそれであり、高校の時には見なかった顔だった。それに対する事となる僕の目標は少し欲張って、30分5秒切りとするか。


 銃声が鳴った。最初の1周は思い切って、意図的に1分10秒で走った。このままのペースで行きたいがそれは無理だ。後半落ちる事を加味しての1分10秒だ、情けないかもしれないけれどそれが現実だ。

 渉二も1分10秒だった。25周連続1分10秒で走れば29分10秒、まぎれもない一流ランナーの仲間入りだ。渉二ならばできる気がする。付き合えれば付き合いたいが、今の僕では多分どこかで止まると思う。渉二の持ちタイムは確か29分22秒42、これまでにないペースで走っているのは向こうも同じかもしれない。2周目も3周目も、僕たちは並走した。気が付くと、東京地球大のランナーは誰もついて来ていない。倭国大学のランナーは渉二を含めて4人もいる。

 仲間意識と言う訳でもないが、さすがにまずいと思った。バテバテになって止まる訳には行かないので、6周目からペースを落とそうとした。だがそのペースを落としにかかろうとした僕の左半身が、一瞬寒くなった。あわてて左を向いたが、そこにいたのはただの渉二だった。高校時代と変わらない、豪快な高笑いの似合う鷹揚な渉二だ。そして他のランナーは右と後ろにしかいない。

 ただプレッシャーを感じただけだ、気にする事はない。つとめて心を落ち着け、予定通りにスローダウンした。結局7周目から今の自分にとって無理のないペース、1分13秒ぐらいに落とした。そのペースで行ければ目標は達成できるはずだ。渉二は案の定離れてしまったが、気にしても仕方がない。

 渉二の背中は大きい、倭国大の2年生以上の人たちと並んでも負けないぐらい大きい。標高の高い信州とは言え真夏の太陽は容赦がない。僕や渉二の背中にも容赦なく照り付ける。そのせいかわからないけど、渉二の背中が少し曲がって見えてしまう。陸上選手とは思えないような歪んだ背中。いくら実力があるとは言え1年生にして59人の中の上から2番目のブロックに放り込まれた重みのせいだろうか。

 いかんいかん、他人の事を考えている暇はない。いくら渉二と言えどここではただの競争相手だ。まず自分のペースを守らなければならない。しかし足が重い。単に最初に飛ばし過ぎただけだと思いたい。

 遠く離れたはずなのに、なぜか視界に映り込んで来る渉二の曲がった背中。そんな訳はない、渉二はちゃんと姿勢を正して走っているはずだ。僕はまだ16周目だと言うのにムキになってペースを上げにかかった。そして渉二の背中に少しだけ近づくと、やはり渉二の背中はぴしっとしていた。今まで見えていたのは一体何だったのか、安堵してペースを元に戻そうとすると、また渉二の曲がった背中が見えて来る。そんなはずはないといくら思おうとしても、きれいに輝くグラウンドや青い空の上に覆いかぶさるように見たくもない絵が重なって来る。

「ああっ!」

 思わず、そんな声を出してしまった。その声と共に渉二の幻影は消えたけど、同時に残っていたスタミナも消えた。最後の3周はほとんど気力と勢いだけで体を動かしている状態になってしまい、ゴールと同時にばったりと倒れてしまった。


 30分4秒84。目標よりも良いタイムだが、渉二を含む倭国大のランナーには全く歯が立っていない。しかもレースは正直バラバラでまったく冴えない物だ。

「長距離ランナーってのは己の孤独との戦いだ。時には不安になる時もある。その不安を打ち消したかったんだろ? 大した事じゃない」

 声を出した事について監督は肯定的だったけど、あんな余計な事をしなければ30分切りすら可能だったかもしれないと考えると腹が立って仕方がない。

 合宿の後半戦、僕は精神統一に努める事にした。余計なことは考えない、ただ走る事だけを目的に走る。頭の中にはペース配分だけ、そして決して無理はしない。スタミナは最後にきっかり使い切る。そういう正確な走り、正確な計画。これは陸上だけじゃなく万事に通じる理屈じゃないだろうか。

 後半戦は監督の質問に対し、僕は毎日手を上げた。自分自身、確実に一歩ずつ近づけている気がしたからだ。箱根に行くためにはつまらない雑念にとらわれている暇はない。それを改めて感じられただけでもこの合宿には大変大きな意味があった気がする。

 だがしかし、目一杯の練習を積んだ総仕上げとしての最終日・10000m走のタイムは——30分7秒42。


 全く不思議だ。一応目先の目標である30分10秒切りは達成したのでよしとしておく事にして目標は達成できたと思うかと言う監督の質問には手を上げる事にしたが、どうにも気分は晴れない。

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