第9話 彩られた漆黒③

「どうしたんだそんなに急いで、そもそも今日は池に来るなって………」

 唐突に池に飛び込んできた天音と風月を、それでも慧はきちんと自分の神域に招き入れてくれた。しかし事態を把握しているわけではないため、どうしても険しい顔になる天音と風月の表情を見て少し腰が引けている。

「あのね慧、さっき」

 聖について————この村に現れた穢れについて、慧に伝える天音。風月は特に口を挟まなかったけれど、慧の神域にいるというのに俯いている様子から、この異常事体に緊張していることは分かる。

「つまり天音は、穢れの本体と出遭ってしかも危険な目に遭ったということか!?」

 興奮で上手くまとまらない天音の話を腕組みしたままちゃんと聞き終えて、慧は目を丸くした。

「怪我はないのか?」

「うん、平気だよ」

「それは何より、だけど消耗しただろ………というか、ずっと立ち話をさせてしまったな、座るといい」

 一番近くにあった和室に天音と風月の背中を押し込みながら、慧は少し焦った様子を見せていた。たまに見せる神様のような表情とは違い、天音のことを心配するその顔はどことなく人間臭い。

「穢れと触れ合うと普通の人間でも消耗する。腰が抜けるのもしょうがないし、とにかく天音が無事でよかった」

「うん………すごい消耗した。あと慧が『穢れ』って言った意味が、よく分かった」

「ちょっと慧、そんなに肩押し込まなくてもちゃんと座れるから」

「いいからいいから」

 慧、混乱のあまりか久しぶりに会う親戚のおばちゃんみたいになっている。けれど穢れは危険だから近寄らない方がいいと言った慧の気持ちが、ようやく天音にも理解できた。

 ————あれは確かに、穢れと表現するのにふさわしいものだ。対面するだけで人間を怖がらせる。そして穢れそのものを背負った人は、人間らしさを失ってしまう。

憎悪の中に、愛おしさがあって。愛憎が入り混じり、嘆きながら希望を捨てず、苦しいけれど立ち止まらない、矛盾しているのが人間なのだ。あんな空っぽの入れ物の中に憎悪と虚無だけが詰まっているようなものを、人間とはとても呼べない。

 それはもう、どこかがおかしくなってしまった人間だ。

「聖、昔はあんな風じゃなかったの………でも、慧が穢れを祓えば、聖がこの村にい続ければ、元通りになるんだよね?」

 それまで聖が他の人に危害を加えなければいい、という懸念はあるけれど、穢れを祓う役割を持つ神様がいる村なら、慧がいれば、なんとかなるはずだと、期待のこもった眼差しで慧を見つめる天音。けれど。

「—————残念だが、もう無理だ」

 ほんの少しだけ唇を噛んでから、小さく頭を振って。視線をしっかりと上げて、慧は当たり前のことを告げるようにそう言い放った。

「………え?」

 天音の隣に座る風月の小さく息を呑む声が聞こえる。天音の口からも言葉にならない声が漏れた。

「あそこまで穢れに憑かれたら、もう祓うことができない。あれはもう、穢れにとり憑かれた人間というよりも、穢れの依り代みたいなものだ。あの少年は、もう人を傷つけることを、なんとも思わなくなっている。早く対処しないと他の人間が危険だ」

「それは………」

 聖の危険性は、天音が一番理解している。なんの危害を与えたわけでもない天音に、ためらうことなくカッターナイフを突きつけた。突きつけることができたのだ。あのまま天音が余計なことを言ったら、容赦なく頸動脈を切られていたかもしれないという予感が確かにある。

「でも、聖は、」

「すまない天音」

 逸らしかけた視線をちゃんと天音に合わせて、慧は深々と頭を下げた。長い黒髪が畳に垂れて、慧の表情を二人の目から隠してしまう。

「俺はこの村を守らなくちゃいけない。だから聖を野放しにできない」

 天音だって本当は聖が危険な人物だということは分かっている。そして慧の役割がなんなのかも、理解しているつもりだ。天音が理解していることは、きっと慧も知っている。それでもこうして慧は————神は、人間に頭を下げた。

 この状況自体がもうどうしようもないくらい「聖を助けることができない」という真実を雄弁に語っている。

「ここまで穢れに心を奪われてしまったら、食ってしまうことしかできない」

「食べるって………!?」

 風月と天音の声が重なった。驚いて顔を上げたせいでフードの隙間から覗いた風月の青色の目が、天音と慧の顔を見ようとせわしなく二人の間を往復する。

「いや、物理的に食うというわけじゃなくて………そうだな、きちんと説明する義務がある」

 いつか二人を自分の神域に閉じ込めようとして怪我を負わせた後も口にした言葉を述べて、慧は深々と下げていた頭を上げた。

「まずは穢れについて説明しよう。話はそれからだ」

 本来であれば風月はともかくとして、天音が知ることはなかった話だ。教えてくれなかったところで、慧の不利になることは何もない。それでもきちんと説明する姿勢が慧の生真面目さを象徴していた。

 —————慧は神様だけど、独りぼっちは寂しいと泣いてしまう神様なのだ。

 それならば人を一人食うと言っている今の状況が、慧をどれだけ追い込んでいるかは想像に難くない。

「穢れは、基本的にはただの霞みたいなものだ、嫌な思いをした時、辛い体験をした時、自分の体に収まりきらずに漏れ出てしまう負の感情みたいなものだ。そして特別なものではない。どこにでもありふれているものなんだ」

「………ありふれてる、の?」

「ああ。人間は負の感情を持たずには生きていられない」

 風月の疑問に慧の落ち着いた声が答える。言ってしまえば人間は生きている限り常に穢れているようなものだ、と。

「つまり大抵の穢れは神にそそがれることもなく、人間自身が気を晴らせば消えてしまうものなんだ。 でも厄介なことに、人間の負の感情は身体から零れ落ちても人間としての性質を失わないんだ」

 人間としての性質、と言いながら、ほんの少し慧が悲しげな表情を浮かべたように見えたのは気のせいだろうか。

「穢れは集まる。自分に同意してくれる存在を探して………穢れは穢れに集まる。邪気は邪気を呼ぶ。大きな負の感情は穢れを呼んで、その穢れがまた別の負の感情を呼ぶ」

「………悪循環だ」

「ああ、そう。悪循環だよ、まさに」

 それなら、と天音は考える。聖はずっと、気を晴らすこともできずに、負の感情を抱え込んでため込んで、そのせいでどんどん穢れを引き寄せて、ついには人間らしい心まで失ってしまったんだろうか。

「………人は我が身を憐れむ生き物だから。そんな気持ちに共鳴して穢れが憑く。体ごと穢れに乗っとれたみたいな人間を見るのは初めてだが」

 それでもどうしてああなったかは分かると言う慧は、はっきりと口に出さなかったけれど。つまりそれは。

「聖はそれくらい不幸な目にあったってこと………?」

 自分を憐れんで、負の感情を抱え込んで発散することもできず、どんどん穢れだけが大きくなってついに制御さえできなくなって。それは、聖が悪いのか。それとも聖の置かれていた環境が劣悪だったのか、助けれなかった周囲の問題なのか。天音にも風月にも、神である慧にさえも詳しい事情までは分からない。背景は何も分からないのに、やらなきゃいけないことだけがはっきりと目の前に姿を現している。

「………じゃあ、喰らうっていうのは?」

 風月の落ち着いた声に、慧も静かな口調で答える。

「俺の本来の姿は龍だ。龍にもどって………神としての力を完全に取り戻してから、あの少年もろとも穢れを食って浄化する」

「そんなことしたら!」

 声と同時に天音は立ち上がる。口調が荒くなるのを自分で止められない。

「聖、死んじゃうの!?」

「今のあいつは穢れの依り代みたいなものだ。………もう中身は死んでるに等しい」

「それでも!」

 それでも聖は喋れていたし動けていた。天音の記憶が蘇るくらいには子どもだった頃の面影を残した少年だ。何も変わりはしないのに、どうして助けれないんだと、感情が胸の中を渦巻いて体を突き動かす。

「それでもまだ生きてるよ………!」

 そんなのは悲しすぎる。昂った感情が目に集まっているようで、目の奥がじんと熱い。辛い経験をした上に穢れも祓えず、誰にも—————神様にも助けられないまま、唯一残された体まで奪われてしまうなんて、そんなのは。

「なんとかしてよ!慧は神様なんでしょ!?」

「天音、」

風月の制止が聞こえたけれど体を止めることができない。天音は慧に掴みかかっていた。

「聖は私がまだ小さいころに会って遊んだ友達なの!その頃は孤児院にいて………でもじいちゃんが、引き取り手が見つかって聖はこの村から出たって言ってた!だからきっとどこかで誰かと遊んでるって………!」

 着物の襟を掴んだ手から力が抜ける。本当はきちんと分かっているのだ。天音の友人が、神様である慧がこうやって誠意をもって説明してくれたのは、これ以外に方法がないことを天音に伝えようとしてくれたからだということも、天音がどれだけ訴えてもやることは変わらないということも。分かっていてもやるせなくて足から力が抜ける。ずるずると慧の足元にしゃがみこむ。

「なんで聖ばっかり、こんな目に合うの?神様なら助けてよ。こんなの、理不尽だよ………」

「………俺は、確かに神だ。でもこの村を守ることと、気象を司ることしかできないちっぽけな神だ。人の運命を司ることも………天音の友達を助けることもできない」

 その返答は予想通りのものだ。しゃがみこんだ天音に視線を合わせるようにゆっくりと屈んだ慧の着物の綺麗な色だけが、俯いた視界に入り込む。

「守ってやれなくてすまない」

「………やめてよ」

 慧が悲しそうな表情をしているのは分かる。助けてあげられなくてすまない、守ってやれなくてすまない、と。小さな神様は自分より小さな人間に謝るのだ。謝らなくてもいいのに、神様なりの優しさで。

「謝らなくていいから助けてよ………」

 分かっているのに呑み込めない。天音は何千年も生きている慧とは違ってまだ子どもで、だから自分の口から零れていく感情を制御することができない。

「こんなことを言っても言い訳にしかならないが、たった一人の少年の命よりこの村にいるすべての命が大切だ。俺がこの村の守り神である以上、選択できる道は限られている」

「うん」

 言葉を失った天音に代わって風月が一つ肯定する声が天音の耳にも届いた。

「分かってるよ、慧」

 慧が今、どんな思いで天音に真実を突きつけているのか、風月は正しく理解して答えた。それを聞いて、どう声をかけても顔を上げない天音を前に困り果てていた様子の慧が小さく息をつく。そして。

「すまない」

 再三の謝罪だった。どうしてこの謝罪を受け入れることができないのかと、膝を抱えたまま天音は蚊の鳴くような声で答える。

「………私の方こそごめん」

 目を見て謝ることができないことを恥じながら、それでも顔を上げることができない。どんな表情を慧に向ければいいのか分からない。感情がぐちゃぐちゃになって自分で処理できる範疇を超えている。どうして、なんて答えのない問いがぐるぐると、頭を回って止まらない。

「………俺が神じゃなければこんなことにはならなかった。天音をここに引きずり込まなければ、何も知らせないままでいられた。天音を傷つけることもなかった」

 慧が謝る必要はどこにもない。神には神の役割があると言ってしまえば、それを止めることなんて人間にはできない。そう分かっていながらも天音の心が折れてしまわないように、慧は落ち着いた声で諭してくれるのだ。他でもない、人間の友人のために。

「俺はお前の友達を、殺すことになってしまう。そうなったら容赦なく俺を恨んでくれ。守るべき人の願いも叶えることができない役に立たない神だと言ってくれ。それでいい」

「そんなことはできないよ………」

 天音にとっては慧も聖も大切な友達で、二人のことを恨むなんてできない。例え二人が人間とは程遠い存在だったとしても、だ。

 どうしようもなく友達であることに変わりはないのだから。

「………俺が本当の姿に戻るには三日ほどの時間が必要だ。それまではこの池に来ても、招けない。だから………」

 そのあと慧が続けようとした言葉は、「三日過ぎたらまた来てくれ」だったのか「聖に残された時間はそれまでだ」だったのか、天音にも風月にも分からないけれど、最後まで言葉にできなかった慧の気持ちだけはよく分かってしまう。慧は間違いなく神様だけれど、こんなにも脆くて優しい

「今日は帰ろう、天音」

 風月が俯いてしゃがみこむ天音の背中に手を置いた。まるで小さな子どもを落ち着かせるように、風月の小さな手がそのまま天音の丸まった背中を撫でる。

「………うん」

 顔を上げれば風月の人とは違う青色の目が正面から天音の顔を見つめていた。もし今、その瞳で聖の顔を見たのなら、聖に残された寿命がどれくらいか分かったんだろうか。そんなことをぼんやりと考えてしまう自分のことが嫌いになりそうだ。

「ごめんね、慧」

 相変わらず顔は見えない。それでも風月の手に促されるようにのろのろと立ち上がった天音が顔を伏せたまま謝罪の言葉を述べれば、慧が小さく首を横に振った。

「天音は悪くない。今日はもう疲れただろう、ゆっくり休むといい」

 そうやって天音を気遣ってくれる慧の神様みたいな言葉が優しくて、それに対してまた明日、と言えない自分の現状が、泣きそうなくらい悲しかった。

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