第5話 凪ぐ龍神の池②
「痛………」
鈍い腰の痛みに呻きながら、天音はゆっくりと目を開けた。最初はぼやけていた景色が徐々にはっきりと輪郭を持つ。そして天音は、ぽつりと呟いた。
「ここ、どこ………?」
自分が足を滑らせて龍神池に落ちてしまったことは覚えている。だけれど、ここはどう見ても池の底でも池の畔でもない。天音がこれまで見たこともない、全く知らない、竜宮城のような美しい宮だった。
いや、どう考えてもおかしい。さっきまで屋外にいたのに、目を覚ましたらまるで平安時代の貴族の家のような場所にいるなんて。歴史の教科書でしか見たことがないような場所にいたことが衝撃的で、一瞬だけ思考が止まってしまう。
「天音、大丈夫?」
「あ、風月もいたの………何これ?」
「私に聞かれても」
風月が隣にいたことに少なからず安心しながら現在地を聞いてみたけれど、地元にいる風月でさえこんな場所に心当たりはないらしい。
それなら当然、ここがどこなのか天音に分かるはずもなく、池に落ちたところから口に出して整理しようとする。
「池に引っ張り込まれたのは覚えてるんだけどなあ………」
「でもなんか、不自然な落ち方をしたような………」
「だよね!?」
勢いよく横を向いた瞬間、ぱちりと丸く見開かれた風月の目と天音の目が、合った。——————合ってしまった。
フード越しでもなく、正面から。深い海のような青色の目が、はっきりと天音の目を見据えていた。
「あっ………」
二人の口から同時に声が漏れる。
今、風月は天音の寿命を、その目でしっかりと『見て』しまった。相手のことを大切に思えば思うほど、命の期限を知りたくないと思う。人の寿命を知った自分が、動揺しないでいられる自信がないから。いずれ死んでしまう相手の死期を悟らせたくないから。だから風月はどれだけ暑くても、フードをかぶって前髪を伸ばして、俯きながら過ごしていたのだ。
それなのにこの事態に動揺して、二人は目を合わせてしまったのだ。
「ごっ………」
「ごめん」と。謝りかけた天音の言葉の頭だけがぽつりと落ちる。
—————しかし風月は、天音が予想もしなかったようなことを言った。
「………見えない」
「え?」
「天音の寿命が、見えない………?」
美しい色をした風月の瞳は、確かに天音を正面から見ている。それでも風月は天音から目を逸らそうとせず、代わりにごしごしと手の甲で乱雑に目をこすった。
「なんでだろ、こんなこと生まれから一回も………」
「嘘………?」
まだ状況が呑み込めず戸惑う天音に対して、風月はまるで別人のような明るい声ではしゃいだ。
「やっと天音の顔をまっすぐ見れた………!」
理由はまったくわからない。天音に分からなければ風月にももちろん分かっていない。でも風月がすごく嬉しそうだから、天音はとりあえず今はそれでいいと思った。
ただそれはそれとして、問題は何一つ解決していない。風月の感動に水を差すのも悪いとは思うが、とりあえず。
「で、結局ここはどこ?」
「………」
当然のようにこの疑問には誰も答えられない。その時。
「—————ここは俺の城だ。俺が、お前たちを呼んだ。」
天音でも風月でもない声。そしてひたひたと廊下を近付いてくる足音が。
こんな得体のしれない場所に現れる声の主だって、もちろん得体が知れない。どうすればいいのか分からず、天音と風月はとりあえず身を寄せ合う。
「ここは神の庭。この池に住む龍の神域だ」
ひたり、と。足音が止まった。
どこから現れたのかはっきりとは分からない。それでも廊下の暗がりから、一人の青年が姿を表した。この青年は着物を十二単のように重ね着して、それを緑の太い帯でしめている。くわえて床まで届きそうな長い黒髪に、こちらを見据える目も深い緑色。どう見ても、『普通の人間』には見えない。
————例えるなら、死神の娘である風月のような。
「あなた、誰、ですか………?」
風月を背に庇いながら天音が口を開く。青年はそれを聞いて、腕組みしたままにやりと口元に笑みを浮かべた。
「俺は、この池の龍だ」
「ひえ、」
驚きのあまり、ちょっとだけ息が止まりそうになった。変な声は出た。確実に出た。
いやだって、しょうがない。言い伝えはあくまでも言い伝え、伝説は伝説でしかないという先入観があったのに、まさか池の中に龍がいるなんて。
実際にはまだ「龍を名乗る青年」に出会っただけ、しかしこのよく分からない状況だ。特に身構えることもなく彼が龍だと信じてしまった。
「あ、あのっ………どうして龍が、私たちをここに呼んだんですか………?」
天音がおそるおそる口を開くと、青年はくっと線の細いあごを持ち上げた。その仕草は少し傲慢なものだ。
「そんなもの、決まっているだろう。池の底は退屈だから、遊び相手にしてやろうと思ってな」
「………………………」
長い沈黙。天音も風月も呆れかえってしまったための沈黙だ。つまり絶句。
いくらなんでも龍が、しかも池に竜宮城のような屋敷を構えて住んでいる龍が遊び相手を欲しがるだろうか? 神様がこんな子供みたいなことをするだろうか?
答えはNO。この青年は本当に龍で神様かもしれないが、こんな傲慢な奴と、一緒に遊ぶ気にはなれない。
遊ぶ時はお互いの了承がいるのだ。その法則からは神様だって逃れられない。
「………家に帰らせてください」
初めてこの青年の前で口を開いた風月の言葉は冷え切っていた。絶対零度と言ってもいい。わざとらしく丁寧な口調がさらに埋まらない距離を生み出している。
「それは許さない」
しかしこの神様も意固地で、二人が遊びを拒否することを許すつもりはないらしい。お互いに譲る気のないしばらくの睨み合いの後、天音と風月は同時に走り出した。—————彼に背を向けて、一目散に。
「逃げろっ!」
二人の声が綺麗にそろう。踵を返すタイミングも向かう方向も完全に一致していた。まさに阿吽の呼吸。
しかし二人が逃げていくことを、この神様は許す気がないようだった。 「逃げきれると思うなよ!」
青年、もとい、龍の神様が、二人の後ろから叫ぶ。地を這うような低い声と、背後から迫るよく分からない圧力に鳥肌が立つ。
それでも天音と風月は手を握り合って、振り返らずに広い屋敷の中を走り出した。青年はここを城と表現したけれど、やはり平安時代の平屋建ての家、豪邸と言った方が正しいかもしれない。
けれどそれはつまり、廊下を走り抜けて外に出ることは簡単だ。
「じゃあね!」
「あんたなんて、大っ嫌い!」
続けざまに叫びながら、二人は障子を開けて外に飛び出した。
「わっ、」
「えっ、」
飛び出した屋敷の外は水中だった。一瞬目を疑ったけれど、まぎれもない水。水草に白い砂。極めつけに二人の口からは泡がいくつも飛び出している。息は全く苦しくないのが不思議だけれど、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「あり得ない………けど息ができるならなんとかなるかな?」
風月が何度か呼吸して、声に出して確認すると同時に天音も外に飛び出した。服も濡れず、水の中特有の浮力も全く感じなかった。
息をするたびに泡は出るし、景色は水の底そのものだけれど、それ以外には地上と変わるところはない。それなら逃げるのに困ることはないだろう。
「待て!」
二人が飛び出した場所から、青年の声が聞こえる。振り返ってる余裕はないけれど、とんでもなく怒っていることだけは分かる。
どれだけ追いかけられても怒られても、止まる気はさらさらない。
「逃がさないぞ………絶対に………!」
青年の低い声と一緒に背中に殺意を感じる。何を言っているか分からない相手ではあるが、この異常空間になんてことない顔で立っている以上、普通の人間でないことは確かなのだ。そんな相手から殺意を向けられれば、冷や汗くらいは出るというもので。
「とにかく走って………、」
天音が口を開きかけた時。二人のすぐ横にあった石が突然砕けた。
「………えっ?」
振り返らず、一心不乱に走ろうと思っていたのに、思わず足を止めて背後を確認。屋敷の中に立つ青年の長い黒髪がばたばたとたなびいていて、その周囲には小さな竜巻のようなものが何個も発生している。
そしてどうやら青年から放たれているこの竜巻は、二人の方に向かってきてまるで脅すように周囲の岩を壊していたのだ。
「………………」
天音の背中を冷たい汗がつたう。誰だ一心不乱に走れば逃げ切れると思ったのは、と一瞬前の自分の判断を後悔するがもう遅い。
「あれが当たったら普通に死ぬね」
そんな天音の焦りを知ってか知らずか、冷静に分析する風月。
「ですよねぇ………」
青年の発生させる竜巻は気付けば二人を取り囲むように増えていて、下手に動くと本当にぶつかって死んでしまいそうだ。
「だから逃げるなと言ったんだ」
二人が飛び降りた縁側の部分から現れた青年が、強い感情のこもった眼で動けずに立ちすくむ二人を睨みつける。
「ずっとここに、いればいい!」
青年の激情と連動するように、竜巻が大きく成長する。
「危ない!」
それを見た風月が、竜巻に近い位置にいた天音を庇おうと手を引っ張る。それと同時に天音と風月の位置が入れ替わり、瞬間。風月の右肩が竜巻に触れてぴしりと裂けた。
「風月!!」
「痛………」
咄嗟に肩を抑える風月だが、肩から少しだけ零れた血がゆらゆらと水中に漂う。切傷だ、命に関わるものではない、と頭のどこかで冷静に分析しながらも、頭に血が上る。
「天音、私は、」
大丈夫だから、と続けようとした風月の声に耳を貸さず、周囲を威嚇するように取り囲む竜巻に怯まず、天音は大股で走って逃げてきた道を戻り。
少しだけ拍子抜けしたような顔をする青年の右頬に、思いっきり振りかぶった右手をぶつけた。
「いい加減にしなさいよ、あんた!」
渾身の力を込めてビンタをし、その衝撃で頬を抑えてうつむいた青年に怒鳴る。危ないことをした自覚はあるが、とりあえずは自分のやりたいことをした。してしまった、と言った方が正しいのだけれど、天音は後から後悔するかもしれないと思いながらも、彼を殴ることを優先したのだ。
「………………」
やり返されるかもしれないと身を固くして待ったが、青年は俯いたまま動かない。突然の天音の行動に驚いているのか、風月も特に何も言わないためこの異世界は時が止まったように静かだ。そして数秒後。
「あ、天音………竜巻が………」
風月の小さな声に反応して振り返ると、水底を埋め尽くそうとしていた竜巻がしゅるしゅると縮んで、消えていっていた。竜巻の消えた周りを見渡し、風月が安心したように肩を下ろす。それを確認して天音も胸をなでおろした、その時。
「頼む………帰らないでくれ………」
天音にぶたれた頬を抑えていた手が、今度は天音の服の裾を軽く掴んでいた。さっきまでは全身から怒りを溢れさせていたのに、こうして俯く青年の姿はとても頼りなく、小さく見える。気のせいかその姿も、青年というより少年と言った方がいいくらい物理的に縮んでいる気がした。
「置いていかないで………」
凪いだ湖面のように静まりかえった水底の世界で、天音の手を握ることもできずにうなだれるこの神様は、まるで迷子になった子供のようで。
「………どうするの、天音」
「どうするって………」
見かねた風月に声をかけられても、その小さな手を振り払って逃げてしまうことはできなさそうだと、天音は言葉に詰まってしまったのだった。
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