第7話 彩られた漆黒①
建付けの悪い玄関の横開きの扉を両手で押し込みながら、中途半端にスニーカーに足を突っ込んだ天音は家の中に向かって叫んだ。
「行ってきまーっす!」
「天音?どこにいくんだ?」
じいちゃんに廊下に顔を出して首を傾げる。
「あ、えっと………」
途端に言葉に詰まって、どう返事をすればいいのか天音の頭の中を色々な言い訳がぐるぐると回転する。何を隠そう、天音は朝から一日中、池の中の異世界に行こうとしているのだ。もちろん風月と一緒に。昨日から決まっていた予定だから絶対に行きたい。しかし行き先を聞かれると、この予定をじいちゃんにどう伝えるか、適切な言葉が出てこない。
「今日は山に………お昼ご飯はいらなくて………夕方には帰るから………」
しごろもどろになる天音。ついでに目線をせわしなく泳ぐ。昔から嘘も誤魔化しも苦手だ。十人中十人が何か隠し事があると察する態度だ。そんな天音の様子を見て、じいちゃんはしばらく目を閉じて何か考えていたようだが、やがて一つ頷いた。
「少し待っていなさい」
それだけ言って背筋をしゃんと伸ばしたじいちゃんが道場の方に向かう。と思ったら、帰ってきた手には持ち運び用の袋に入れられた竹刀を持っていた。
「日が暮れると危ないから、これを持っていきなさい」
「じいちゃん………?」
差し出されたのは間違いなく竹刀だ。けれど随分前に剣道をやめた天音に竹刀を渡したところで、ただの棒でしかなく護身用にもならないことをじいちゃんは知っているはずだ。
—————天音がこっそり道場で練習していることを知っていれば、話は別だけれど。
「では、早く行きなさい」
「………はーい!」
ほんの少し迷ったけれど、受け取った竹刀を背中に背負って中途半端に履いたスニーカーのまま天音は外に飛び出した。勢いよく数メートル進んで、それでも少しだけ気になって、渡された竹刀袋の中を確認すると、その竹刀は天音が素振りに使っている物だった。
「………まさかね」
もしかしたらじいちゃんは、天音が隠れてやっていることを知っているのかもしれないと、ほんの少しだけ考えたけれど。天音は軽く頭を振って、そんな思考を払いのけて龍神池を目指して歩き始めた。
「
今日も変わらず鏡面のように凪いだ龍神池の淵に立って、天音はまだ新しいその名を呼んだ。漢字は明日までに自分で選ぶと言った慧は、それでもなかなか漢字を決めれることをできず、あげくどこから取り出したのか辞書まで引いて悩みこんだ果てに決まった名前だ。慧が嬉しそうに何度も伝えてくるから、決して常用漢字ではない、学校のテストにも出ないような漢字を、天音も風月もちゃんと書けるようになってしまった。
「君たちに呼ばれるために付けた名前なんだ。せっかくだからちゃんと覚えてくれよ?」というのは、得意げに笑った慧の言葉だ。言い分は分からなくはなかったから、天音も風月も苦笑いして慧という名前の書き取り練習に付き合ったのだけれど。
「………今日は早かったな」
そんな声と同時に湖面から水が盛り上がり、天音を頭から包み込んで池の中に引きずり込まれた。
池に呑み込まれた天音は、頭から水底に沈んでいく。息苦しくもなく、水の冷たさも感じない。ただ沈んでいくふわふわとした感覚だけがある。けれどその感覚も一瞬のことで、唐突に天音の体に重力が戻ってきた。
「痛っ、」
それと同時に、天音の体は固い板張りの廊下の上に落ちた。さっきまで幻想的にも見える水の中の世界を見ていたのに、急に竜宮城の廊下にいるのだから本当にどういう仕組みになっているのだろう。もう何回も繰り返した移動方法だけれど、不思議なことは不思議である。
「大丈夫?っていうか、何背負ってるの?」
「じいちゃんに木刀持たされた………っていうか、もうちょっと安全に下ろしてほしいよね」
「慧がいま、気もそぞろって感じだから」
「またか………」
少し早く到着していたらしい風月が、軽い足音を鳴らしながら廊下を歩いて天音の横に立った。 そして風月のその言葉で慧が今、何をしているかをきちんと理解した天音は息をついた
「おいでよ。慧なら今、遊んでるから。………いや、えっと、遊ぶ準備してるから」
踵を返す風月の後をついて、腰をさすりながら宮の長い廊下を歩いて。 廊下の横に大量に並んでいる障子の一つを風月が開けたので、その後を着いて中に入ると天音の予想した通りの光景が広がっていた。
「遅いぞ天音、もう準備万端だ。ほら早くそこに座れ、最初は三千円からスタートだぞ」
「うわ、すごい」
広い和室の襖を開け放ってボードゲームをするのに十分すぎる空間を作り出した上で、慧は早くゲームをしようと二人を呼んだ。和室の真ん中に広げられているのは大きな人生ゲームのボードで、これはそもそも天音の家の押し入れから引っ張り出してきたものだ。
「車の色は何色がいい?俺はもちろん緑色だ」
「じゃあ私は青色かな」
「え、じゃあ私なんだろう。赤色でいいかな」
車の色を選んで、人型のピンを一本立てて。やっていることは間違いなく人生ゲームだ。この屋敷の中が水の中ではないが、こちら側に来る時に一瞬濡れてしまうのはしょうがないらしく、広げられたボードはいまだにほんの少し湿っている。
「さあ始めるぞ………!」
きちんと正座をした慧が、身をかがめてボードをのぞき込む。着ているものが豪奢だから、まるで今から貝合わせか花札でも始めそうな雰囲気だけれど、実際はルーレットを回そうとしているだけだ。うん、似合わない。
「職業?というのは何にすればいいんだ?」
「うーん、年収が高い奴がいいんじゃない?次私………あ、フリーターだ」
「フリーター?」
「風月残念だね、私はアイドル」
「アイドル?」
首を傾げる慧はひとまず放置して、アイドルの年収を確認する天音。悪くないけれど運任せの収入だからお金は大切にしないと、と考えながら、「次は慧の番だよ」と促す。
「分からない職業がいっぱいだな、最近の世の中は。昔は農民くらいしかいなかったぞ」
「慧の価値観はいつの時代で止まってるの………?」
「人間の価値観が変わりすぎなんだ」
話している内容は神様のようなのに、人生ゲームに興じる手は止めない。寂しがりで大人数で遊ぶ新しいゲームが大好きで、でも話す内容はとんでもなく長い時を生きてきた神様のようなことなのだからどうにもちぐはぐだ。
「うん、このゲームは楽しいな。人の人生を知れるし、意外と容赦がない」
「あ、やばい家が燃えた」
「本当に容赦がないな!?それは大丈夫なやつなのか風月!」
「大丈夫だよ風月は火災保険に入ってるから………あ、私も家が燃えた」
「人間の人生はハードモードすぎるな!?」
人生ゲームにここまでのめりこむのは慧くらいだ、と天音も風月も思ったけれど、楽しそうに遊んでいる慧に水を差す気はないので生温かい目で見守るだけにとどめた。
「それにしてもこの部屋、あっという間ににぎやかになったね」
「うん」
今度は月に土地を買ってしまった天音がお金を数えるのを横目に見ながら、いっそ感心したように風月が呟いたので生返事をする天音。風月の言う通り、この広大な和室の隅の方には天音と風月が持ち込んだアナログゲームが大量に積み上げられている。
「………ありがとう、二人とも。外に出れない俺に付き合わせて、でもこんな風に遊んでくれて」
「そんな急にかしこまって」
今更だよね、と顔を見合わせて肩をすくめる天音。慧はこの池から離れることができないけれど、天音も風月もそれならば池の中で遊べばいいと池の中に三人で遊べるかつ水に濡れてもなんとかなるゲームを、持ってこれるだけ持ってきたのだ。慧はこれらのゲームが大変気に入ったらしく、毎日飽きもせず嬉しそうに、かつ人間の生活に思いをはせたり分からない言葉に戸惑ったりしながら遊んでいる。
「最初は逃げるなーって叫んだくせに、最近は殊勝だね、慧」
「あの時のことは謝ったじゃないか………天音は根に持つタイプだな?」
「根に持ってないよ!?っていうか、お礼を言うなら私たちもだよ」
ちらりと向かいに座る風月に目を向けると、株を買うか買わないかで悩んでいる風月は視線に気付いて顔を上げた。
「なに天音、私の顔に何かついてる?」
「いや?」
むしろ何もついていないと言うべきか。長い前髪をポンパドールにした風月の両目がよく見える。寿命が見えないこの空間だからこそできる格好で、俯かずに話している風月と一緒に遊べることが天音は嬉しいのだ。けれど。
「………慧の住処は涼しいから、夏場にぴったりだねって」
「おい、俺の神域は避暑地じゃないぞ?」
不本意そうな慧だったが、自分の番が回ってきたので再び身を屈めてボードに集中する。天音の失言に対する追及は後回しにするつもりのようだ。
「………っていうか慧、それ別に根付じゃないんだけど」
青色の目を少しだけ細めて、身を屈めた慧の帯の隙間から揺れるシルバーアクセサリーのドラゴンに目を向けた。
「あ、ああ、これか?」
「うん。それ、サービスエリアでよく売ってるキーホルダーなんだけど。しかも龍じゃなくてドラゴンだし」
「いいんだよこういうのは、もらえたことが嬉しいんだから」
「………そう」
風月が家にあったからという理由で持ってきたシルバーアクセサリーだが、慧はこれがいたく気に入ったらしい。何度「使い方間違ってるよ」と指摘されても、これは肌身離さずつけると言って聞かないのだ。正直、そんなに高いものでもない上に着物に似合う小物ではないけれど、こうも嬉しそうに大切に扱われては指摘し辛い。
「そんなことより早くルーレットを回せ天音、もうすぐゴールだぞ。俺は開拓地行きだけどな」
「じゃあお先にゴールしちゃおうかな!」
一さえ出なければ天音の一人勝ちだ。風月はルーレットの出目が悪いからまだゴールに辿り着くことができそうにない。アナログゲームだけれど遊んでいたら本気になってしまうものだ、祈りを込めてルーレットを回した、その時。
「………ん?」
不意に覗き込んでいた人生ゲームのボードに影が落ちた。
「何、今の」
ルーレットを回そうとした手を止めて天音が首を傾げる。この異空間には当然のように電気が通っていないので明かりが落ちるということはありえないし、他の生物がいるとも考えられない。それならなんの影なのか。
「慧、」
風月も不思議に思ったのか、口を開かない慧の顔を見上げて。出しかけた言葉がふっと喉の奥に消えた。
「—————どうしたの?」
二人が見上げた慧の顔は、さっきまで無邪気にゲームを楽しんでいた表情とはまったく違うものに化けていた。清廉な空気と遠くを見つめる両目が、まるでそう、神様のようで。
「………あぁ、すまない。誰かが空気を騒がせているようだ」
どこか遠いところを見つめていた慧の目が、くるりと自分の顔をのぞき込む風月の顔をとらえて、苦笑いのような表情を浮かべた。
「驚かせたかもしれないな。大丈夫、何があるっていう話ではない」
そう前置きをしてから何もない空間に片手を差し伸べる慧。するとみるみるうちに手のひらの上に水が集まって球体になった。その球体の内側に池の外の景色が映し出されているのを見て、やっぱり慧は不思議なことができるんだな、と感心する。
「へぇ、便利ですごいなあ………」
とはいえ天音の口から零れるのはそんなありきたりな感想だったのだけれど、それはともかく。 風月も近付いてきて水の玉の内側を見つめると、そこに人影がうつった。龍神池のふちに立ち尽くして、ぼんやりと龍神池の水面を見つめる少年だ。
「よく山の頂上まで来たね………こんな軽装で、しかも一人で」
「珍しいな」
風月の驚いたような言葉に、同意の言葉を返す慧。やっぱり珍しいことのようだ。ぼんやりと立ち尽くす少年は水の玉から見ても顔色が悪くて、どこか陰鬱な雰囲気をまとっているような気がする。
「………なんだか怖いね、この人」
見た目は天音や風月とそんなに変わりのない少年だ。どこにでもいそうで、年も近そうで。けれど普段はあまり細かいことを気にしない天音が気付くほど、この少年のまとう空気は暗かった。はっきりと、異常だと言ってしまっていいくらいに。
「さすがに分かるか。こいつはどうにも穢れを連れているな」
「穢れって、慧が祓ってるっていう、あれ?」
「そう、それ」
風月の質問になんてことない口調で答えた慧が、ふうと息をつく。
「さてどうしたものか」
慧がここに存在することで穢れや邪気という人間によくないものを祓っていることを、天音も風月も知っていた。けれど確か慧は。
「ここにいるだけで穢れを祓ってる………んじゃなかったっけ」
「ああ、よく覚えてるな。でもこれは………というか、この人間は少し、溜めすぎだな」
少しだけ困ったように顔をしかめて、慧は自分の手の上の球体に顔を近付ける。
「どんな経験をしたか知らないが、相当辛いことがあったんだろうな」
いたたまれないのか、風月が顔を伏せる。風月にも、もちろん天音にも、この少年がどれだけの穢れを身にまとっているのかは見えないし、どんな体験をしたか想像をすることもできない。けれど基本的に傍観する神様の慧がまるで同情するようなことを言うから、一人で池のほとりに立ち尽くすこの少年にこちらまで同情してしまったのだ。
「………あの子、どこかで見たことがある………気がするんだけど」
一方で天音は、風月とは反対に水の玉に思いっきり顔を寄せて首を傾げた。はっきりと映るわけではない水の玉にどれだけ顔を近づけたところで、ちゃんとした表情や顔の造りまでは確認できないのだけれど、もっとよく見たいという気持ちからだ。
「あたしは見たことないけどな?」
さらに天音より長く村にいる風月がそう言い切るので、天音はますます首をひねることになった。
「私が最後に村に来たのは幼稚園の時だったと思うから………うーん、思い出せない。他人の空似かも」
「あ、あたしがこの村に来たのは小学生からだから、幼稚園の時の話は知らないよ」
じゃあその時に会ったことがある人なのか、と考えている間に、慧が手の上に浮かべていた水の玉をあっさりと消してしまった。水の玉も池の外の風景も少年の姿もあっという間に霧散する。
「あんなに邪気を背負っていたら息が苦しいだろう。きっと泣くこともできないだろうに」
「それ、どういうこと?」
慧の言葉に反応して、風月が青い目を丸くした。
「悲しければ泣くよ。辛かったり寂しかったり、嬉しくても涙はでるよ?人間だもの」
言ってしまえば至極当たり前の、けれど当たり前に人間の論理を聞いて、ほんの少しだけ悲しそうに慧が微笑んだ。そんな簡単な話ではないと言うように。
「それは周りに人がいる時だけだ。一人で泣いても余計に寂しくなるだけならと、泣くことを忘れてしまう人もいる」
「………慧も、同じだった?」
天音に問いに慧は曖昧な笑みを返す。それこそが「諦めている」ような顔で、そんな顔をしないでほしいという気持ちが喉の奥までせりあがる。
「ああ、大丈夫。俺には今君たちがいるし、さっきの少年にも俺がいる。この村にいれば穢れを散らせてやれるさ、安心すればいい」
「なんだ、よかった」
少年のまとう陰鬱な穢れが慧のおかげで散らされることも、今の慧が寂しくないと言ってくれたことも、二人が胸をなでおろすには十分な事実だった。寂しくないと慧が言えば、まるで自分たちの寂しさが晴れたように嬉しくて、天音と風月は顔を合わせて笑う。
「そうだ。でも、しばらくあの少年には気を付けろよ?」
よっぽどのことはないと思うが、と前置きをしてから慧が口を開く。
「俺がここにいる程度では祓えないくらいの穢れも、存在することには存在するんだからな」
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