第10話 覚悟は鮮烈に①
翌日の早朝、天音は道場で竹刀を振るっていた。対戦相手も練習の型もない、言ってしまえばストレス発散のための剣道だ。それでも勢いよく振り下ろす竹刀は空気を切り裂く気持ちのいい音を立ててくれる。
「………」
使っている竹刀はこの前じいちゃんが渡してくれたものだ。聖に出会ったあの日も変わらず背中に背負っていた。それでも聖の突きつけたカッターナイフに抵抗できなかった事実が鮮明だ。徐々に息が上がる。動画の裾が床を擦る。いつもより高い位置で結んだポニーテールが上下に揺れるのを感じる。
――すまない――
昨日の慧の言葉を思い出した。申し訳なさそうに折り目正しく目の前で下げられた頭と、天音に摑みかかられても何も言わずに目を伏せていたあの表情が視界の裏をちらついて、より激しく竹刀を振る。やけくそのように体を動かす。
(謝らないでよ、気遣わないでよ)
慧はいつも通りの慧のままでいてほしかった。寂しがりでおっちょこちょいで心優しい慧のままでよかったのに。
(あんな寂しい顔しないでよ)
天音と風月の前で神様みたいな顔を作って、あの日の慧はまた来てくれと言わなかった。一人は寂しいと泣いた神様が、別れ際に祈りのように繰り返していた言葉を昨日だけは言わなかった。聖の命を神として奪ってしまえば天音達に会う資格を失ってしまうと思っていることは火を見るより明らかだ。
(わがまま言ってよかったのに)
それでも、慧からこんな些細な約束の言葉を奪ってしまったのは他の誰でもない天音だ。それを天音自身が一番理解している。
何も知らない、人間でしかない天音の、無知で無邪気な願いが、神様を苦しめた。
「うわああああぁぁぁぁ!」
上がった心拍を誤魔化すように声を出す。対戦相手もいないのだ、自分を奮い立たせるだけの意味しかない。そんなことはわかっている。聖と慧が陥っている状況を、天音に救えないことも苦しいくらい分かっている。それでも理解することと諦めることは決してイコールではない。
「慧と!聖の!大馬鹿!」
天音はそもそもあまり気性の荒い方ではない。確かに慧にビンタしたことはあるしストレスが溜まるとこうやって竹刀を振り回していれば気が楽になる部分はあるが、それでも人を罵倒することをよしとしないだけの良心はある。けれど今この瞬間、天音の口から溢れ出すのはいっそ稚拙な罵詈雑言だった。足りない語彙力で、それでも口に出したい感情が怒鳴り声になる。この感情自体、どこに向ければいいのか分からないような憤りだ。何を言っても無駄なことは分かった上で、それでも吐き出さないと収まりがつかない感情だった。
「………天音。いつもより動きが鈍いぞ」
処理落ちした自分の感情に振り回されるまま竹刀を握る。その時、不意に道場の入り口から自分の名前が呼ばれた。風月の声ではないけれど聞き覚えのある声に、ゆっくりと動きを止めた天音が振り返る。
「………じいちゃん?」
「何か嫌なことでもあったのか?」
一瞬、天音の頭は混乱する。ぴしりと格好良く伸びた背筋は見覚えのあるもので、けれど言葉に違和感がある。いつもより。天音は結局、じいちゃんの練習を見てやるという誘いは断ってふらふらと逃げていたはずなのに、どうして。
「知らないはずがないだろう」
疑問が顔に出ていたのか、じいちゃんは苦笑を隠そうともせずそう告げた。
「動き方ですぐに分かる。留守にしている間にも竹刀を振ってただろう?天音がまだ剣道を続けていることも、知っていたよ」
知っていたのだ。天音の祖父は当たり前のように、天音の隠し事を知っていながら何も言わなかったのだ。じいちゃんならあの冗談みたいな話を出して大騒ぎすると思ったのに。
「東京でも続けていただろう?」
「………うん」
目を細めて笑う。くしゃりと顔に笑い皺が刻まれる。
「天音の好きなようにすればいいと思ってたけど、そんなに嫌なことがあったなら練習相手くらいにはなる」
あぁ、そうか。じいちゃんが口にする冗談みたいな話は、きっと本当に冗談だったのだ。勝つための練習を嫌った天音が、剣道をやっていた過去を笑い話にできるようにと、優しいじいちゃんの作った優しい冗談だ。
「続けてても続けてなくても、嫌いになっても好きなままでも、じいちゃんはどっちでもいい。でも何かに追い詰められた天音の逃げ込む場所が道場だったことは、少し嬉しいかな」
天音は何も言うことができなかった。口を開けば涙が零れるような気がした。
(なんだ、私は)
剣道をやめたのは、じいちゃんの期待に添えないくらいに才能のない自分を見るのが嫌だったからだ。嬉しそうに「天音には才能がある」と言って笑ったじいちゃんの言葉を嘘にしたくなかったからだ。そうやって誰かの何かを守った気でいたのだ。でも。
(すごく大切にされてた)
ずっとずっと目を逸らして逃げ出してそれでも未練が断ち切らなくて、かつて好きだったことを捨てられなかったのは天音だ。そんな天音を支える誰かの手があった。それだけの話だ。
(私、今すごくダメなやつだ………)
逃げるために遠ざかることさえ、できなかった。未練があったからしがみついていたのに、自分の嫌な部分から目を逸らしていたのだ。
(私、すっごくかっこ悪い………)
自分の惨めさに、じいちゃんの優しさに、ほんの少し心が乱されながらもこんな自分じゃない自分になりたくないと願う。やけくそのように竹刀を振るだけでは戦えないものがあるのだ。
「練習はまた今度でいいや………私、倒さなきゃいけない人がいるから」
「そうか」
いっそ支離滅裂な天音の発言もじいちゃんに咎められることはなく、天音は竹刀を袋に入れて背中にかけてから道場を飛び出した。
「気をつけるんだぞ!」
例えば、戦う前から敵わないと諦めていた理不尽にも、今は無謀に挑んでついでに勝ってやろうと思ったのだ。自信なんてどこにもないけど、思ってしまったのだ。
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