第8話 彩られた漆黒②
じりじりと肌を焦がす真夏の日差し。きちんと舗装されていない田んぼの横の道を、天音と風月はぐったりと俯きながらとろとろと歩いていた。
「………暑い」
「うん」
「むしむしする」
「うん」
自分の不快感を端的に言葉にする天音に対して、風月はもはや言葉を発するのも辛いという様子だ。不快指数がとんでもなく高い。
「こう思うと池の中は快適だったよね………エアコンなしでも適温だし、」
言いかけて。農作業着姿のおじさんが正面からこちらに向かって歩いてきたのに気付いた風月が、急に口を閉じて俯いた。
「あ………こんにちは」
「おお、こんにちは。気を付けて遊ぶんだぞ」
咄嗟に挨拶をした天音には挨拶を返してくれたおじさんだが、俯いた風月にはちらりと視線を向けただけで足早に立ち去ってしまった。その背中が遠ざかるのを確認してから風月は顔を上げる。押し殺しきれないため息が口から零れていた。
「それに、天音が周りの目を気にしなくていいし」
「え、なんで?」
「なんでって………」
素で驚いた天音の反応に風月の口調がしどろもどろになる。
「私といると村の人の目線が気になるだろうし………えっと」
「ならないよ風月」
風月は普段は冷静で、きちんと状況を把握する能力は高いはずだ。実際に慧の異空間にいきなり引きずり込まれた時も、天音より風月の方が冷静に状況を判断していた。けれど死神の娘、という他と異なる出自、加えて外見も他と違うのだから、この小さな村の中でずっと孤立していたせいなのか、自分のことになると途端に卑屈というか、コンプレックスの塊のようになってしまうようだ。
「全然ならない。周りの目は全然気にならないけど、暑すぎるのはめっちゃしんどい」
「それはもうしょうがないというか………」
だから天音はこういう風月の発言にはあまり触れすぎないように、軽く流すようにしている。
「慧がいきなり『ずっと池にいるのもつまらないだろうから、今日はしばらく外でも散歩してこればいい』なんて言わなければね」
結果的に話を逸らして、ついでに風月の気も逸らすことができたのでよしとして、天音もここにはいない慧の発言に思いをはせる。というか、暑さのあまりの現実逃避と言ってもいいかもしれない。
「そう言われてもこの村、特に見るところないもんね」
「小さい村だもんね、特に見るところもない。六年くらい住んでるけど天音に案内する所なんてどこもないし」
「だよね………」
「うちの村ながら情けない………」
こうして龍神池を追い出された二人は、特に行く当てもなく村の中をさまよっているわけだ。小さな駄菓子屋と雑貨屋、ついでに酒屋、あとは田んぼと畑しかないというこの村の景観は、初日なら楽しめたかもしれないがそこそこ村に慣れてしまった今では代わり映えのしない景色でしかない。おまけにこの暑さだ。白いワンピースと麦わら帽子というできる限り涼しい格好をした天音とは違い、フードを目深にかぶった影法師のような恰好をした風月は足元もふらついて、まさに限界が近いといった様子だ。
「あ~、もう!慧の話なんて無視して池に行ってればよかった!」
容赦のない夏の太陽に向かって叫ぶ天音。
「池の中は涼しいしね………っていうかあたし、さすがにもう限界………」
「え、ちょっと風月、嘘でしょ大丈夫!?」
そんな中ついに風月が根を上げた。それはもう熱中症が心配になってしまうくらいのふらふら具合に焦って駆け寄る天音。
「大丈夫………だけどちょっとラムネ買ってくる………」
「うん、本当に風月大丈夫?」
「平気、天音はそのへんの陰になってるところで休んでて!ちょっと先行くと小さいけど公園もあるから!」
道の真ん中にぽつんと立ち尽くす天音にそれだけ言い残して、足取りの少しおぼつかない風月の背中が陽炎のように遠ざかってやがて消えた。
「………大丈夫かなあ、風月」
どこからどう見ても平気な人の様子じゃなかったけど、と考えながらも、天音もこんな炎天下に立ち尽くしていたままでは風月二号になってしまうので、ほんの数メートル先にある公園に入ることにした。ブランコしか遊具のない本当に小さな公園だけれど、そのブランコがちょうど日陰になっていたのでこれ幸いとブランコに座る。
「本当に人がいないなあ」
手でぱたぱたと火照った顔を仰ぎながら、特にやることもないので適当な座りこぎをする天音。 今日の朝見たニュースによれば確か今日は、今年の夏の最高気温になる予測らしい。それならこんな熱中症警報が出そうな日に、わざわざ公園に来る子どももいないだろう。
「そもそもこの村に他の子どもがどれくらいいるか知らないけど………。あー、私も風月と一緒にラムネ買いに行けばよかったなあ」
倒れそうな風月の様子に気圧されてついてくなんて言い出せなかったけど、天音も喉が渇いていたのを今思い出した。コーラじゃなくてラムネというところがこの村らしいけれど、なんだかラムネが飲みたい気分だ。でも今さら追いかける気力もなく、天音はただ足をぶらぶらさせる。
「たまには童心に返るのもいいね………ん?」
ぼんやりと呟いて—————気付いた。
公園の一番奥。影になっている花壇のところに、誰かが立っている。
「………誰?」
ブランコから身を乗り出してそこにいる誰かの顔を確認しようとして。そこで天音は、ふと遠い夏の日のことを思い出した。
————あれは今日と同じような、うだるような夏の日のことだった。けれど時間は今と違って、確か日暮れ時だったと思う。空が血のように赤い色に染まって、それでもまだ遊び足りなくて、まだ幼い天音は遊び相手を探していた。
自分の影が陽炎のように揺らいでいて、けれどいつもの遊び相手はみんな両親に手を引かれて公園から帰ってしまって、天音は公園にぽつんと一人きり。
いや、もう一人、いた。あの時、あの場所に。捨てられた犬のように公園の花壇の横ににうずくまっていた男の子が。
「あの時の………」
既視感の正体に気付いた天音は、ぴょんと足をそろえてブランコから降りる。そしてそろりと足音を殺して日陰に佇む少年に近づいて、俯けた顔を下から覗き込んだ。
「ねぇ、私のこと、覚えてる?」
覗き込んだ顔には見覚えがある。昨日池に来ていた少年だ、そして記憶も薄れるくらい昔に天音に会ったことがある少年でもある。
「ずっと前だけど、ここで会ったことあるよね?」
「………誰だ、お前」
どんよりと濁っているくせに敵意がはっきりと浮かんだ、真っ黒な目が天音を見下ろす。ついこの前、慧が浮かべた水の玉に映っていた表情と全く同じだ。陰鬱で威圧感がある、けれどその雰囲気を放ってくる相手が、かつて一度遊んだことがある相手なら話は別だ。
「天音だよ、私。伊達天音………って、前はちゃんと自己紹介したっけ?」
できる限り友好的な笑顔を浮かべて、ついでに自分の顔を見るのに邪魔だろうと思った麦わら帽子も頭からどける。
「覚えてねぇよ、馴れ馴れしい奴だな」
少年がふっと目をそらした。けれどそんな非友好的な態度にいちいち怯んでいたら友達はできない。風月にも慧にも物怖じしなかったからこそ友達になることができたのだ。
「え、忘れちゃったか………でも私、覚えてるよ!」
自分もさっきまで彼の名前を忘れていたことは一度棚に上げて、天音は自信満々という顔で笑った。
「久しぶり、
思い出したばかりの名前を呼べば、少年は明らかにいぶかしげな表情になった。どうして天音が自分の名前を知ってるのかという不信感が表情にそのまま出ている。
「覚えてないのもしょうがないよね、だって幼稚園の頃の話だし。それに聖って確かすぐに村を出てっちゃったから、あんまり遊べなかったし、まあ私もなんだけどね?」
この前はどれだけ考え込んでも思い出せなかったのに、一度記憶の蓋が開くとするすると言葉が出てくる。
「………覚えてねぇっつってんだろ」
鬱陶しそうにそらした横顔に見覚えがありすぎて、やっぱり間違いないと天音は笑った
「変わらないね、聖は。相変わらず『寄らば切る』!みたいな目してる」
「うるさい奴だな」
どれだけ久しぶりの再会にテンションが上がっている天音を見ても、聖のテンションは全く上下しない。そんな様子が幼稚園の頃から変化がなくて、間違いなく子どもの頃に遊んだことがある人だ、という確信は強まる一方だ。聖は塩対応を通り越して無反応だけれど、この際そんなことは天音にとってどうでもよかった。
「よかった、聖はあんまり変わりなくて………もう、慧が変なこと言うからちょっとだけ心配になっちゃったよ」
あの時、池にやってきた聖を見て、穢れを背負っていると慧は言った。でもこうして聖と向き合っている天音には、慧の言う穢れなんて感じない。確かに幸せそうな雰囲気とは言い難いが、慧が祓わなければいけないほど危ない気配だとは思わない。
「慧の思い過ごしだったのかな………というか、もしかしたら村にいる間にちょっとずつ祓われたのかも。慧、ちゃんと神様しててよかった」
天音が安心感から屈託なく笑った、その時だった。
「………カミサマ?」
さっきまで鬱陶しそうな無表情を崩さなかった聖が、初めて天音を遠ざける以外の言葉を口にした。なんだかイントネーションがおかしい、カタコトの言葉だ。
—————まるで世界で一番嫌いな言葉を聞いたように。
「聖?」
その口調が不自然に聞こえて首を傾げて。その後に。
「—————ふざけんなよ」
怒りが滲んだその言葉と同時に、何が起こったのか、何をされたのか、分からなかった。天音も既に素人同然の実力しかないとは言っても、少なからず武術を習っていた。だから人の気配には敏感なはずなのだ。それなのに、まさか、と息を呑む。
「………聖?」
まったくこちらを構えさせないくらいの気軽さで、天音の首にカッターナイフの薄い刃があてられていた。
「ちょっと、何して、」
下手に喋れば喉が動いてうっかり肌が切れてしまいそうで、押し殺したような声しか出せない。さっきまでと暑さはまったく変わらないのに、天音の額からは冷や汗が流れている。
「ふざけんなって、言ったんだよ」
目に見えて動揺する天音とは対照的に、聖の手は寸分の狂いも震えもなく、こちらを見据える目も痛いくらいに冷静だった。
「カミサマって、なんだよ。何をふざけたこと言ってるんだよ」
「えっと、聖、その、危ない、」
「カミサマなんていない」
天音がどれだけ聖を落ち着かせようと声をかけても、そんな声なんて聞こえないと言うように、まるで当然の事実を伝えているとでも言うように、聖の声にも目にも何の感情も浮かんでいない。冷静というより空っぽだ。人に小さなカッターナイフとはいえ、曲がりなりにも凶器を突きつけているというのに、恐怖も罪悪感も浮かんでいない。全くの無感情のようでそれでいて。
「いないものの話なんてするなよ、不快だ」
吐き捨てるような言葉と蔑むような目の奥に、ありとあらゆる負の感情が渦巻いているような気がして、天音は少しだけ目を伏せた。見ていられない。だって少なくとも、かつて遊んだ時の聖の目の奥に、こんな暗い感情はなかった。
「わかったら、とっとと俺の前から消えろ」
一部の狂いもなく天音の首筋に押し付けられていたカッターナイフは、それでも皮膚を切り裂くことはなく下された。カチカチと音を鳴らしながら刃はしまわれて、そのまま聖のポケットに落とされる。
「………………」
凶器を突きつけられる緊張から解放されて、天音はおもわず公園の砂の上に座り込んだ。みっともないとは思ったけれど、身体が脱力して思うように動かない。
「それから、俺はお前のことなんて覚えてない」
それだけ最後に言い残して、聖は自分から公園の外に出て行った。その場に残された天音は麦わら帽子を胸のあたりに抱きしめて、ただ呆然と座り込む。さっきまでは静まり返っていた公園に蝉の声が戻ってきた。
「————天音?何やってんの?砂の上に座ったら、服が汚れるよ?せっかく白いワンピースなんだから」
聞き慣れた声に反応して公園の入り口に目を向けると、ラムネを二本手に持った風月がそこにいた。風月、言わなくても私の分のラムネ買ってくれたんだな、とぼんやり考えながら、小さく頷いてのろのろと立ち上がる天音。
「どうしたのそんなところで」
「………穢れに」
「えっ?」
「穢れに遭ったの………たぶん」
つうっと、天音の首筋を汗がつたう。風月が戻っていたせいか、聖が立ち去ったせいか、すっかり普段通りの様子に戻った公園で、流れた冷や汗だけが天音の出遭ってしまったものの証明だった。
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