第17話 炎に踊る龍⑤

 呆然とその光景を見つめていると、がっちりと抑え込んでいた聖の体からぐにゃりと力が抜けた。 

「聖!?」

 慌てて聖の上からどいて、ぺちぺちと頬を叩く。ほんのりと温かいから死んではいないはずだ、たぶん。息もしているし、気を失っているだけだろう。

「………もう大丈夫なのかな」

 周りを見回せばすっかり山を燃やしていた火は消えていた。雨もかなり小降りになっていたから、きっともう少ししたら止むだろう。ほっと一息ついた時、こちらに近付いてくる足音が聞こえて天音は身を固くした。

「天音ーっ!」

「風月!?」

 けれど聞こえたのは聞き慣れた風月の声だった。ほぼ同時に、悪戦苦闘しながら足場の悪い山を登ってこっちに向かってくる風月の姿も見えて、安心の息をつく天音。

「………何これ、殺人現場?」

「違うよ!」

 しかしタイミングが悪かった。聖の上に馬乗りになった天音の姿を見て、風月は少しだけ身を引く。確かにこの状況だと天音がついに聖にとどめを刺したように見えてしまうが、声を大にして誤解だと言いたい。

「なんとかなったの!聖は死なずにすんだ、けど慧が!」

「うん、」

 言いかけて。こちらを見つめる風月の右手がだらりと不自然に垂れ下がっているのを見て、天音は首を傾げた。

「風月、右手どうしたの?」

「うん、ちょっと………いやそれよりも慧!さっき龍神池のほうに落ちたのを見たよ!」

「でも………」

 天音の目が目を閉じて倒れた聖の方を一瞬見た。そんなわずかなためらいに風月は気付いて、こちらに近付いて聖の横に膝をついた。重たそうな死神の鎌も地面に置かれた。天音は風月がどんな奮闘をしていたかは知らないけれど、泥だらけの風月の姿を見ればそれがどれだけ大変なことだったかは分かる。それでも風月は。

「聖はあたしが見てる!だから天音は龍神池に行って、慧を探して!」

「………うん!」

 迷ったのは一瞬だったけれど、風月の言葉に甘えて天音は立ち上がる。足は相変わらず疲れ切っていたけれど、ここで立ち上がらなかったらきっと一生後悔する。

(無事でいて………!)

 風月と聖に背を向けて走り出した。本当のことを言うと、不安で不安で仕方がないのだ。天音の「助けてくれ」なんていう無責任な祈りに応えるために、慧が傷つくことを選択してしまったらどうしよう。火傷を負っていた。あんなに燃えていたのだ。苦しそうにもしていた。もしまた天音のせいで、慧を傷つけてしまったなら。

(いやそれより………!)

 慧が無事ならそれでいい。そのために走るのだ、足を止めている場合ではないと、一生懸命動き続ける。

「痛っ………」

 山を登る途中、肌を細い木の枝がひっかいた。上手く動かない足がもつれて、何度もぬかるんだ地面に倒れた。泥にまみれて火傷したところがひりひりと痛む。身体は疲れ切っているし、足場も悪いから立ち上がるのにも苦労する。

 でもこれは無視できる痛みだ。今は走り続けることを選択する。空から墜ちていく慧のことを見て、心臓が止まりそうなくらい不安になった。だからとにかく今は、慧の無事を確認しなければいけない。

「慧っ!」

 乱暴にかき分けた茂みの先で、やっと視界が開けた。見慣れた龍神池はいつも通り、鏡のように静かで波紋一つない。

 いっそのこと白々しいくらい、いつもどおりの龍神池だ。慧はここに落ちたと思ったけれど、慧の姿はまったく見当たらない。

「………慧、どこ?」

 頂上に落ちたのは確かに見た。それなら考えられる行き先はここしかないはずだ。いっそのこと池に飛び込んで確認しようかと池の周りをぐるぐるしている時、天音は草の上に光るものを見つけた。

「あ、これ、」

 しゃがみこんで手に取ってみる。嫌になるくらい見覚えがあった。

「慧のドラゴンだ」

 慧がずっと首にかけていた、シルバーのアクセサリーだ。けれど拾い上げたそれは熱で形が少し溶けてしまっていて、慧の体を包んだ熱がどれほど高温だったか分かる。けれど。

「………待ってろって」

 拾い上げた歪んだドラゴンを握る。変形して尖ったそれは、天音の手のひらに突き刺さった。

「待ってろって、言ってるんだ………」

 曲がりなりにも慧は神様だ。池の底で二人に見せた、あの不敵な笑顔を思い出す。『このくらいで神は死なないさ』、と。嫌味な性格でも憎めない慧の口調で、慧の言いそうなことが頭の中で勝手に再生された。希望的観測かもしれないけれど、でもそう思ったのだ。

「うん………」

 影も形も消えてしまえば、慧がそこにいた痕跡は消え失せてしまう。元が神様なのだから、慧の無事を証明する方法を人間は持たない。でもこうして、小さな選別をくれたから、天音はまだ慧の無事を信じることができる。

 だから強く握りしめる。例え手のひらが痛んでも、これさえ持っていればまた会える気がしたから。—————また今度と、約束したのだから。

「ちゃんと約束、守ってよね」

 天音と風月と聖も乗せて、空を飛ぶと言ってくれたのだから。あの夢に見たような美しい宝石のような夜空を飛べたらきっと気持ちいだろう。夏の青空を飛ぶのも絶景だろう。

 聖を慧に紹介したら、神域でやるボードゲームの人数も増える。そうすれば寂しがりやの慧はきっと喜ぶだろう。ちょっとだけ嫌味を言うかもしれないけれど、そこは温かい目で見守ってあげてほしい。たまに神としての自己顕示欲と寂しがり屋のかまってちゃんの感情が激突するみたいだから。

 それから新しいドラゴンも買っておかないといけない。こんなにボロボロの物をつけるのは見栄えが悪い。だからよく似たやつを探さないと。

 それから、それから。

「あ」

 —————考え込んでいる間に、空を覆っていた暗雲は晴れていた。

 龍神池の上空には美しい月が出て、青白い光が天音を照らす。

「待ってるよからね!」

 今度は目をそらさないで、しっかりと足を踏ん張って。天音は池に向かって叫ぶ。聞こえている保証はまったくないけど、そうしたいこらそう叫んだ。

「あんまり待たせないでよね!」

 まだ叶えていない約束があるのだ。捨てることはできない。

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