第6話 凪ぐ龍神の池③

 自分の服の袖を掴んで離さない青年、改め少年の扱いに困り果てて眉をひそめる天音。そもそも自分が殴ったせいで彼をこんな風にした、という負い目はあるが、風月に怪我をさせたのはやはり許せることではない、と思考が頭の中をぐるぐる回って身動きがとれない。さて、どうするのが正しいんだろう。 

「………何があったかしらないけど」

 そんな天音を見かねたのか、天音と少年の位置まで肩を抑えながら戻ってきた風月が口火を切る。明らかに縮んでしまった少年の頭の上に片手を置いて、落ち着いた声で続ける。

「あなたにも色々な事情があったんだね」

 そう言って今度は天音の背中にぽん、と手を触れさせる。

「それから天音、分かってるとは思うけど、私の怪我は大したことないから落ち着いて、ね?」

「うん………」

 怪我をしたのは風月なので、彼女に穏やかにたしなめられれば何も言い返すことはできない。昂ぶった感情がするすると落ち着いて、目の前でうなだれる少年と落ち着いて向き合うことができた。

「急に殴ってごめんね」

 謝罪は丁寧に。膝をついてうつむく神様の顔を下から見上げることで無理矢理だが目を合わせた。俯いた彼の口元はぎゅっと強く引き結ばれていて、まるで泣き出すことを堪える子供のようで、天音の罪悪感は増す一方だ。

「さっきはあんたのこと、ムカつく奴だと思ったの」

 だから逃げようとした。真面目に目を見ることもせず、踵を返して距離をとろうとした。

 けれど今、改めてその瞳を覗き込めば、さっきまでは見えていなかったものが彼の感情が見えてくる。二人を脅してまでこの場に留めようとした激情の裏に、置いていかないでほしいと叫ぶ寂しさが。

「どうして私たちにここにいてほしかったの?」

「………もう」

 うつむいたまま、固く結んだ唇はほんの少し震えながら言葉を零す。

「独りぼっちは、嫌なんだ………」

  その言葉がもうどうしようもないくらいの寂しさを湛えていて、それが今にも涙になって溢れそうで、天音も風月も口を開くことができなかった。あの激昂した口調よりはるかに穏やかで小さく頼りない声なのに、二人を引き止めようと叫んだ暴力よりもこちらの言葉の方が鋭く胸に刺さる。

「もう残されるのは嫌なんだ………」

「わかったよ」

 言葉が天音の口をついた。分かったから、もうそんな寂しいことを言わないでほしいという感情のこもった言葉だった。

「ちゃんとあなたの話を聞くから。でも、私の友達を傷つけることはしないで?」

「ここにいてくれるの?」

「うん。まだ、帰らない」

 その言葉でようやく顔を上げた少年の目を見て、その瞳が涙で潤んでいるのを見て。年端もいかないいたいけな少年を自分が泣かせたような気になって、天音は焦った。せっかく上げた顔を伏せさせるように両手で頭に触れてぐしゃぐしゃと絹みたいな触り心地の黒髪をかきまぜる。

「なに泣いてるの!神なんでしょ!?しゃんとしなさい、しゃんと!」

「うん………!」

 乱暴にごしごしと、手の甲でその涙を拭う少年は、天音に頭を撫で回されるままやけくそのような大声を出した。

「友達に怪我させてごめん………!」

「いや、私は大丈夫だよ。それから天音、髪がぐしゃぐしゃになっちゃうからやめてあげて?」

 落ち着いた口調で宥められ、天音は少年の頭を撫でていた手を離して半歩後ろに立つ風月の傷のあたりを確認した。確かにに傷自体はそんなに深くなさそうだ。切れた瞬間はかなり勢いよく血が出ていた気がするが、水の中だから血が目立っただけというのもあるのかもしれない。

「風月の怪我が大したことなくてよかったよほんと………」

 一つため息をついた天音は、自分の服の裾を掴んで離さなかった少年の手を今度は自分からとって、軽く引いた。

「立ち話も変だから、家の中に入れてよ神様」

 とにかくまずは、この泣き虫の神様を宮の中に入れて落ち着かせてあげないといけないだろう。


「さっきは取り乱してしまった、申し訳ない」

「ちゃんと話を聞かなかった私たちも悪いから、それはおあいこだよ」

 部屋の中に入って、さっきまで泣きじゃくっていた神様と向かい合い、正座して一礼する二人。開け放たれた和室はちょっと見たことがないくらいの広さで、三人で向かい合うのはなんだか落ち着かない。山の頂上にある小さな池の底にこの竜宮城のような空間が収まるとも思えないから、おそらく単純に池の底というよりは異世界のようなものなのかもしれない、と考える。気持ちはすっかり落ち着いてしまったから、この異空間にいることにあまり違和感は抱かなくなっていたものの、無駄に広い空間は単純に落ち着かない。

「安心してくれ、もう二人を傷つけるようなことはしないと約束する」

「分かったからもう少し近くに来てもらえないかな?落ち着かないよ」

 風月の言い分ももっともで、神様は二人に危害を加えないということを表明するためなのか広い和室の隅にいる。二人からは表情さえ見えないくらいの距離を置いているのだ。これはこれで話しづらい。

「そうか………二人がそう言うなら」

 そう言って、でも少し嬉しそうに、立ち上がった青年がようやく表情の見えるくらいの距離に近づいて座り直した。神様は既に先ほどの幼い姿から、出会った時の青年の姿に戻っている。

「しかしお前は、変わった目の色をしているな」

 ついでにあの上から目線な態度も復活だ。外見が精神に引っ張られるのか、精神が外見に引っ張られるのか微妙なところだが、それはともかく。

「お前じゃなくて風月ね。それでこっちは天音」

 律儀に自己紹介をした風月が、自分の両目を指差す。この空間に来て寿命が見えないことが判明してから、いつもかぶっているフードをとって目にかかっている前髪も耳にかけた風月の目は、遮るものがないからよく見える。

「私は死神の娘なの。だから目の色も、見えるものも人とは違う」

「なんだ、お前も神の末席なのか」

「だから風月だってば。それに私は人間の寿命が見える以外は普通の人間だよ………ここに来てからは寿命も見えないから、もっと普通」

 そう言って、風月はじっと天音の顔を見る。寿命が見えない視界なんて初めてなのだろう、普段は人と目を合わせようとしない、どころか顔さえ上げない風月がこうも顔を見つめてくると天音としては少し居心地が悪いのだけど。

「なんだ、自分のなけなしの神の力がなくなったことが不思議か?ここは神の領域だぞ?たかが半分程度の死神の血などないに等しい」

「………なるほど」

 片頬で不敵に笑う神様のことを、嫌な奴、と思ってしまったのは、天音だけではなかったはずだ。

 とはいえここで怒っていては話が進まないので、大きく息を吐いて落ち着いてから、天音は口を開く。

「じゃあそろそろ、なんであんな乱暴な手段で、私たちをここに引きとめようとしたのか教えてもらおうかな?」

 ちらり、と、包帯の巻かれた風月の肩に目を向ける。これは神様がどこからともなく取り出した包帯を巻いてくれたものだ。すっかり血は止まっていたから、風月は包帯は大袈裟だと眉をひそめたけど、神様はそんな抵抗ものともせず自分のやりたいように治療したのだ。

「ああ、その………まあ恥ずかしい話だけど、説明する義務があるからな………」

 神様は言いにくそうに前置きをしてから、畳の上で姿勢を正した。そして一つだけ咳払いをすると、緩やかに彼の話を語り始めた。


 最初に言っておくが、俺はこの池の龍だ。お前たちが俺をどう呼ぶかはよく知らないが、龍神、水神、神様………まあそんなようなものだ。とにかくこの村の天気を司る神だ。けれどもう一つ、この村を守護するのも俺の役割だ。邪気を払う………言い換えれば穢れを祓う守護の役割だな。

 穢れって何………そうだな人間の負の感情かな。憎しみや、怒りや、悲しみや、苦しみのすべては邪気になって穢れになって、澱む。そんな穢れが流れてくる。流れてくるだけならさして問題はない、でも穢れがこの村にたまり続けると、空気が悪くなる。元が閉鎖的な村だからな、溜まりやすいんだよこの場所。そうなると穢れに触れ続ける人間もも心が荒んでいく。そうなったらたまらないだろ?

 だから俺はここにいる。神という神聖な存在がこの場にいる。存在することで穢れが留まることを防いでいる。けれど………いや、だからこそ、俺はこの場所を離れられない。ここを離れたら、たまった邪気を祓うものはいなくなる。穢れが溜まれば災厄が起きる。人間には防げない災いだ。

 この役割があるから、俺は数千年間この池から離れたことはない。そもそもここは聖域とされて、生きた人間が近付くことは許されなかった。

 俺はこの場所にずっと一人きりで、話すための言葉さえ、忘れてしまうほどの年月を過ごしていたんだよ。


 神様が語り終えると、広い空間を沈黙が支配した。簡潔に話してくれたところで伝わる、気が遠くなるくらい長い年月の孤独の重みが、天音の心にも影を落とす。

(死に物狂いで引き止めようとするよね………そんな状況だったら)

 神様の感性が人間と同じなのかは分からないが、天音は人間の感性しか持たないから一人ぼっちの神様に同情してしまう。この広い空間で言葉も忘れるくらい独りぼっちで、ただこの場に存在することしか許されないなんて。

(私だったら耐えられない)

 天音の手を握ることもできず、少年の姿で服の裾を軽く掴んだ神の姿を思い出す。青年の姿に戻った神様にそんな面影は見当たらないが、置いていかないでと俯いた彼の気持ちに嘘偽りはないだろう。

 —————結局のところ人も神も変わらない。それはもう圧倒的な世界のルールで縛られて。どんな存在であっても『独りぼっちは寂しい』のだ。

 人の生活のそばにいた神様だからこそ、きっと幾千年もの孤独は辛かっただろう。

「………ねえ、あなたの名前はなに?」

 沈黙がいたたまれなくなったのか、風月が神様に尋ねる。

「あなたの名前」

「ない」

 しかし神様は、静かに首を横に振った。

「人に話す必要などない名前だ。だから考えてもいなかった。もしかしたらあったのかもしれないが、もう忘れてしまったよ」

「じゃあ………!」

 天音は思わず大きな声を出していた。風月の青色の目と神様の深緑の目が同時に天音の顔を見る。

「ミドリ………なんて名前はどう?」

 着ている着物が緑色だったからそう思っただけだ。名前の意味も読み方もこだわりはないけれど、名前を失った神様に名前をつけるという行為自体に意味がある。あまりにも単純な名前で申し訳ないと思ったけど、神様は顎に手を当てて真剣に考えて込んでいる。

「ミドリ………漢字はどうしようか」

「………次来るときまでに考えておいてよ」

風月の投げかけた言葉に反応して、神様は弾かれたように顔を上げた。

「また来てくれるのか?」

「うん………あ、えーっと、神様がここに呼んでくれたらの話だけど」

「それは勿論、」

 言いかけた神様が言葉に詰まる。その理由には触れずに天音は大きく頷いた。

「うん、だからまた明日。それまでに漢字、考えておいてね」

「いつまでも神様って呼び方じゃ味気ないしね」

 風月もそう言って、ウインク。両目が隠れていない時だけしかできない仕草が珍しいと天音が驚いている間に、神様は独り言のように、宝物のように呟いた。

「また明日………いい言葉だな」

 そう言って笑った神様の顔は、先ほどまでの寂しさにうつむく顔とは違って晴れやかなものだった。そんな顔が見えたのが嬉しくて、天音と風月も笑って。また明日、と手を振った。

 ————今日、友達がまた一人、増えました。

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