第16話 炎に踊る龍④
「………………?」
覚悟を決めて目を閉じたのに、目前まで迫っていた炎の熱がいつまでも体を襲うことはなく。恐る恐る目を開けると、天音の目の前に大きな背中があった。
「すまない慧、遅くなったな。無事か?」
「――――――慧」
天音を庇うようにこちらに背を向けて立っていたのは、間違いなく慧だった。まだ呼ばれるようになったばかりの名前の由来になった、見慣れた緑色の着物を重ねてまとった慧がそこにいた。腰のあたりまで伸ばされた黒髪がついに足のあたりまで伸びていて、ついでに身長も依然と比べると伸びている気がする。天音の視界に映るのは深草色をした着物を身にまとう慧の背中だけだ。
「間に合ったみたいだな………よかった」
「慧、手………それ………」
「ん?ああ、気にするな。こっちに飛んできた穢れを炎ごと食べさせてもらったよ」
こちらを振り返って笑った慧が、天音に安心感を与えるような穏やかな声で言う。しかし身体の横にだらりと下げられた手は、炎から天音を守ったせいか焼けただれてしまっていた。慧の声に全く動揺は出ていないけれど、どう見たって痛そうだ。
「でも酷い火傷………」
天音が無理をしたせいで、慧が天音を庇って怪我をした。じくじくと胸の奥が痛む。
「そんな顔するな!俺は神様なんだぞ、これくらいの怪我なんてことない」
冗談のように言う慧は、きっと天音が慧に怪我をさせたことを気にしないように言ってくれているのだ。相変わらず神様なのに優しい、いつも通りの慧だ。でもなんだか。
「慧、ちょっと変わった………?」
外見の変化だけではなく内面が違う。何が違うかと言われると天音にも明確に分かるわけではないのだが、言葉を選ばずに言ってしまえば。
「神様、みたいな」
「なんだそれは。俺は最初から神様だぞ?」
相変わらず天音はちょっと変だな、と困ったように笑う慧だけれど、天音の感覚に間違いはない、はずだ。それは、三日間池の底で力を蓄えて完成された龍神になった慧の放つ威圧感だった。圧倒的に人間の上位存在であると知らしめる、言葉一つで人を従わせてしまうような―――――周囲を燃やす穢れの憑いた炎にさえ気を取られなくなるほどの存在感を放つ神だ。
けれど天音にとってはそんな慧の威圧感も、なんだか居心地のいいもののように感じられる。
「慧………でも、なんでここに来たの?まだ池の中にいないといけないんじゃないの?」
できる限り落ち着いた声を出そうとしたけれど、声が震えるのはもう止められなかった。本当は死にそうな無茶をして、今にも燃やされそうになって泣きたいくらい怖かったのだ。聖の前では精いっぱい意地を張っていたのに、慧の登場で緊張が緩んで目が涙で潤んでしまった。
「うん、大変だったな。それで、どうして俺がここにいるかっていうと、もう日付が変わったからだ」
火傷していない方の手を持ち上げて、自分の胸のあたりにある俯いたままの天音の頭を落ち着かせようと撫でた。
「今、ちょうど十二時だろう?だからちょうど三日だ。よく耐えてくれたな、天音………それに、風月も頑張ってくれてるんだろ?ありがとう」
そういえば天音と風月が家を飛び出たのは、十一時半くらいだったと思う。あれから三十分、風月の消火活動と天音による聖の妨害を重ねて、やっと日付が変わったのだ。だから慧がこうして助けに来てくれた。
「随分と無茶をさせてしまったな。あとは俺に任せてくれ」
天音の方を見下ろしていた慧が、目の前に立つ聖の方に視線を戻した。神の圧力が増す。黒い影のように見える穢れが、少し怯えたような揺らぎを見せた。
「俺の土地で穢れごときがよくもやってくれたな。とにかくこの火を消させてもらうぞ」
今度はすうっと目線を空に移して、慧が煙でかすんだ空を見上げる。その視線の動きだけで、雲一つなかった空に暗雲が現れた。やがて相変わらず異常な、上昇する雷とともに激しい雨が降り出した。
「慧………が、来た………?」
相変わらず鎌を振り落した風月が、一瞬だけ木を切り倒していく手を止めて空を見上げて呟く。ずっと険しい表情を崩さなかった風月の固く結ばれた口元が、ほんの一瞬だけ安心したように緩んだ。
「雨降らせてくれたんだね、でもすぐには消えないか………」
緩んでしまった頬を無理やり引き締めて、風月の顔に決意の表情が浮かんだ。雨で濡れた顔を乱暴に腕で拭って、燃え残る炎を見据える。
「まだもうちょっと、頑張らないと」
降り出した雨の中、上昇する雷に照らされて、風月はまだ山の中でくすぶる火を消すためにまた走り出した。
降り出した雨は豪雨と表現するのにふさわしい。雷を伴う激しい通り雨が天音も慧も聖も等しく濡れ鼠にしていくが、それでも穢れに憑かれた炎は消えない。この程度の雨で消えてたまるかとより一層燃え盛る。
「………さすがにあれは手強いな」
それを確認してため息をついた慧が片手を軽く振ると、雨の勢いが少し弱まった。これ以上の勢いで雨で降らせ続けると今度は山崩れが起きてしまうという判断だ。それは分かった、けれど。
「慧、待って!」
天音に背を向けた慧の着物を掴んで引っ張る。驚いたように丸くなった慧の深い色の瞳が天音を見下ろす。
「やっぱり聖を食べちゃうの………!?」
天音の挑発に乗って聖の内側に救っていた穢れが炎になって、天音に襲い掛かってきた。けれど慧越しに見える聖の目は相変わらず人間味を感じさせない、がらんどうのような瞳だ。
————きっとまだ穢れている。食べるしかないと言って頭を下げた慧がいた。それなら聖は、どうなってしまうのか。
「………うん、そうだよな。そう思うよな。あの時ああやって言ったもんな」
もう一度、きちんと天音の方を振り返った慧が、なんだか嬉しそうに笑った。慧の長い黒髪から水が滴る。服装は純和風なのに、その首に随分前に渡したシルバーのドラゴンがぶら下げられていた。
「でも俺は天音を悲しませたくないし、天音の友達を食べるのは嫌だと思ったんだよ。村を守らなきゃいけないし、あそこまで身体を奪われてしまったら、食う以外の方法はないと思ったんだけど………事情が少し変わった」
天音の顔をつたうものは涙なのか雨なのかよく分からない。でも慧が優しげな顔で微笑んでいるから、もう頑張らなくてもいいし泣かなくてもいいんじゃないかという気がしてきた。
「天音が少しずつだけど聖から穢れを切り離してくれただろう?」
「………あ、」
挑発して引きはがした分と、竹刀を持って何度も打ちかかってくる天音の邪魔をするために炎にとり憑いた穢れの分。それは確実に聖の体から離れていった分だったのだと、慧の言葉でようやく気付いた。それを狙ってやっていたわけではないけれど、慧が「おかげでなんとかなりそうだ」と言うので、自分のやってきたことは間違いではなかったのだと思う。
「じゃあ聖は死ななくてもいいの?」
「ああ」
簡単な返事と一つの頷きだけだったけれど、信じていい言葉だ。今度はちゃんと確信があった。
「よかったあ………でも慧さ、そのドラゴン、和服にはちょっと似合わないよ」
「………気に入ってるんだ」
いつか池の底で交わしたような下らない会話をする。いつか全部元通りになったら、聖ともこんな風に話してみたいと思った。そんな日がいつか来ると思った。
「だからつけてるし、手放す気はないぞ。でも安心してくれ、ちゃんと助けてみせる」
神様に戻った慧の言葉とともに、慧から放たれる圧が増していく。きっと今まさに、慧は本来の姿に戻ろうとしている。それが分かったから、天音は慧から一歩だけ距離をとって、なんとなく呟いた。
「私、慧の背中に乗って空を飛んでみたい」
タイミングを間違えているとしか思えない天音の発言に、神様は失笑をこぼした。
「緊張感をそがないでくれ………でも、そうだな。これが全部片付いたら、風月も誘って三人を背中に乗せて空を飛ぼうか」
「うん」
三人で、と慧は言った。慧の中の友人の数にすでに聖が含まれていることを知って、いよいよ天音は安心したのだ。慧は絶対に聖を傷つけない。
(もう大丈夫………)
天音が安心しきった笑みをこぼしたその瞬間。夜空に緑色の龍が飛んだ。
「慧!」
勢いよく空に昇った龍は、勢いはそのままにすぐ急降下してきた。そして淡い緑色の光を身にまとったまま、いまだに燃え盛っている炎の中に速度を落とさずに突っ込んだ。
「っ、」
聖が驚いたような小さな声を出すが、すぐにその声もかき消された。上空から地面に飛び込んだ龍は、止まらずにそのまま炎の中で動き回った。龍というより大蛇のような動きで地面を這う。するとそのうち、あれだけ燃え盛っていた炎が消え始めた。
消えた、というのもたぶん正しい表現ではない。のたうつ龍の体にしがみつくようにして地面から離れていった。炎が消えるというより山の代わりに龍の体を燃やしているのだ。天音を庇って焼けてしまった慧の片手を思い出す。
—————穢れを祓うとはつまり、そういうことだったのか。
「やめろ!」
聖の中に巣食った穢れが、聖の声で悲痛に叫ぶ。それでも聖の体から黒い影が抜けていくのは止められない。穢れは穢れに集まる。慧は穢れを集めていた。その身を燃やしながら―――――聖を食べなくても、すべての穢れを祓おうとしていた。
「やめっ、」
「行かせないよ!」
一歩踏み出して地表を這う龍を、無謀にも止めようとする聖の体を渾身の力で押さえつけた。天音だってもう体に力は入らない。でも慧が大変な思いをしながらも天音の願いを叶えようと、人の願いを叶えようとしているのだ。
それならすべて神頼みにしてしまわないで、やれることは全部やらなきゃいけないだろう。
「離せ………!」
ほぼ捨て身のタックルで抑え込んだ聖の体が天音の下で暴れる。負けてたまるかとできる限り体重をかける天音。その間にも聖の体から黒いもやが抜けていく。慧が頑張っている、負けるわけにはいかない。
(でも慧は大丈夫なの………?)
そんな天音の不安をよそに、やがて龍は黒い影を体にまとったまま、もう一度空に昇った。その体が苦しそうにもがいているように見えたのは、きっと天音の思い込みではない。
「慧ーっ!」
上昇する雷の光で龍の姿が一瞬だけシルエットになって浮かび上がる。一瞬だけ空に緑色の光がまたたいた。そして。
「慧っ………」
静寂。木が燃える音も雨が降る音も聞こえない。もう雷も落ちない。闇が天音の視界を覆っていたけれど、それでも彼女の目にはちゃんと見えた。
—————力尽きたように動かない龍が、暗い空から重力に引きずられて、山の頂上に墜ちてくるくるのが見えた。
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