第2話 東京地球大学の生活
東京地球大学のキャンパスは帝国大学や2年前に出雲駅伝を優勝した湘南大学、初めて三冠を獲得した東方文化大学のそれより小さい。グラウンドをはじめとする施設も明らかに小ぢんまりとしていた。それでもなお、今の僕にとっては他の学校にはなかった魅力がこの場所にはあった。
陸上部員は2~4年生が21人、1年生の内推薦入学により既に練習を積んでいた者が4人、僕の様に一般入試から入って来た者が7人。合わせて32人。もちろん自分より強い相手がほとんどである事はわかっているし、その前にまず箱根駅伝本戦に東京地球大学が出られる保証もない。とは言え、32分の16と考えれば可能性は十分にあるように思えて来る。
「さてと、私が監督の神原進だ。キミたちも知っての通りこの東京地球大学は若いチームだ。私自身もまだ箱根を走ってからまだ15年しか経っていない新米だ。その事だけが取り柄の若造ではあるが、どうかついて来てもらいたい」
箱根駅伝優勝二けたを数えている任天堂大学で1年生から箱根路を走り、ゴールテープを切った事もある名ランナー。指導者となってからは4年目、監督としては2年目。いかに学生ランナーとして名の知れた存在であっても、指導者としては新米である。もっとも4年生にとっては新米指導者ではなく、4年間ずっと共に戦って来たある意味での同志である。
そんな21人の先輩と神原監督やコーチを含む先人たちの中で僕の目を引いたのは、神原監督でも正月に素晴らしい走りをして学生連合のタスキをつなぎ切った濱田さんでもなく、真っ黒な肌にスキンヘッドで白い歯がやけに際立つ人物だった。事前に調べていなかった訳でもないが、あらためて自分と同じ東京地球大のユニフォームを着ている姿を目の当たりにすると目を奪われてしまう。
「どうも、東京地球大学2年生、ダニエル・ハートレー・ブレイクです」
ダニエルと言う名前の先輩は極めて流ちょうな日本語と和やかな笑顔で挨拶した。去年の予選会全体で3位と言う存在。いやそのタイムより、年上であり僕より身長が10センチ近く高いと言う事実以上に、ダニエル先輩の存在は大きく見えた。
何十年物の学生寮、後で調べてみた所東京地球大学と同い年だと言う学生寮。古めかしさが味なのかもしれないが、土壁に畳と言う部屋はまるでお父さんが生まれた頃ぐらいの部屋だ。畳の部屋なんか家には一つもなく、中学生の時に両親と行った温泉旅館で見たのが今まで最後だった。そんな部屋だと言うのに、畳の香りだけは実にいい。そんなとこに金を使うならもっと他のもん作れよと思わない訳でもないけど、きょうび新しい畳と言うのも貴重な気がする。
しかし、確かに今の東京地球大学陸上部の新1年生の数は11人だ。同じ学年でペアを作り切れない以上、1人は上級生と一緒の部屋になってしまう運命だった。しかしそれがなぜよりによって僕なのか、そしてその同居人がダニエル先輩とは。
「よろしくお願いします。いいタイムを出すにはどうしたらいいですか」
「ここの学食のラーメンはおいしいよ」
何を話したらいいのかよくわからない、とりあえず共通の話題である陸上について話を持ち掛けようとしたらそんな事を言われた物だから驚いた。
そうなんだ。国籍とかうんぬん以前に相手はこの大学の先輩なんだ。いろいろと教えてくれる先輩なんだ。そう思うと一挙に肩の力が抜けてしまった。畳に転がるダニエル先輩の姿は僕たちよりずっと日本人らしい。日本に来て一体何年なのかは知らないが、まるでこの国で生まれ育って来たかのようになじんでいる。
次の日、いよいよ本格的な練習が始まった。高校とメニューが決定的に変わっている訳でもないが、やはりレベルが違う。5000メートル15分切りだなんて、高校では2番目でもこの大学では16番目だ。
「じゃあペース上げて行くぞ」
神原監督の指示によりダニエル先輩や濱田さんがペースを上げて行くと、ついて行くのがやっとになってしまった。一人落ち、二人落ち、そして僕も振り落とされた。
「まずは自分の身の程って言う物を知る事が大事だ。練習は完全に自分との戦いであり好走するのも失敗するのも自分のせいだ。相手の前に自分に勝たねばならない」
この日、午前中だけで15キロ以上走った。4月の頭だと言うのにやけに汗が出る、そしてこれが日常になるんだろう。その事に慣れなければいけない。
学食に入った僕の前に出されたのは、しょうゆ味の透き通ったスープが特徴的なラーメンだ。具こそネギとメンマぐらいしかないがかえってそれがいいと思う。味は濃い目だけど僕たちのような人間にはそれでいいのかもしれない。300円でこれを出されたら毎日食べたくもなる味だった。ダニエル先輩がこのラーメンを好きになるのもわかる気がする。
「ダニエル、ほどほどにしておけよ」
「そんな事言っても、練習の後のラーメンは最高だし」
濱田さんの言う事はもっともだ。僕らもアスリートの端くれである手前、食事にも気を使わねばならない。野菜も肉も魚もまともに入っていないこのラーメンだけでは栄養のバランスは良くない。とは言うものの、こうして体に染みわたって来る味の前ではそんなお説ごもっともな理屈は吹っ飛んでしまう。明日からは濱田さんの言うようにバランスの取れた定食にするか、同じラーメンにせよサラダか煮物でも一緒に頼むとかしてみよう。
それにしても大学生って奴は予想外に多忙だ。全くこの環境になじめない内にいきなり記録会だと言う。もちろん勉強もしなければいけないし、バイトも探さない訳には行かない中でだ。
「この記録会の意味は大きいぞ、伊勢路がちょこっとだけ見えるかもしれない」
伊勢路とは全日本大学駅伝、名前通り全国代表のランナーたちが集う11月に三重県で行われる駅伝。もちろん箱根駅伝に出た事もない東京地球大にはまだ遠い場所だが、それでも予選会ぐらいには出たい。10000メートルで上位8名の平均タイムが大体30分を切らねば予選会には出場できないと言う、いくら上位8名の話とは言え僕らだって全く無関係ではない。
「ちょっと暇ができたんで来ましたよ、徳政には是非とも伊勢路を彩ってもらいたいですからね」
そして何より浅野治郎の存在だ。徳政大の応援ついでにとか言っているけれど多分単に見たいから来たんだろう。全く、こういう所は実に治郎らしい。
ピストルが鳴った。1キロ3分ペースで行こうと思ったが、やはりどうしても力が入ってしまう。下手に意識すると却って崩れるし、かと言ってダニエル先輩について行こうだなんて考えるほど馬鹿でもない。結局、事前の予定より1秒ほど早いペースで行く事になった。それにしてもそこいらへんの高校生に産毛が生えた程度の人間とは違う走り、仲間内での練習とは違う真剣勝負であり、誰も配慮はしてくれない。他のランナーもここで一つの指標を残そうと懸命だ。しかしポテンシャルの違いって奴はどうにもならない。自分のペースで走った所で相手はもっと早いしどんどん背中は遠くなる。そしてそれ以上の問題として、他のランナーのようにこの競技会に確固たる目標などなく、なんとなくで出た僕とは意気込みが違う。自分と同学年の人間たちさえも、まるでこの舞台こそが真剣勝負であるかのような目つきをしている。後から治郎にいい目をしていますよと言われたけど、正直そんな気分では走っていなかった。
30分15秒84。自己ベストをほんの3秒ほど更新した。練習とタイムは嘘を吐かないとか誰か言っていたけど、正直その言葉も疑わしくなって来る。まだ練習が体になじんでおらず、意気込みも真剣だったとは言いがたい中でのこの結果。ダニエル先輩と比べると1分30秒、濱田さんと比べても50秒以上遅い。だからこそモチベーションが上がり大学レベルの練習についていけるようになればとも言えるけど、現時点では正直自信がない。
「もしかしたらがあるかもな」
監督は明るい顔でそう言ってくれた、なるほどこれで部内では10番目のタイムだ。箱根予選の枠は12個、このままこの順位を保てば予選を走れるだろう。とは言えそんなのは一時の話に過ぎない、
寮に帰り、古めかしい和室に座り込んでこの部屋に似つかわしくないスマホを触っていると現実と言う奴は否応なく襲いかかって来る。前回優勝の太平洋大学の10番目のランナーのタイムは29分10秒42、全くケタが違う。よそを見たらきりがないにせよ、濱田さんでさえレギュラー入りできないかもしれないと考えると恐ろしくなる。
「良かったな」
そんな僕の肩を、ダニエル先輩は強い音で叩いてくれた。明らかにプラスの言葉を吐きながらのその仕草は、間違いなく「先輩」のする事だ。確かに上位校との格差は果てしないが、自分たちには自分たちの目標がある。その目標のために戦えばいいじゃないか。こんな僕でも戦力になれるチームなんだ、僕はかすかに残っているい草のにおいをかぎながら畳にうつぶせに横たわった。
6月のある日。やったと思うと同時に、あーあとも思った。東京地球大学は見事、全日本大学駅伝予選の出場権を獲得した。と言ってもタイム順で並べると20個の枠の中の16番目であり、そして僕はエントリーから漏れてしまった。ダニエル先輩と濱田さんとその他大勢。それが東京地球大の現実だった。湘南大学や東方文化大学と比べると明らかに貧相だ。そんなチームの10番手と言うのが僕の現状だ、とは言ってもほんの10秒詰めていれば僕は予選に参加できていた。その10秒こそが遠い事はわかっていても、正直悔しかった。
予選会の会場に渉二の姿はない。前回の全日本大学駅伝で6位になった倭国大学には予選なんて物はないから当たり前だが、治郎はいる。
「大丈夫ですよ、ちゃんと課題にめどを立ててから来てますから」
「そういや渉二はどうなんだ」
「ああはい、一度記録会に出て29分20秒ちょっとで走ってましたね。それでも全日本はかなり微妙だなってだけ言ってましたけど」
「倭国大学はすごいよな」
「下園君もこの前自己ベストを更新したんでしょう」
まったく、いちいち治郎のスケジュール管理は正確だ。そしてそれ以上に渉二の走りは素晴らしい。別世界と言うには近すぎ、一緒の仲間と言うには離れすぎている今の僕と渉二。そんな僕たちの間に立つのが治郎だ。治郎は本人がそのつもりかどうかはわからないけど、僕と渉二の距離を広げないでいてくれている。口に出して言うつもりはないけれど、後でありがとうなってメールでも打っておいてやるか。
さてこの日の僕の仕事はほぼいる事だけだと言っていい。8人の代表の走る様子を見ながら、タイムを確認したりレース後にドリンクを手渡したりするぐらいだ。しかし1組の段階で、もう通過ラインである9位と1分の差がついてしまった。トップとはもう2分以上の差がある。何やってるんだと言いたいが、その何やってるんだと言われてしまうような人間に勝てないのが今の僕だ。
結局最後にダニエル先輩と濱田さんが盛り返してくれたものの、結果は15位。トップとは6分、9位とは2分40秒の差がある。単純計算で1人20秒詰めなければいけないと来ている。僕で言えば1年の間に30分を切れと言う事か。まったく遠大なる道のりだ。
「確かに去年よりは一歩前進できた、だが残念ながらこの結果は、今の東京地球大学が関東の中では21番目だと言う事だ。あと一歩、もう一歩だけでもいいから前進する事が大事だ。とりあえず自分の次の目標を考える事にしよう。では解散」
神原監督の表情は複雑そうだった。2人のエース以外のタイムを見てみると、各組40人の中で35位より上のランナーが一人もいない。去年は18位だったから確かに前進したと言えるが、こんな調子では2人の貯金を使い尽くしてしまうのが落ちだろう。関東で21番目と言う数字は20校しか出られない箱根を走れないぞと言う意味が籠っているんだろうけど、もし仮に14位=20番目だったとしてもこれで安住していては駄目だぞと監督は言っていただろう。僕たちが何とかしなければいけない。
寮生活となるとどうしても付き物なのが様々な当番だ。うちの寮では掃除や炊事に洗濯買い出しなどの雑用は学年など関係なくほぼローテーションで回されているのでそれほどこき使われている感じはないが、それでも時になぜだよと思う事もある。
「お前さ、暇な時って何を考えてるの。俺はやっぱりキューちゃんの事さ」
「キューちゃんってあの高橋…」
「落ち着け下園、こいつの言うキューちゃんってのは彼女の事だよ」
「そうだよ、安宅川由紀ちゃん! 通称キューちゃんって言う可愛い子でさ」
だけどこんな雑談を聞かされるとそれも悪くないなと思えて来る。しかも話によればその安宅川由紀って言うのはゲームのキャラクターらしい。そういう趣味も余裕も今の僕にはないけれど、やはり余裕と言う奴がないと人間はいけないとも思う。勉強して練習して雑用もしてとなるとほぼそれで終わってしまう。バイトぐらいしたいなとは思うけどなかなか時間も取れない。
「そのキューちゃんって子が先輩の癒しなんですか」
「お前の癒しはラーメンだろ」
「そうだよな、キャプテンや濱田さんからも言われてるだろほどほどにしとけって」
確かにその通りだ。大学に入る前から何百杯と言う単位で食べて来たはずのラーメンなのに、ダニエル先輩から勧められたラーメンはこれまでのそれとは違う味だった。バランスの取れた食事にしろよといくら勧められても、どうしてもラーメンばかり頼んでしまう。正確には数えていないが入学してから今まで三ヶ月ほどの間に確かラーメンを二十杯ぐらい食べている。そのせいかラーメン以外を頼むとあらどうしたのと言われるようになってしまっていた。そんなにラーメンが喰いたけりゃ近所の店にでも行って来いよと言われた事もあるが、言われた次の日にいっぺん行ったきりだ。うまいまずいではない、値段が高いのもさる事ながらどうも空気が合わない気がして来る。よくあるラーメン屋のはずだったのに全く変なもんだ。
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