35位の青春

@wizard-T

第1話 進路

「お二人はもう決まっているんでしょう?」

「まあ一応な。それでも他にも三つほど大学を受けるつもりでいる」

「僕も同じくらいかな」

 十二月らしからぬぬるい空気が漂う教室の片隅に固まっていた、僕たち三人の男子高校生の中で一人だけ明らかに痩せている、ともすれば年寄りくさく感じるような黒縁メガネがよく似合っていた治郎が僕と渉二に向かって話を振ると、僕らは似たような調子で言葉を返した。


 陸上部のエースとその同級生である僕、あと三ヶ月でこの学校を去る身でありもちろんとうの昔に部活は引退していたがそれでもなお自主練と言う名の走りは続けていた。スポーツ推薦だなんて気取った物を取るつもりは僕にも渉二にもなかった。必死に勉強する事が高校生として当然の事だと思っていた、もちろん成績は別物であり行ける大学と行けない大学がある事はわかっている。

「浅野、お前はどうするんだよ。やっぱり徳政大か?」

「徳政とか中心とか、あのあたりのレベルを狙うつもりです。一応本命は徳政ですけどあまりこだわりはありません」

 徳政大学や中心大学に入る事が出来るのは年間2、3人。大学に行かないで就職すると言う生徒もクラスの3分の1ほどいる。それがこの学校のレベルだった。その2、3人である浅野治郎と言う優等生と、学業成績では遠く及ばない二人の陸上部部員と言う組み合わせは一見アンバランスだったけど、その事を指摘する人間は校内に誰もいない。

「俺の本命はやっぱり倭国だな」

「渉二なら倭国でも戦えるよ」

「まあな、でもやっぱり学生としてきちんと勉強もして、その上でちゃんと陸上も頑張りたいんだよ」

 5000mのタイムで14分20秒を切るタイムを持っている高校3年生は、今日本に35名しかいない。その内の一人がこの渉二だった。もちろんその実力を買って彼を自分の大学に欲しいと願う人は多かったが、それでも渉二は一般入試から大学に入る事を決めていた。

「担任からも今の調子ならば8割は通るって言われてるしな、まあ後は言っちゃ悪いけど正直滑り止めよ」

「その滑り止めもまた渉二君を欲しがってる所ばかりですね」

 周旋大学、帝国大学、湘南大学。倭国大学と並んで、世間的知名度の高い大学。その4校が渉二の受験校であり、渉二を陸上部にスカウトしようとした学校だった。

「亘、お前にも来てるんだろ。俺見たぜ」

「うーん、でもまあ渉二の真似事をするつもりはないけどやっぱりちゃんと試験を受けて入りたいよね」

 この僕もまた、大学のスカウトを受ける身だった。でも僕としては、実力で試験を通った上できちんと陸上をしたかった。渉二を意識した訳ではないと自分では思っている、と言うか自分が渉二を意識できる存在でない事は僕自身が一番よくわかっていた。一応、僕はこの学校では二番目のランナーである。だが5000mの持ちタイムは渉二より35秒遅く、ぼくより早い高校生ランナーは県内だけでも渉二を含めて28人もいる。日本中で行けば100人以上いるだろう。努力を怠っているつもりはないけれど、やはり実力の差と言う物は存在する。

「そう言えばいよいよ来月、年明けですね」

「ああ、今回はどこが勝つんだろうな。まあ俺は普通に太平洋大学が勝つんじゃないかなとも思うけど」

「とにかく1月2・3日は何もかも忘れてじっくり見たいね」

 首都圏に住む陸上長距離学生ランナーにとっての最大のイベント、それは紛れもなく東京箱根間往復大学駅伝競走、通称箱根駅伝である。渉二をあちこちの大学に引く手あまたの存在にしたのもまたその箱根駅伝の存在であった。

「確か帝国大学でしたよね、あそこは育成が優秀だと言われています」

「ああそこも俺は考えてるんだよ、亘の本命はやっぱり帝国か」

「まあねえ、正直な話受かった所が本命かなーって感じで」

「ここだけの話でしょう、言っちゃってもいいと思いますよ志望校ってのを」

 校内一の優等生であり自分たちとは遠い人間だと思っていた治郎がこと駅伝の話になると熱心になるのを一年生の時に目の当たりにして以来、渉二と僕は治郎と親しくなった。それまでは何の面白みもなさそうな人間だと思っていた治郎の思わぬ一面を知る事になった時には、二人そろって箱根駅伝に感謝の意を述べたくなった。そしてそれと同時に、治郎の案外いたずらっぽい一面も知る事になった。普段は2人の第一印象の通りにしかめっ面を浮かべて苦虫を噛み潰したような顔をしている治郎が、この時はずいぶんといやらしく笑っていた。

「まあ一応帝国大は受けるつもりだけど、あと東方文化大学、湘南大学…もう一つ行きたいと思うんだけれどね」

 スポーツ推薦を蹴った以上、自力で何とかするしかない。浪人を嫌がっている訳でもないが、やはり受験に落ちるのは面白くなかった。一応帝国大学が本命であると教師に告げており現在の状態では合格は可能であると言われているが、それでもまだ不安はあった。

 帝国大学のカリキュラムや場所、トレーニング施設には不満はなかった。だが自分で調べ、そして浅野から聞かされた1つのデータが僕の足をすくませていた。


 帝国大学の陸上部員は、63名。まあこれはいい。そして5000mの持ちタイムで15分を切っているのが51名。これもまだ覚悟はできる。問題は、帝国大学の近年の成績だった。


前回の箱根駅伝 6位

出雲駅伝 5位

全日本大学駅伝 6位


 そんな成績を残している帝国大学には僕と同ランクのランナーは無論、渉二レベルのランナーが入って来る可能性もある。箱根駅伝の枠は10個しかない、ただでさえ上が分厚い所に強力な同学年の加入。戦う前から負けを認めるつもりはもちろんない。でも今の僕には、帝国大学がどこか中途半端に荒れた大地の様に見えていた。

 前回箱根駅伝で優勝、今年の出雲駅伝と全日本大学駅伝で共に2位の太平洋大学ほど差があればかえって諦めもつく。でも今の帝国大学の中にある壁は努力してもギリギリで破れそうになく、かと言って諦めるには少し低い。

「浅野、今度の箱根でダークホースになりそうなのはどこ」

「徳政大学は怖いと思いますよ、全日本でアンカーが区間賞で走りましたし」

 徳政大学と言う言葉を聞かされた僕はため息を吐いた。偏差値的にも難しいが、何よりその過去が問題だった。優勝こそないが箱根駅伝に出場する事70回以上、総合優勝以外の全てを経験しているような存在。帝国大学以上に狩りつくされたような場所。そのダークホース的な存在の大学を受けてやろうかと思っていた僕のたくらみは一瞬で崩れた。


「うーん…うーん…」

「お前は何やってんだよこんなとこで」

 放課後、もはやまともな荷物も用件もないはずの陸上部の部室で僕は陸上雑誌を読みながらうなり続けた。東方文化大学や湘南大学が悪い訳ではない、でもすでに歴史と伝統を持った存在に自分が入り込んで何ができるのだろうか。帝国大学を本命だと言ったのはその両者ほど積み重なって来た物がないからであり、自分の手で積み重ねていく事ができるのではないだろうかと考えたからであった。その帝国大学の活躍は入学しようとしていた人間としては最近の活躍は嬉しくはあったが、同時にハードルを引き上げる行為でもあった。

「渉二はうちの学校で一番速いランナーだよね、うちの学校の半世紀の歴史の中でも」

「らしいな、まあ環境の違いとかあるから俺最強だなんて軽々しく言えやしねえけどさ」

「僕は渉二がうらやましいよ」

 実力、人気。そのいずれもが自分を上回る存在が間近にいる。それだけでも僕は鬱屈とした思いを抱える事が出来た。そして僕がそれ以上に渉二との差を感じたのは、胆力だった。渉二の走りはいつも冷静で、どんなにレースや気候が荒れようとも確実にペースを刻める。一方僕は、最初から強引に飛ばしてそのまま強引に押し切ると言うレースしかできていない。逆をやろうとして抑えたまんまになってしまった事もあり、かと言って前後半同じタイムで行けるように調整しようとしてもやはり最初から飛ばした時と同じように止まってしまう。僕と渉二の35秒差の大半は、後半2500mで付いていた。今僕が最初から強引に飛ばすようなレースをやっているのは、それ以外をやって失敗したら嫌だと言うおびえに過ぎない事を自分自身が一番よく認識していた。

 もちろん自分自身の未来は大事だ、でも自分の力でもっと大きな未来を切り開きたいと言う背伸びした思いもある。それを叶えてくれる場所はないのだろうか。

「そうか、まあ一生とまでは行かないにせよ四年間の運命を決める事だからな。俺がアドバイスできる事ならしてやんよ」

「ありがとう」

 ありがとうと口では言ったものの、僕の目は全く動かない。自分のこれまで稼いで来た手札を武器にして羽ばたけるのはどこの場所なのか、巣から飛び立ったばかりの鳥の雛のように僕の視線はふらふらとさまよっていた。

 パラパラと言うページをめくる音と僕のため息だけが部室に鳴り響く。候補そのものは絞られているはずなのに、どうにもその行く先が見つからない。帝国と東方文化と湘南、それだけでいいのか。どこかにあるはずの鉱脈を紙の中から必死になって探そうと、僕は二十回以上雑誌を開いては閉じてを繰り返した。五回目ぐらいまでは興味津々の顔をしながら付き合っていた渉二も、十回目からはまだやっているのかと言わんばかりの目で僕を見るようになり、だんだんと顔が赤くなって来た。

「まあ、まだ時間はあるけれどさ、もうすぐクリスマスだろ?俺が言うのもなんだけど、クリスマスぐらい好きな奴と過ごしても罰は当たらねえだろ」

 別段予定がある訳でもない。恋人はいないし、その気もない。絶食系とかストイックとか言うつもりもないが、今の僕にとっては恋人よりもタイムが重要だった。


 結局僕は、校内で答えを見つける事が出来ないまま校門を出た。贅沢だと言われればそれまでだが、もっともっとを求めるのが人間の歴史だ。3校で諦めるのはもったいない、あと1つだけでも挑戦したい。受かった所が本命とか言ういい加減なセリフを抜かしておきながらそんな事を考えている自分の矛盾っぷりを思い、僕は笑いながらため息を吐いた。

ただいまと小声を言いながら帰宅したものの、僕は部室にあったのと同じ、今度は私物である陸上雑誌を読みふける事をやめられなかった。

「まあ、あと1つぐらいなら大丈夫だろう。お金は用意してやるから安心しろ。もちろん日程は気を付けなければダメだぞ」

 あまりにも暗い顔をしていた物だから父さんに何があったのかとせっつかれもう1校受けたいんだけどとこぼして見たものの、学芸会以来の芝居だったとはまったく思えないほどの名演技だったせいか真意が父さんに届く事は全くなかった。

 ふと自分の部屋に建て付けられている押し入れを開けてみると、小学生の時に父親が買って来た人生ゲームの紙幣が出て来た。ここまで来るともうルーレットでも回して決めた方がいいのかもしれない。受けて落ちても、受かったけど辞退する事となってもどちらでもいい。箱根駅伝を志しておきながら3年間志望校を決めようとしなかった自分の怠惰が悪いとは言え、1年生の時から倭国大学が本命と言い続けていた渉二がタイム以上にうらやましく思えていた。結局冬休みに入ってからもう一回考えようと思う事にしたものの、その結論を出せたのは午前2時半だった。


「不安になって受験勉強に熱中しちゃっててさ」

「ここは笑いどころか、いい加減候補ぐらい絞れよ受験にも差し支えるだろ」

 目にクマを作り、右手でその目をこすりながら左手で頬をつかんでいる。その上にど下手くそな言い訳をする姿は我ながらこっけいであり、渉二の普段の明るさをも抑え込んでしまっていた。

「駅伝を見てからでもまだ間に合いますでしょう、年末の内に準備だけしておいてもいいはずです」

「ああ、うん…ありがとう」

 生あくびとその成れの果てである涙を連発しながら浅野に対し感謝の意を示してみたけれど、治郎の顔はこわばっていた。身の程知らずは若者の特権とか抜かしてみたくもなるが、箱根を走ろうとしていると言う点で十分すぎるほどやらかしているつもりである以上無理がある。無理の上に無理を重ねれば必ず破たんする。これまでのそれほど長くもない陸上人生の中で、そういう走りを何度も見て来たし、自分でもして来た。実体験として非常に苦しいし、傍観者として見るにたえない。いや傍観者どころか、対戦相手としても実につらい経験だ。

 終業式の後生徒たちは教室でごくわずかな宿題や冬休みについての説明を聞かされる事なる訳だけど、未だに舟をこごうとしては首を上げを繰り返している僕とその度に起きろよと言いながら僕の頭をはたく渉二の耳にまともに先生の説明は入って来ない。

「お前のせいで俺までしかられたじゃねえかよどうしてくれんだ」

「ごめんなさい」

 冗談そのものの口調で言ったつもりの渉二に対して、僕は心底からすまないと言わんばかりに頭を下げてみたが、その結果ちゃんと話を聞けと言った担任の先生があわてて右手を胸の間で振りながらわかっていればいいんだとフォローをし始めた。それほどまでに重たかったのかいと言う僕の問いに対し、渉二は真顔でうんと答えた。

何とか5校までは絞り込めた。だがそこから先の決心が、どうしても付かない。全部受けるなんていう事ができないのはわかっているし、全部やめると言う決心も付かない。その候補の内、4校が今回の箱根駅伝に出場する事になる。レースを見極める、それしかもう僕にとって判断材料はなかった。


「世の中何があるかわからねえもんだよな…いやマジでさ………」

 1月2日、ここ数年ずっとそうしていたようにテレビにかじりついていた僕の元に渉二からこんなメールが送られて来た。昨日からずっと付き合っているおせち料理に向けていた箸を止めながらスマホを眺めた僕は、無言でそうだよねと言うメールを軽く打ち込んでスマホを切った。

 4区まで4位を走っていた倭国大学のランナーが二宮の辺りから急激にペースダウンし、そこから中継所にたどりつくまでの間に12人に抜かれてしまった。テレビも途中からまるで公開処刑のようにその大ブレーキを映していたし、僕もテレビに全神経を集中させていた。

 翌日になっても状況は変わらない、倭国大学が何とかシード権だけでも取ろうともがき苦しむ中、往路優勝した太平洋大学はすいすいと後続との差を広げていく。そうなれば当然、後続は繰り上げスタートと言う魔物との戦いを強いられる事となる。中継所までに先頭と一定以上の時間差が付くと、タスキを渡す事なく走り出さねばならなくなる。それだけは絶対に避けたい。だからシード権の見込みすらなくした下位チームのランナーも必死に走るが、それでもなお犠牲者は生まれる。

 そんな中、関東学生連合もまたその化け物に飲み込まれようとしていた。8区の時と同じように中継車が貼り付いた。もうダメか、そう思いながら僕はそのランナーをにらみ続けた。テレビは離れて見ろとか言う親の言葉も耳に入れずに、ただじっと見つめた。そしてそのランナーがタスキを渡した事を確認するや僕はトイレに立ち、排尿しながら彼のいる学校を受ける事を決めた。結局のところ、何が最大の理由なのかはわからない。ひらめくとか言う言葉で片付けていいのかどうか、単純にタイムで決めたんだなと言われるかもしれないしその走りを見て決めたのかもしれない。しかし決めた以上、うんぬんかんぬんと文句をつける理由もなかった。

「やっと決まったのかよ、まあご苦労様だな。でもま、あんな事になったにせよオレのやる事は何にも変わらねえ。倭国大を再び優勝させるのがオレの役目だ」

 三学期の初日、相変わらず明るい顔をしていた渉二をうらやむ気持ちは、今の僕にはみじんもなかった。そのせいかどうかはわからないが、入試は4つの大学すべてで合格。渉二も治郎もまた第一志望校である倭国大及び徳政大に合格した。

「で、帝国には行かねえのか」

「もう決めたから」

「お元気で、箱根路での雄姿を楽しみにしていますよ」

 そして僕の行き先もすでに決まっていた――東京地球大学。

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